襖越し、三味線をつま弾く音色に合わせて艶のある唄声が聞こえている。 「そもや土橋の 渡り初め 逢い初めし夜が 縁じゃもの……」 習いに来ているのは深川のまだ新米の芸者で、気張った細い声を張り上げて後を付けて真似るのだが、 三味線も唄のほうも実力はいま一つである。 門外漢の秀にすら分かるくらいだから、教える勇次のほうは尚更そう感じていることだろう。 それでもやる気だけはあって二日おきに熱心に通ってくる娘に、勇次は根気よく付き合っていた。 もっとも娘のほうは長唄の稽古だけが目的というわけでもなさそうだ。 二言目にはお師さん、と甘えた声で呼びかけるのがやけに耳障りで、秀は読むともなしに開いていた読み本を投げ出すと、 布団に突っ伏した。うるせぇ、と口のなかで呟いてみてハタと我に返る。あちらさんは客、自分のほうこそ何様だ、何をやってる、と。 無為な時を過ごす退屈さにも馴れて、猫のように日がな一日を怠惰に送ることも特に苦痛ではなくなった。それが恐ろしい。 咳の薬がようやく効いてきたと見え、昨日の夜は激しい咳の発作のせいで起きることもなかった。 熱は平熱にまでほぼ戻り、ここ十日あまりも寝てばかりいたせいで頭が重く体が腑抜けたようにかったるい以外に、 まだ病だなどと言えそうな症状はもうほとんど見当たらない。 (…潮時だな) これまでも何度も自分に言い聞かせてきた言葉を肚のなかでまた呟いて、 片頬を布団に押し付けたまま秀は気怠い目つきで猫の姿を探した。 チビは意外に近いところに丸くなっていた。 ある時を境に秀の枕元に近い場所によく居つくようになったが、かといって懐くでもなく、いつもこっちに尻を向ける格好で座っている。 滑らかな背中がわずかに隆起する。寝てはいないらしく、 たまにピンと立ててみせる尻尾がいつまで居るつもりだと追っ払おうとしているようだ。 悪戯してやろうかと手を伸ばしかけたが、チビがもし悲鳴でも上げて店に聞こえたらまずいと思ってやめた。 奥に自分と猫以外の住人がいることを、勇次は誰にも気取らせない。 客が出入りするあいだは奥に顔を出さないのもそのためでもあったが、それ故かえって秀は、秘密裡に囲われているという感を強くして、 後ろめたいような優越感に浸ったような複雑な思いに揺れてしまう。 一度加代が訪ねてきたときもそうだった。あの素っ頓狂なでかい声が聴こえたときには秀はひやりとして思わず息を殺したのだが、 近頃秀の姿が見えないと話す加代に、勇次はまるでひさびさにその名を耳にした様な気のない返答をしていた。 「ピンの仕事でも入ったんじゃねぇのか?しばらく留守にするような…」 「それが…おっかしいんだよ、一度覗いてみたんだけど、旅に出るにしちゃなんていうか着の身着のまま出てったって感じの 散らかりようでさ」 流しに洗いものも置いたままだったと今になってハッとした。 それ以外にも、とにかく寒かったせいでありったけの着物を散乱させたり具合の悪さで何かに躓いてひっくり返したままだったりと、 散らかし放題で家を出てきたのだ。そのまま勇次の家で寝込むことになったのだから、あの惨状を見た加代が不審がるのも無理はない。 「ふーん。そりゃあよっぽど急ぎの出立だったんだろ。…ま、夜逃げじゃねぇのがたしかならそのうち戻るさ。 そりゃそうと加代、おめぇいま手は空いてるか…?」 しかし勇次は、詮索好きな加代の意識を逸らすような話題にさりげなく持っていった。 すなわち、なんでも屋の仕事をひとつふたつ紹介してやるという。 猫に鰹節、加代はまんまとそれに釣り上げられ、嬉々として店を飛び出て行ったのだ。 「さすが顔の広い勇さんだね!あの唐変木なんか隣近所のくせして何一つ紹介してくれた試しがないんだから」 思い切り自分の陰口を叩かれてるのを聞き、あとで部屋を覗きに来た勇次にむくれた面を見られて笑われる始末だ。 「そんなにいじけるなよ。一言多いのが加代だ」 「誰がいじけるんだよ。加代のやつ、一言どころじゃねぇだろ!