カサカサと何かが動く小さな音。天井を鼠が歩き回っているのかと思った。 秀はぼんやりと目を開けたが、無理に押し上げた瞼のどうしようもない重さに、何度かまた眠りに落ちそうになる。 薄目で天井を見つめているうち、見慣れた雨漏りのシミのまだら模様がないことにしばらくして気づいた。 重たい頭をわずかに巡らし明るい方を見る。閉じた障子ごしに外の光を感じた。 夜でもないのに静かだ。どこからか人の声や物音は聞こえているが、長屋のようにあけすけでもなくどこか遠い。そうだ。 この部屋は中庭の隅にあった。 いま寝ている場所は自分の家じゃない。思い出した秀は夜具のなかで寝返りを打った。 とたん体の節々がきしむように痛んで、思わず呻き声を漏らしていた。全身を覆うこの怠さと関節の痛み。 それは秀の体がまだ高熱を持ち続けている証でもある。あまり目を開けているとまたぞろズキンズキンと頭が脈を打ち痛み始めた。 きつくて身の置き所もなかった最初の状態からは自分では少し良くなった気がしていた分、 がっかりして秀は、右の脇腹を下にぐったりと身を丸めると苦しい溜息を吐いて目を閉じた。 カサカサ、とまた小さな音がする。ここが勇次の寝間だと分かってしまえば、その音の正体は見なくても分かっている。 鼻をかむために置いてある懐紙と散らかった紙クズのあいだで牝猫のチビが一人遊びをしているのだ。 秀が勇次に押し付けた死に損ないの猫の赤ん坊は、すでに成猫ともいえる大きさにまで育っていた。 一時はよその家に貰われることにもなったが、いまは長旅に出ているおりくの機転で再び勇次の元に引き取られてきた。 いまでもチビの愛称で呼ばれたまま、三味線屋の奥の間に居ついている。 顔を出した昨日の夜にここで病みついてしまった秀がひとりで占領していると思いきや、 この寝間を根城にしているのはどうやらチビも同じらしい。 勇次が追い出してもいつの間にか自分で襖をこじ開けて舞い戻っている。 すっかり勇次に懐いたチビは、一応命の恩人ともいえる秀のことなどすでに忘却のかなた…という以前に覚えてもいないようだ。 時おり訪れる秀にもけっして自分に触らせようとしないほどの徹底ぶりで、 からかって二、三度引っかかれたことすらある。 いまもこうして一人と一匹でひとつ部屋に閉じこもっているが、チビはチビで気ままに過ごし、 熱に浮かされる秀の枕元をまったくの涼しい顔して跨ぎ去ったりもする。 この乙にすまし返ったところが飼い主にもどことなく似てきた気がして、ちょっとばかり憎たらしい。 (だから言わんこっちゃねぇ) 閉じた瞼の裏に、この屋と猫の主(あるじ)が呆れ顔で覗き込んだところがよみがえった。 無茶ばかりしやがると目だけで怒っている白皙の貌に向かって、 気の早い寒詣でだと強気にまぜっかえそうとしたが、もはやその力もなかった。 (仕事熱心もいいが、大事な体を壊しちゃ元も子もないぜ。 気に入れらねぇだろうがここで大人しく寝てるんだな。その分じゃどうせしばらくは腰が立たねぇだろ) 言いたい放題言いやがって、と燃えるような頭の隅で思った。秀にだって言い分はある。 今回の場合は仕方のないことだったのだ。 決行した仕事の的の一人が、予想に反し屋形船を下りなかった。 そのまま岸を離れようとする船に、とっさに秀は凍てつく冬の水のなかに入って取りついていた。 声には出さなくとも岸にいた仲間が懸念する気配がしたが、それぞれのつとめを完遂させるほうが先だ。 秀は暗い水に潜み、船が浅瀬から深い流れに乗ってしまうぎりぎりのところでようやく船頭を水に引き込むことに成功し、 続いて水音に何事かと顔を出した的と揉み合ったすえに仕留めたのだった。 こんな荒事を演じたあと岸まで泳いであがり、 ずぶぬれで寒風に吹かれながら人目を避けるため川辺を辿って戻るのは、若く頑丈な肉体をもってしてもたしかに辛い。 しかしそのときの秀は、金を受け取っていながら取り逃がしかけた的を仕留めたという達成感が先に立ち、 凍える寒さも水を大量に飲んで溺れかけたことすらも気にならなかった。 こんなことは今までだってたびたびやってきたし、今夜よりもひどい状況に留め置かれたこともある、と。 なんとかこっそりと長屋にたどり着いたときには、さすがに手足の感覚はほとんど無くよろめくような足取りになっていた。 着替えもそこそこに冷えきった体と湿った髪のまま薄い布団に横になったが、 寒くてなかなか寝付けなかった。とは言えいまさら起きて真夜中に火など熾し始めては、隣近所に怪しまれる。 秀は掘り起こした火鉢の熾火に炭をくべられるだけくべて少しでも早く暖を取ろうとした。 