傷 (きず) 痕  - 勇次 - 2









 一度止んだ雨がまた降り出した。
 サァサァと風を伴うその音を聞きながら、 意識を手放すのとほぼ同時に眠りに落ちた同衾の相手を、勇次は飽かず眺めている。 癖のある黒髪が疲れ果てた額にも頬にも乱れて落ちかかり、くったりとやや首を勇次の側に傾けていた。 行燈の灯りのもと、陰影をもって浮かび上がるその姿はさながら生気の抜け落ちた人形だ。
(傷だらけの・・・)
 勇次は夜具すら纏う余裕もなく身を投げ出している痩身に目を走らせたが、 美しいというその一言が、考える間もなくあらためて胸のうちに浮かんだ。 陰間の少年ならともかく、れっきとした大人の男の裸をそんなふうに見る日が来るとは、さすがに夢にも思わなかった。
 咥えた煙管の端で唇を歪め、 それでもこの美しさはずっと、心の奥底で探し求めていたものだという確信があった。

 秀と勇次の邂逅は、いまは裏の仲間となった情報屋の加代が発端である。 どこかで喰い詰め落ちぶれて、乞食同然のていで江戸に戻ってきたものの、 再会した元仲間の八丁堀も秀も、すでに日常の平和に埋没しきっていて再び仕事をする気など微塵もなかった。 秀に至っては、細工の腕を見込んだ大店の婿養子にと望まれているとの話まで、本人の口から飛び出したほどだ。
 一度緩んでしまった気持ちの糸は戻らない、 今日死ぬか明日殺られるかと思いながら生きてゆくことにもう耐えられない。 そこまで正直な心情を吐き出した秀に、さしもの加代も強いて迫ることは出来なかった。
 仕方なく暮らしのために下手な門付けでもするしかないと、壊れた三味線の修理を頼もうとたまたま見つけた店が、 おりくと勇次親子のはりかえ処だったのだ。
 言いがかりをつけてきた芸者を、中年の女主があべこべにやり籠め追い払っている。 その場面を格子戸の外から目撃した加代は、何かの違和感を抱いてとっさに隠れて様子を伺った。 裏の世界で培ってきた嗅覚が、直感に訴えかけていた。 小さな店に不釣り合いなほどのただならぬ凄味を放つ女。 また、そんな女をおっかさんと呼んで苦笑するだけの若い色男からも、何食わぬ態度の裏側に潜む危険な匂いを嗅ぎ取った。 以来加代は、この三味線屋親子がひょっとすると仕事人ではないかとの目星をつけ、身辺を嗅ぎまわるようになったのだ。
 一方、母おりくが最近何者かに強請られていることに気づいていた勇次は、 このところうるさい気配を纏いつかせてくる化粧の濃い見知らぬ女が、その強請り主だと考えた。 三味線屋をまたまた覗き見しようとしている現行犯を背後から襲い、 小指に巻き付けた三味線の三の糸で拘束した加代を尋問するために、橋の下へと連行したのだった。
 女とはいえ裏の世界に身を置くならば、 自分が犯したへまのせいで指の一本や二本失くす覚悟がないはずがない。 しかし秀は、その加代を逃がすために駆け付けた。てっきり仲間だと思ったが、 その時点では秀はすでに裏稼業から足を洗っていたのだ。 後になって加代の口からその事実を聞いた時には、バカなヤツだと内心呆れた。
 いったい何のためだ。完全にこっちの世界と手を切りたいなら、昔の仲間だろうと見殺しにするだけのこと。 それが不文律だし、そうされたからと誰も恨む者はいまい。 堅気の商家の婿養子におさまって日の当たる道を歩きたいと思うのならば尚の事、心情的なものは割り切るしかない。 下手に動けば元の木阿弥、自らの首を絞めるだけなのに。
 惚れた女でもないただの以前の仕事仲間を傷つけさせまいと、 あの男は隠さねばならない素性を白昼の下でみずから晒してみせた。 だから勇次も、殺気を押し隠さず未知の仕事人と真っ向から対峙した。もちろんここでやり合う気はない。 この場での威嚇、これ以上オレたちに近づくなという警告だった。
 しかし、真っすぐに突き刺さってきた殺意を受け止めたあのとき、勇次の体を久々に息詰まるような震えが貫いていた。 死にもっとも近いまなざし、自らの死に対する恐れも忘れただ静かな闘志に燃える瞳の鮮烈さを、いまも忘れていない。 周囲の音や動きがふたりの外側で完全に静止した。呼吸ひとつ探り合う緊迫した状況であるにもかかわらず、 陽光を反射する水の流れのなかに立つ姿を、儚く美しいと感じた。
 まだ名も知らぬ仕事人のことが、目と心に焼き付いた瞬間だった。