自分だってお互いさまのくせに勝手なこと言いやがって」 咳にむせながらぶつくさ言いかけたが、妙に楽しげな勇次の顔を見て急に黙り込んだ。 「?どうかしたか、秀」 「…別に。なんでもねぇ」 物思いに耽るうちにいつの間にか稽古は終わったらしい。左様ならと挨拶をする娘を送り出すやり取りがかすかに聞こえている。 療養中、胸のなかに積もっていったさまざまに入り乱れた気持ちは、ひとりで抱え込むには苦しいまでに膨らんでいた。 滑稽なだけのあんななんでもない会話のなかですら、目を見交わす瞬間こみ上げる、泣きたくなるほどの切なさ。 誰かを想って流す涙は自己憐憫に過ぎずなんの意味もないと、そんな感傷を毛嫌いしていたはずなのに。 この衝動が何なのか秀には自分でもよく分からない。 まさか当の本人には訊けなかった。何故そんなに幸せそうに笑うのかとは。 それでもどこかで外に出さなくては、自分自身の想いに溺れてしまいそうだった。 「…なぁ、チビ…。おめぇと二人きりのときにも…勇次はあんな風に笑うのか?」 はじめて、秀はチビの滑らかな背中に向かって話しかけてみた。 「あいつがもっと見た目くらい冷たいヤツだったら良かったのにな…」 一度口にすればほろりと本音が溢れ出す。聞かせる相手が猫だからだ。猫に人間の心の機微が分かるはずもない。 それが秀を安心させ、珍しく素直な言葉を語らせていた。 「…おめぇはいいよな、ずっとここに居られて………。死んだら俺も…猫になりてぇ…」 猫に生まれ変わって、惚れた相手に飼われて暮らす。生きることに疲れてきた今の自分にはなんとも魅力的な空想だ。 どこにも行かず、勇次の気配を近くに感じながら日がな一日をのんびりと暮らす。 牡でも雌でも関係ない。勇次に恋人や妻子が出来たからと、嫉妬したり悩み悲しむこともない。自分はただの猫だから。 人間同士のように難しく取り合う必要はないのだ。誰がいようとふたりの仲は変わらない。 ただひっそりとそばに寄り添って、どちらかが先に死ぬまで一緒にいるだけだ。 「…なんてな。人殺しが生まれ変われるわけがねぇか」 身勝手なことを言いたいだけ吐き出してしまうとドッと疲れた秀は、それでも少しは気が済んで瞼を閉じた。 そのとき襖を引く音がして、人の踏み込む気配がした。音もなくチビが跳ね起きると身軽に駆けてゆく。 勇次が腰を屈めて喉をくすぐってやっているのを布団の中から見つめていた。 死んで行く先が地獄と決まっているならば、せめて今生で出逢えただけで幸せなのだと。 顔を見せた勇次に秀は湯屋に行ってくると宣言し、敷きっぱなしだった布団を勇次の止めるのも聞かずに、 中庭に干しに出た。 「おめぇがすっかり良くなったのは分かったよ。だからっていきなり床まで上げなくても…」 「部屋の掃除とてめぇの後始末くらいはさせてくれ」 視線を合わそうとせず俯きながら口にした秀に、勇次ももう何も言わなかった。 近くの湯屋は昼下がりという時間帯のせいで気持ちよく空いていた。 もともと体毛が薄いぶん無精ひげもたいして伸びていなかったが、とりあえず借りて来た剃刀をあてるだけで、気が引き締まる。 湯に関節のこわばった体を沈めると、最初は妙に底冷えしたがじきに温まっていった。 ずっとしつこく居座っていた寒気の塊がようやく芯から溶けてなくなるまで浸かって上がる頃には、 病み上がりだという弱気な気持ちは秀の中からすっきりと削ぎ落ちていた。 その夜の夕餉は、勇次と一緒に台所の小上がりで取った。 いささか湯あたり気味で食欲は湧かなかったが、勇次を安心させたくて秀は無理に二杯の飯を詰め込んだ。 「…今日まで泊まっちゃどうだい。久しぶりに動いて疲れたんじゃねぇか」 勇次が静かに口を開いた。二人は昼からろくに顔も見ずほとんど口を利いていなかった。秀は空になった茶碗を置くと黙って頷いた。 いまあらたまって礼を言ったり勇次と視線がぶつかったりすれば、うっかりどんな表情を見せてしまうか分からない。 ただ勇次の勧めを振り切る決心はとっさにつかなかった。 伏し目がちのままとりあえず食器を片付けようと腰をあげかけたとき。 