こうして見ていると猫という生き物は本当に不可解な行動をとるものだ。 高熱がなんとか下がり始めてからは、目を開けていられるあいだは見るともなしにチビを眺めて過ごすことになった。 勇次が言うまでもなく、大人しく寝ているほかすることがないのだから仕方がない。 見られていることくらい分かっていそうなのに、まるきりこちらを無視しているチビが癪に障りつつも、 その謎めいた生活様式やまるで重さを感じさせないしなやかで流麗な身のこなしなど、 観察し出すとつい気になって目で追わずにはいられない。 これまで裏の仕事を続けてきたなかで少しずつ秀の身のこなしも無駄が削ぎ落され洗練されていったのか、 自分で自覚がないままに、 組んだことのある仕事人のなかには秀のことを「猫みたいにはしっこいやつ」とか「動きが猫に似ている」などと評する者も出てきた。 勇次も先日、チビと兄弟みたいだと布団に潜った秀を見て笑っていたが、 それは秀が図らずもこの寝間で猫と二人きりで過ごすことになったことをからかって言ったのだろう。 実際の猫を目の当たりにしてみると、人間どんなに身軽に動けたとしても猫の動きのようには逆立ちしたってなれそうにないと舌を巻いた。 猫の動きを盗んでやろうと布団の陰からジッと睨んでいるのだが、 前脚のあいだに頭を乗せて寝ていたかと思えば何の予兆もなく出しぬけに四つ足で立つ。 風すら起こさない一瞬の動きを見ていて、畜生相手に情けない気にすらなった。 「おめぇが可愛い娘に化けて手ぬぐいくらい替えてやれるといいのになぁ。な、チビ」 様子を見に来た勇次が、にゃぁにゃぁと喜んで足元に絡みつく猫に話しかけるのを、秀はフンと横目で見て言った。 「もう冷やさなくても大丈夫だ。夜も昼とあんまり変わらねぇしな」 手を借りなければ立てなかった最初の二日を除いて、厠に行くことくらいはその後一人でしていたものの、 それだけの動作でぐったりと疲れ、布団に這い込む日々が三、四日続いた。体は休息を欲していたのだと認めざるを負えない。 昼間は安定した微熱に下がるものの、夜になるに従ってなぜか熱が上がってしまう。 今日は珍しく日が暮れてからもそう大差ないようだ。 「そりゃよかった。でもな、咳が出たとき背中くらいさすってやれたらちっとはマシだろう。どうだ、出来るかチビ?」 「いらねぇよっ」 仲睦まじい勇次と猫を見ているとほんとに化けて出そうで、 悪人より幽霊狐狸の類いの方がどちらかというと苦手な秀は慌てて口を挟んだ。 枕元に粥と薬を持ってきて座った勇次の膝の上に、チビは当たり前のように収まって、 秀がもそもそと食事するあいだ勇次に頭や背を撫でてもらっている。 心地よさげに目を細めて勇次の手に顔を擦り付け甘える仕草は、 まだ子供のようなそれでいてうら若い娘が拙く媚びを売っているようでもある。 たまに視線を感じて顔を上げると、ぱちりと開いた目でまっすぐに自分のことを見ていてギョッとさせられる。 とても同じ猫が取る行動とは思えない。 そのことを勇次に告げ口すると、 「おめぇに興味があるんだろ」 笑ってチビを見下ろし、長い指でそのやわやわとした喉元を撫で上げた。猫っかぶりの猫が指先をぺろりと舐めてお愛想をした。 「今までたいてい一緒に寝てたんだが、オレが部屋に連れていっても朝にはこっちに戻ってるしな」 「そりゃ、俺に興味があるんじゃねぇ。ここがてめぇのもんだと思ってるからだろ。第一、俺と一緒になんか寝てねぇし」 料理上手なおりくの仕込みか、勇次は台所に立つのがそれほど苦にならないらしい。 とき卵をふんわりと混ぜ込んだ粥を食べたおかげで腹の底にあったかい力が湧いた秀は、ちょっとごねてみた。 勇次がここに顔を出すのは一日のうち、そう何度もあることではない。 一つ屋根の下に住んでいながらゆっくり会話する機会はこうして夜しかないので、 療養に退屈し切った秀は少しでも時間を稼いで勇次を部屋に引き留めたいのだ。 「ひょっとするとチビのヤツ、俺に妬いてるのかもしれねぇな」 秀がつい漏らしたら、勇次はそれをひどく面白がった。 「猫ってのは思わせぶりにみせてその実たいして考えてもいねぇのさ。そのときの気分で態度も変わる」 まるで女の話を聞いているようだ。しかし勇次に言わせれば、猫の可愛さは人間の女のそれとは別物らしい。 どんなに突っ張った意気地の女でも、良い仲になればもっとべたべたしたところが出てくるものだ。 猫にはそれがないくせに、時には遠慮なしに甘えてみせる。かと思えば呼んでも知らん顔して気が済むまで独りでいる。 人間にはよく分からないが、猫の行動には猫なりのれっきとした理由があるのだと思わせる、それが飽きないのだと。 「それにこいつは貰われたときからずっと家んなかで育ってるからな。警戒心と興味とどっちもあるんだろう」 「そうかなぁ…」 もちろん口に出しはしないが、この部屋にこだわる牝猫が、 いつか自分たちの情事を見たのではないかという疑いを秀は捨てきれずにいる。 秀が気にするから勇次がチビを部屋から追い出すと、そんなときに限って不思議とどこかに行ったきりだっただからだ。 襖のこじ開け方がこんなにうまいとは、ここに住むまで知らなかった。 「秀。そんなにチビが気になるんなら、いっそ戻してやってもいいんだぜ? 