傷 (きず) 痕  - 勇次 - 3









 倒れ伏す死体からようやっと生気が抜けるかどうかというわずかな時間、秀は肩で息をしながら、 足元のそれに目を当てていたが、
「・・・」
簪を無造作に懐にしまうと後も見ずに踵を返しかけた。
「待ちな。そのまま行くつもりかい?」
 死体を挟んで背後に立つ三味線屋に低い声をかけられ、黒衣の細い背が一瞬動きを止める。 無言で振り向き、音を立てずに近づいてきた男に鋭い目を向けた。
 手を貸してくれと頼んだ覚えもないのに、とその底光りのする険しい目は物語っている。 礼の一つも言ったらどうだと強請られていると勘違いしているのだと気づいた勇次は、にやりと嗤って囁いた。
「そんなんじゃねぇよ。お前さんのその、傷をそのままにして行く気かと訊いたんだ」
 勇次の視線の先を追って、秀も思わず自分の右手に目を落とす。 たったいまの命がけの攻防の興奮のせいで、痛みも感じていなかったとみえる。 だらりと下がった右腕の手先から、ぽたり、ぽたりと血の滴が落ちていることに、 やっと気づいたような表情になる。かすかに息を吐いた秀が、 剥きだしの傷のやや下側である肘の辺りを左手でグッと掴んだ。 黒衣のせいで見えないが、手の甲にまで血の筋が流れてきているということは、 すでに血でぐっしょりと濡れているはずだ。
「見せてみな。とりあえず血を止める」
「―――余計な事するんじゃねぇ」
 勇次の言葉が終わらぬうちに、秀が鋭く遮った。一間ほどのあいだを空けて向かい合う仮の仕事人仲間同士、 無言でひりつく様な冷たい視線の攻防があった。
「・・・俺はおめぇを信用しちゃいねぇ」
「くだらねぇな」
「っ・・・。なんだと!?」
 目の色を変えてきた秀のいきり立つ声を、勇次は面倒くさげに首を横に振って遮った。
「オレにとっちゃ、おめぇがオレを信用しようがしまいが、どうでもいいことだ」
「!」
「そんなことより、このまま血を流して出て行かれちゃ、賊の足取りを教えてやってるようなもんだろ。 捕まるのはおめぇの勝手だが、こっちまでとばっちりを食うのはご免だぜ」
 物憂い淡々とした口調とそれを裏打ちする冷めたまなざしに、 秀の睨み付けてくる視線がややぐらつくのが見て取れた。ひたと視線を外さないまま勇次が前に出る。 秀の全身が固く緊張するのが気配で伝わったが、その場からは動かなかった。
 胸元をさぐって畳んだ手ぬぐいを取り出すと、勇次は無造作にそれを振って広げるなり指でつまんだ側の端を口元に持ってゆく。 何度も水をくぐって柔らかくなった繊維が、白い歯の先でビイッと音を立てて引き裂かれた。
 秀は無言でいたが、繰り返されるその音に正気を奪われたように、 一枚の布を包帯へと変えてゆく男に釘付けになっている。 包帯が出来ると勇次は何も言わず秀の様子を見ながら、いったん左手を袖の内側に入れた。 出したときには三味線につかう撥を掴んでいた。
「添え木があったほうがいいだろう」
 目で疑問を呈する秀に口のなかで答え、勇次は右腕をとった。
 思ったとおり血を吸ってジュクジュクになっている割かれた布のあいだから覗く傷は、 もはや血まみれで深さなどは分からない。が、白い脂肪が光源に反射して生々しく見えている。 侍の剣の腕はたしかですぱりと滑らかに斬られていることと、骨までは到達していないらしいのが幸いだった。 秀の俊敏さがこの程度の傷で済ませたということもあるだろう。 が、深手であることには変わりない。勇次は傷の裏側の二の腕に撥を添わせると、包帯を一周巻き付けた。
「!!・・・ぁくっ・・・っ!グッ・・・」
 一度締め上げると、ビクッと身を撥ね上げるようにして秀が呻いた。いまになって傷の痛みが分かるようになったらしい。 荒くなる呼吸にかまわず勇次は、効果的に止血出来る角度に傷口と割かれた布ごと、包帯を巻いては締め上げていった。 巻きながらちらりと表情を見ると、横を向き俯いた秀は奥歯を噛みしめて声を殺しているが、肩で激しく息をしていた。
(こんな手負いのまま消えるつもりでいたのか)
 内心勇次は呆れた。 もちろん、戻る途中で我に返り、至急血止めをしようとするには違いない。 しかし傷の場所が自分ひとりのしかも片手だけではなかなかやりにくいうえ、 すでにここまでの血濡れではどこかに一度身を隠してからでないと、夜出歩く者にどこで見とがめらるかも分からない。 あたふたやる間にもあまりにも血が流れ過ぎて、気を失う危険すらなきにしもあらずだ。
(無茶をしやがる)
 傷を勇次に指摘されてもなお、構うなと突っぱねようとしたこの男の意地が、 ばかばかしいと同時に痛々しくも感じられた。そのとき、『かわいそうに』という言葉がなぜか唐突に胸に浮かんで消えた。
 そんなことを思われているとも知らず、秀は痛みと場に立ち込める強い自分の血の匂いとに、 やや茫然として為すがままになっている。自らの手も秀の血にまみれた状態で包帯を巻き終えた勇次は手を放そうとした。 が、何かの感情が勇次のなかで動いた。
 力の入っていない右手を持ち上げ、それを自分の顔の近くまで掲げる。互い血に濡れた手の向こうに、 苦痛と緊張のせいか顔に汗を滲ませた秀の、ぼんやり見開かれた黒目がちの目がこっちを見ていた。
 勇次は何を考えることもなく、秀の手の甲に垂れた血の筋に舌をつけていた。緩く掴んだ手の中で、 ぴくっと秀の指が跳ねる。しかし勇次は構わずに舌を這わせた。
「・・・?やっ・・・。ょ・・・よせっ・・・!」
 妙に間延びした空白を経て、抵抗することをようやく思い出したように、秀が小さく叫び手を引こうとする。 勇次が掴む手に力を入れると、喉で鋭く息を呑んで身を硬直させた。
「―――・・・」
 唇を触れさせたまま勇次が上目遣いに伺うと、その険しい目尻がほんのわずかに滲んでいることに気づいた。
(かわいそうに)
 手を取り返すことも出来ずされるままになりながらも、きつく勇次を睨み付けている秀を見て、さっきと同じことを思った。





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