にゃあと鳴き声がしてどこからかやって来た猫が、微妙な沈黙を破りふたりの人間のあいだに割り込んできた。 チビが秀の腰のあたりに胴体を擦り付けたあと、すぐ近くに座り込む。が、またしてもこちらに尻を向けた格好だ。 「…なんでこいつ、いつも俺に尻を向けて座るんだ?だったら近くに居なきゃいいのに」 最後まで親しくなれずじまいだったと、多少はチビを可愛く思うようになっていた秀は憤慨して呟いたが、 それを聞いて噴き出したのは勇次だった。 「違うぜ、秀。尻を向けるのはな…。チビがおめぇに気を許した証だよ」 「なんだって…!?」 「用心深ぇ猫がおめぇのことを信頼しきって背後を任せられると思ったからなのさ」 「まさか」 疑わしい目で秀はじろじろとチビの丸い背中を眺めた。チビは知らぬ素振りで尻尾を立てている。これもよく見かけた所作だ。 「その尻尾を立てるのも、おめぇに撫でてくれとせがんでるんだぜ」 「…そんなこと今さら言われても…」 今まで嫌われていると思い込んでいた分、真逆の真実を告げられても決まり悪いだけだったが、 秀は半信半疑のまま手を伸ばしそっとチビの尻尾のあたりを撫でてみた。 ビクッと身じろぎするかと思いきや、意外にもチビは何もないように静かに尻尾をゆるりと動かしただけだ。 何とも形容しがたい滑らかですべすべした手触りが心地よい。 ここに自分が居ることをチビが認めてくれた。ふとそう思った。猫に許されてホッとするなんて自分でも変な感じだ。 秀の苦しい胸の告白も、この猫はちゃんと聞いていて理解したのではないか。 素知らぬ顔して自分から不意に擦り寄ってきたチビの行動を思うと、少なからず救われた気になった。 たとえそれが楽になりたい人間の勝手な思い込みだったとしても。顔を上げて勇次を顧みる。 「ほんとに世話になったな…。ありがとよ…勇次」 呟いて秀は猫から手を離すと、勇次の視線を避けて照れくさそうに頭を掻いた。 秀は昼間風にあてた布団を敷いて奥の間に独り横になっていたが、目が冴えて寝付けなかった。 「……」 溜息を飲み込み、両腕で体を抱くようにして丸くなったとき、廊下で襖の開くかすかな音がして思わず耳をそばだてた。 心の臓がどきどきと脈打つ音が鼓膜を震わせる。何があるのかと固唾を呑んでいた。 「…秀。もう寝たか?」 ややあって自分の寝所の襖越しに、低い声が聞こえた。 「…。や…、起きてる」 襖が静かに開き、また背中で閉じられる。 障子ごしの冬灯りのかすかな光源のなかで黒い影になった姿を見上げて、思わず唇を震わせていた。 「な、なんだ?チビならたしかここには」 起き上がりかけるのを広い掌が押し戻す。 そのまま布団をはいで、無言で勇次の体が中に滑り込んでくる。 秀は動悸で息が詰まりそうになりながら、自然に体を横にずらして隙間を開け迎え入れた。 どうしていいか分からずつい背中を向けてしまう。 勇次が秀の洗いざらしの髪に軽く唇を触れさせるようにして、後ろから腕を回して抱き締めてきた。人肌の温もりが背中全体を覆う。 ずきりとする胸の疼きを秀はこらえた。 息を殺して固まっている背中にくす、と笑う小さな声。やがて耳元で囁いた。 「何もしねぇよ。…ただ一緒に寝るだけだ」 言葉にならず、秀は暗がりで目を固く閉じた。 不意打ちで涙腺が刺激されそうになったせいもあるが、 この時が永遠になればいいと何かに向けて祈る気持ちがどこからか沸き上がったせいでもある。 しばらく黙って互いの鼓動の連なりを感じていたが、 すんなりと重なった体同士、勇次の正直な反応に気づいたときには思わず笑ってしまった。 「なんだ…?」 「勇…おめぇの硬いのが、足に当たってる…」 勇次も笑ってギュッとさらに秀を抱きしめ囁いた。 「そりゃ仕方ねぇ。これだけくっついてりゃな」 聞くなり秀は急に身を捩って抱擁を振りほどくと、くるりと勇次の方に向き直っていた。 そのまま腕を肩に投げかけ首を引き寄せる。素早い動きに呼応するように長い腕が秀の痩せた背中を掬い取り抱き留めた。 二人は言葉も交わすことなく両腕を足を絡ませ、唇を激しく重ね合わせた。 