そして火鉢の前にうずくまり、薄っぺらい夜具を身に巻き付けるようにしてガタガタとひとり震えていた。 隣の加代の部屋からはコトリとも物音がしない。どうやら仕事のあと今夜は戻らずどこかにしけこんでいるようだ。 居たところで秀が助けを求めたり何かを頼んだりすることはないのだが、 長屋で唯一の仲間の不在はその夜の秀によけいな孤独感を抱かせた。 秀の様子がおかしいと気づいたのは、勇次だった。 仕事の翌朝には結局ほとんど眠れないまま寒さに耐えかねて早起きし、早々に竈に火をおこした秀だが、 その日は体から疲労と底冷えが抜けなかった。 なんだ良かった元気じゃないの、と戻ってきた加代の前では何でもないふうを装いつつ、 細工の仕事にかかろうとすれば悪寒と軽い眩暈が邪魔をする。 飯を喰えば回復するかと無理やり腹におさめてみたものの、体の重さは変わらなかった。 それどころか時間を追うほどにしんどくなってゆく。 品を得意先に届けた帰り、三味線屋に夕方ちょっと顔を出したときには、ただでさえ重い口を開くのも億劫だった。 「あとから覗くつもりだったのさ」 客足が途絶えた隙を見計らって、いつものごとくするりと入り込んできた痩躯を目にするなり、 勇次はどこかホッとしたように口にした。と同時に、気がかりな様子で形の整った眉をひそめる。 「おめぇが無事戻れたか、妙な胸騒ぎがしてたんだ」 手入れ中の三味線を脇に置きすぐさま立ってきた勇次の切れ長の艶やかな目元には、 秀の身を案じる気配がありありと浮かんでいて、 顔を見るだけでもいいと思っていたはずの胸に痺れのような疼きが沸き上がる。 「無事に決まってんだろ」 照れ隠しにぶっきらぼうに答えた顔に、なに一つ見逃さない静かな目が向けられる。 その時点で、秀は自分の顔色の悪さに気付いていなかった。 「まあそりゃそうだが。なんせ昨日は場所が遠いうえに風も強かったからな」 男のさりげない労りがかえってきまり悪い。 眠ろうにも眠れない寒さと心細さのなか、勇次のことを考えて過ごしていた。 迷わず暗い水のなかに身を沈めてゆく秀の動きに、ハッと息を呑むかすかな音を背中で聞いた。 体調のすぐれないなか、つい立ち寄らずにはいられなかったのもそれがどこかで気になっていたせいだ。 「…だから平気だって。こうしてツラ見せに来てやったからいいだろうが」 勇次がことさら押し殺すような秀の声に、軽く聞き咎めるような素振りを見せた。 「秀。おめぇの声、おかしくねぇか?へんに掠れて…」 「なんでもねぇって。もう帰ぇる、…じゃあな」 「なんでもねぇなら、ちょぃと上がっていけよ」 秀の腕をすかさず捉えて、勇次が言った。本心を見抜かれたように秀はわずかにうろたえた。 すぐ言葉が出てこずついきつい視線を向けたが、目の前の男は涼しい顔でそれを受け止めると秘め事を持ちかける口調で低く囁いた。 「わざわざ顔を見せに来てくれた礼はしねぇとな」 一緒に居たい気持ちと裏腹に、体は限界を訴えていた。 勇次の用意した簡単な肴を前に斜向かいに居間に座っていたが、秀の酒はなかなか喉を通らない。 勇次はそんな秀の様子をちらりと見やりながら黙って杯を手にしている。 「勇次…」 「ん?」 「…俺…やっぱり帰る。なんか…気分が悪ぃ…」 体の節々が妙に疼く。その疼きに合わせて背中に張り付いたままだった底冷えを強く感じて背筋を震わせたとき、 強烈な吐き気がこみ上げてきたのだ。無理に飲み干した杯を畳に置いた秀がついに口にすると、待ち構えていたように勇次が応じた。 「だろうな。おめぇがいつそれを言い出さねぇかと待ってたんだ」 「…。なんだと?」 吐きそうになるのをこらえ顔を上げて勇次を睨む。別にからかっているのでもない表情にどきりとした。 「来た時からおめぇは今にも倒れそうな酷ぇ顔色してたんだぜ。…オレが黙って帰すと思うか?」 「し…っ知るかよ、そんな」 青みがかった黒い瞳を間近で見れば、どうやら静かに怒っているらしいことが伝わった。 秀は思わず瞬きして逸らせた。それで分かった。勇次はわざと自分を引き留めたのだと。 勇次の手がふと伸びて自分の肩を軽く支えた。 なんでそんなことをするのかと振り払おうとして、秀はまるで岩のように体が動かせなくなっていることに気づいた。 「秀?おめぇふらついてるじゃねぇか」 平衡感覚が一瞬分からなくなり、周囲を見回そうとしてくらりと眩暈が秀を襲った。 頭全体が煮えるような熱に包まれていると感じたのは、今日のいつからだったのだろう。 不快な耳鳴りを感じながら何とか得意先に品を届けたときにも、まだここまで酷くはなかった。 