 その武士は牛のように見えながら、よくいる鈍ら剣の使い手ではなかった。 重そうな丸い肩をのっそりと左右に揺らして歩く様子は鈍重にも見えたが、 厠に立つと見せかけて灯りの乏しい廊下に出たときにはすでに、男は侵入者の潜む気配を感知していたらしい。
 秀とて舐めてかかったわけではないだろうが、一度として周囲を確認しようともしない背中にやや肉薄し過ぎた。 音もなく背後に忍び寄る曲者を十分に引き付けたうえで、侍はやおら抜刀し、 重そうな体を旋回させながら横殴りに剣を払った。すかさず秀は後方に跳ね退(の)き、 均衡を崩して尻をつきかけたのを、背後に手を回して素早い動きで持ちこたえた。 それでも切っ先が布を切り裂く鋭い音がした。
 先に標的(まと)を仕留め、奥の間から出て来た勇次の足が一瞬止まる。 勇次は侍を挟んで廊下の端からその瞬間を見たのだった。
(ひでっ・・・)
 顔を合わせたときのやり取りではいつも『簪屋』と言っているのに、胸のなかでは無意識に名を叫んでいた。 腕を切られても秀は冷静だった。痩身を覆う黒衣の右肘の上あたりが斜めに布ごと切れ、 そこから肌色と生々しい鮮血が滲んでいるにも拘わらず。黒目がちの瞳がやや大きく見開かれ、 対峙する敵をひたと見据えている。
 おぼろな光源のなかに浮かぶ貌は死人のように血の気がなかった。 しかしそれでも尚、秀は侍に挑むのを躊躇してはいない。 侍もどうやらこの曲者がケチな物盗りの類いではないと悟ったらしい。勇次の見つめる前で侍の丸い背が伸びたように感じ、 殺気がじわりと辺りの闇に拡散した。
 無言のまますり足で侍は、秀の鼻先で長刀の切っ先を閃かせる。利き腕をやられた拍子に手元から落とした獲物の簪は、 迫ってくる侍の白足袋のほんの少し脇のところに落ちていた。 秀は白刃の猛攻をぎりぎりでかわしつつも、それを取り返す隙を狙っている。
 後退していた曲者がやおら腰を浮かせて自分に組み付こうとするかのような姿勢を取った時、 侍がほんのわずか身を引いた。 その一瞬の隙を逃さず、秀は自ら身を投げ打つと前面から跳ねて侍の足元に滑り込んでいき、 簪を掴んでそのまま脇に転がろうとした。
 しかし侍の動きも速かった。すかさず左手で脇差を掴んだかと思えば、 体は動かさぬまま抜いた刀を足元近くをすり抜けようとする黒衣の背中に振り下ろそうとしたのだ。 勇次の身体は何も考えずに動いていた。
 背後から飛んできた糸に、振り下ろすはずの手首を止められて、侍は怪訝そうに振り返る。 廊下の中央に踏み出した勇次が、侍をひたと蛇のような視線で縫い留めたまま、糸をぎりぎりと引き付けた。 秀がどこにいるかなど、その時には確認できる猶予もないが、
(いまだ)
 勇次の心の声と、侍の肩口に秀の黒々とした瞳が浮かんだのはほぼ同時だった。 間髪入れず、力の入らない右手を支える格好で手にした簪を両手でつかんだ秀が、 思い切り侍の後頭部の付け根にそれを突き刺した。糸を通じて、加えられた衝撃の強さが伝わった。
「かぁぁぁ!!!」
 妙に甲高い声を空(くう)に放った口と同じく、これ以上ないくらいに大きく目を見開いた侍は硬直したが、 何が自分の身に起きているのか分からないようだ。 ぶるぶると小刻みに震えつつも、両手に持った刀をそれでも振り上げようとする。しかしそれはすでに、 幼子がダダをこねて両手を体の横でばたつかせる拙い仕草と大差なかった。
 秀が己の体重をその一点にのみかけるように、もう一度侍の背に密着し、 やがて生々しい肉の擦れる音をわずかに立てながら簪を一気に引き抜く。 支えの芯を抜かれた巨体が前後左右にゆらゆらやじろべえのような動きを見せたあと、 侍は前側に大の字のままどさりと倒れ込んだ。





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