「……今日んとこはこれで止しにしよう」 やがて勇次が唇のあいだから呟き、身を離しかけた。 「でも…?」 まだ息を弾ませたままの秀が問う。自分は病み上がりでさすがに勇次をいま受け入れるような体力はない。 しかし勇次には、なにか自分の出来ることをしてやりたかった。しばらくの逡巡のあと。 背中にまわっていた秀の手がするりと下に降りて、絡んだ足のせいで乱れた勇次の着物の裾の付け根に差し入れられる。 「秀」 下帯を押し上げている勇次の牡に触れ、掌にやんわりと包み込むと、布越しにもそれがまたたく間に反応を返すのが伝わった。 秀は自分のほうがそうされているように思わず息を喘がせ、こくりと唾を呑んだ。 それに手を触れたまま秀は布団のなかで上体を起こすと、下のほうにそっと屈み込もうとした。 その肩が勇次の手によって押し止められたとき、秀は驚いて暗がりのなかでも勇次の表情を確かめようと顔を上げた。 勇次は自分も起き上がり両手でその肩を掴むと、ちょっとのあいだ言葉に迷った後で低く囁いた。 「秀。おめぇの気持ちは嬉しい…。でもな、礼のつもりなら、…こんなことはしなくていいんだぜ」 一瞬呼吸を止める気配があった。しばしの沈黙ののち、勇次の胸倉を秀の片手が掴んでいた。 「…ばかやろ…っ。礼のためにするんじゃねぇや!」 闇に慣れてきた目で、白く光る秀の大きな瞳が自分を睨んでいるのが分かった。いつもの気の強い秀がそこにはいた。 「勘違いすんな…!してもらうばっかりじゃなくて…っ。俺がおめぇに何かしたいと思っちゃいけねぇのかよ!?」 「…ひで…」 「俺は人だ…。猫にはなれねぇ。いくらおめぇが優しくっても…もらうばっかりじゃ辛ぇんだよ!」 言いながら何かこみ上げて来たらしい激しい感情をむりやり飲み込みやり過ごした秀が、伸びて来た勇次の手を振り払う。 あべこべに勇次の胸を突いて布団に押し倒すと、ほとんど掠れた声で命じた。 「…もう何も言うな…勇次。お、俺がおめぇに、し…してぇことをするんだから」 手探りで頬に唇に指で触れられ、勇次の体を痺れるような官能が駆け抜けた。 匿った秀の面倒を看ながら、何食わぬ顔をして普段通りの暮らしを続けた。 思い返せばたった十日と数日だけの期間だったが、 猫しか知らないひっそりと静かで濃密な日々が、そのとき勇次の胸から修羅を消し去っていた。 このまま何もかもを捨ててふたりで生きて行けたなら。 ほんの束の間の儚い夢想に過ぎないという前提で、それでも勇次は秀の病が長引くことを密かに願っていた。 おそらく秀は、そのことを薄々感じてはいたのだと思う。チビに話しかけているところを、勇次は途中から聞いてしまった。 死んだら猫に生まれ変わりたいと言った秀。 人間ならずっと共に生きることが出来ないと、分かり切った口調で。 起きたときには、ここに居ることが当たり前だったはずのあの姿は消えていた。 布団のなかの一人分だけ空いた空間をそのままに、 白々と明けた部屋のなか久々の天井を見上げて勇次は、布団のなかでしばし夢の続きを追う。 秀の与えてくれた熱が寄りかかる肉体の重さが、体にも布団にもまだ消え去らず残っていた。 秀が未明にそっと起き出し身支度を整えてこっそりと出て行ったときも、本当は目を覚ましてはいたのだ。 それでも勇次はあえて反対の方向に寝返りを打ったまま寝入っているふりをしていた。 秀が出てゆく前に少しのあいだ自分をジッと見つめていたのが気配で分かった。 引き留めたい、離れがたいとはじめて誰かに対して、そんな執着が湧いていることに自分でも驚いていた。 ここを出て行ってもまたすぐに会おうと思えば会える。なのになぜ…。近くなればなるだけ、離れた距離を遠く感じる。 この不安、この胸の苦しさはどこから来るのだろう。 「…チビ?居るのか」 ふと思いついて頭を巡らせて探したが、秀と同様、足元に寝ていたはずの猫の姿も見当たらなかった。 了
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