三味線屋で猫飼ってるほうが妙だと言われるくれぇだからな」 勇次の店は糸の張替えや手入れを請け負う処であって、ここで一から三味線を造るわけではない。 しかし三味線に猫の皮が使われるのは周知の事実なので、つやつやと良い毛並みのチビを見たお客がギョッとすることもあるのだ。 猫を手放す気など心にもない勇次のからかいに、 「冗談じゃねぇや。そんなことより勇次…。俺、もう大丈夫だからそろそろ…」 言いかけた言葉を、膝元に目を落としたままの勇次が遮った。 「おめぇ、おとといもそう言って次の日熱がぶり返しただろ」 「そ、、そりゃあんときはっ。でも今日は粥も全部喰えたしかなり…」 焦る秀はそこで激しく咳き込んでしまった。胸からみぞおちにかけてが咳きするたびに刺すように痛む。 肩で息をしながら懐紙に血の混じった痰を吐いたあと、勇次の顔を見て口を噤んだ。 このところ勇次は目で秀を黙らせることを覚えたようだ。 仕事で無茶をすることについては仕方ないと考えていても、 自分を粗末に扱ったり過信するような行き当たりばったりの行動には、無言のひと睨みを利かせてくる。 少なくともここにいるあいだ、「もう大丈夫」と勝手に判断はさせないと。 何から何まで世話になってしまった秀も、通常ならお得意の「関係ねぇ」の一言で突っぱねられるが、さすがにそれは出来ない。 勇次の手厚い看病と買って来てくれた薬がなかったら、長屋でどうなっていたことか。 結局医者を呼ばれるか担ぎ込まれるかしたかも知れないと想像すれば、 こうして勇次のもとで匿われながら療養出来ている今のほうが、どれだけ幸せか知れなかった。 「早く帰りたいんならその酷ぇ咳を治すんだな。咳で胸が痛むようじゃまだ仕事にならねぇよ」 勇次は秀が早く依頼の細工物を手掛けたくて焦っていると思ったらしく、念を押した。 しかしいま受けている品は、まだ期日まで日がある。秀は帰りたいのかと自分にはじめて問うてみた。 そしてその答えが即座に応と出てこなかったことに、いささか不安を感じて勇次から無言で目を逸らした。 当然、迷惑かけて悪いと思っている。寝間を占領し、一日二度の食事まで用意してもらっているのだ。 独り身の男に仕事の合間こうまでかいがいしく世話を焼かせて。挙句には出ようとするのを引き留められる。 勇次は秀の葛藤に気づく様子もなく、まるで愉しんでいるかのようにこの奇妙な同居を自然に続けている。 そんな勇次につられて気が付いてみれぱ、七日まで数えていた日にちを数えるのをやめてしまっていた。 勇次には店の仕事のほかに出稽古の用もある。 秀と猫を置いて出かけるときにはひと声かけて行くが、 シンと静まり返った家のなかでチビと留守番をしているときにはなんとなく秀自身、ポツンと置いていかれた気になる。 置いてある洒落本や黄表紙を開いても、もともとあまり本を読まないからすぐに飽きてしまう。 だから戻ってきた音を聞くと、チビの耳や尻尾がぴくりと動くのを見る前にどきんと胸が高鳴り、 ただいまの声と共に襖が開くのを待ち構えてしまうのだった。 体というのは一度怠惰を覚えてしまうと、元の緊張感を取り戻すには努力がいる。 熱はほぼ下がったものの、咳はなかなかよくならない。真面目に薬を飲んでるのにと漢方医の爺さんの腕を疑いたくもなるが、 ゆっくりとしか効いてこないと先に説明されているからには、信じて服用し続けるしかない。 「いつまでも居ついちまって、ほんとにすまねぇな」 ある晩秀が、いつもの咳の薬を飲んだあと、手元の茶碗に目を落としたままぽつりと漏らした。 勇次は胸に縋りついて広い肩によじ登るチビの相手をしていたが、 「…謝られても何のことだかオレには分からねぇ」 その声の妙に沈んだ調子に、秀は目をあげてその青みがかった瞳と視線を合わせた。 「当たり前のことをしてるだけだからな」 「…これが当たり前のこと…?そんなはずねぇだろ」 秀は思わず気色ばんで訊き返した。 だれが好き好んで、ひとの吐いたあとの始末をしたり厠に連れて行ったり体の汗を拭いて、ましてや下帯の洗濯までしたがるものか。 だが勇次は軽く首を横に振った。 「惚れた相手が弱ってるとき何かしてやりてぇと思うのが、そんなに変かい?おめぇが謝らなきゃならねぇ筋合いは何もねぇはずだがな」 淡々と静かな声だったが、言葉は秀の胸に爪を立てるのに十分すぎた。 勇次の行為を何故と問うことは、その真心を疑うことなのだ。 その晩また、秀は少し熱を出した。勇次について出て行ったチビも今日は戻って来ない。 置いてある小盥に自分で浸した手ぬぐいで頭を冷やしながら、布団のなかで秀はゴホゴホと咳を抑え込もうとしていた。 勇次を起こしたくはなかったのだ。ようやく止まってハァ…とため息を吐いた時、チビの姿がふいに脳裏によみがえる。 勇次の膝の上は自分のものと思い込んでいる猫は疑問など持たないだろう。ここに居ていいのかなどと。 そうされるのがごく当たり前というように愛撫され喉を鳴らし気が済むまで甘えるチビのほうが、 よほど勇次の優しさを素直に受け取っている。 (だが…仕方ねぇ。俺は人だから…) 猫がうらやましいと、初めて秀は思った。 続
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