いまは脈が響くほどの頭痛になっている。声がおかしいとさっき指摘された喉も引き攣れるように痛んでいる。 「…っ。ウッ…」 「おい…」 手で押さえたが間に合わず、秀は前かがみになったまま今飲んだ酒をすべてもどしていた。 ぱたぱたと指の端から吐しゃ物が零れる。 「す…すまねぇ、つい‥」 予期せぬ事態に秀は激しくうろたえたが、むしろ落ち着いているのは勇次のほうだった。 「いいから吐け、秀、吐いてラクになれよ」 背中に広い掌を感じたらなぜか気が緩んで、昨日から堪えていた苦しさがドッと決壊した。 秀はむせながら胃のなかに残ったものを吐き出すと激しく咳き込んだ。喉が切れたのか、渡された懐紙に血がついた。 寒気がぞくぞくと背中を這い上がる一方で体の内側から放熱するような感じもある。 脈打つたびに吐き気をもよおす頭の痛さに目を瞑っていたら、やがて濡れ手ぬぐいが頬に押し当てられた。 冷たさにビクッと身を引きかける秀に勇次が声をかける。 「そいつで顔と手を拭いたら寝床に行きな。いつもの部屋にな」 勇次がそっと襖を開けて中を覗くと、秀は布団を盛り上げるようにして丸くなり中でがたがたと震えていた。 枕元に膝をつき、顔を覗き込む。秀は目は瞑っているが朦朧とした声でかすかに呻いた。 掌を額に当てると秀が首を竦めてそれを振り払った。勇次の手をずきずきするほど冷たく感じたからだ。 「痛い…」 「そうとう熱が上がってるな…」 呟くと勇次は秀の苦しい息遣いを聞いていたが、耳元で囁いた。 「待ってろ。医者を呼んで…」 「…いらねぇ」 想像通りの答えが返されて、こんなときだが勇次は口元を笑いに歪めた。言うと思った。 秀は侍と医者は信用しないと頭から言い切っている。金をドブに捨てるようなもんだと。 かつて、心の臓が不整脈を引き起こし倒れた勇次の母を救うのに、医者を呼びに走ったくせにだ。 「意地を張っても熱は下がらねぇぞ、秀」 「…っるせー…。寝てりゃそのうち下がる…っ」 やれやれと勇次は首を横に振った。たしかに医者を呼ぶとなると金はかかる。 秀にあとで払ってもらうにせよ、本人が望まないものを無理やり呼んだところでこの頑固者はちっともありがたがりはしないだろう。 しかしこの酷い熱が本当に寝ているだけで下がるのかは、勇次にも判断がつきかねた。 「仕方ねぇ。…じゃ、こうしようぜ。医者は呼ばなくとも薬だけ買ってくるから、それくらいは信用して飲んでくれ」 「……」 「ゆうべのアレで冷えたせいだろうが、こじらせておめぇにここで死なれちゃオレが疑われる」 大げさとは思うが、このくらい言わないと秀には効き目がないだろう。 案の定秀は、布団に丸まったまましばらくハァハァと苦しい息を吐いていたが、 「…わぁったよ」 ほとんど聞き取れないほどの不貞腐れた声で返事したのだった。 おせっかいめと思いながらももう体は完全に、勇次の手に任せる気になっているのが我ながら面はゆい気分だった。 相当のことがなければ、たとえ裂傷を受けたとしても他人に頼らずなんとか処置してきた自分が、たかが高熱ごときで。 そうは言うものの秀の熱は下がらず、厠に行くにも勇次の腕を借りねばならないほどだ。 勇次はその夜、秀の枕元でチビとうたた寝をして明かしたようだった。 その翌日の昼に一度少し下がっては夕方になるとまた上がった。 鼻水はそうでもないが、胸の骨にひびくような激しい咳は咳き込むたびに体力を消耗するのでさすがの秀もまいった。 勇次が例のおりくの件で親しくなった漢方医から処方してもらってきた薬は、 効き目こそゆっくりだがその種の咳にも効くという。 秀の症状を聞いた老医師は、まさか寒中水に浸かって大立ち回りを演じたなどとは夢にも思わないだろうが、 どんなに若くて体力自慢であっても、積もり積もった疲れが元になって大きな病に繋がることがあると言ったそうだ。 漢医では病になる手前で予防することが肝要だから、 不調は体からの警句と受けとめこの機にしっかりと身と心(しん)を休めるようにと。 勇次から枕元でそんな話を聞かされた秀は、しかめ面で苦い薬を飲み干したあとも気に入らない顔をしていた。 「…疲れなんか別に溜まっちゃいねぇ。年寄りのたわごとだ」 「おめぇは人一倍丈夫なつもりでいるがな。やってるのは普通の仕事じゃねぇんだぜ…。体だけ使ってりゃ片のつく仕事でもねぇだろ。 そういう疲れは知らず知らずのうちに溜まるもんだぜ。身と心にな。老先生の片棒担ぐわけじゃねぇが」 口を開けばまた咳がはじまりそうで、秀はグッと喉元のくすぐったさを堪えて布団のなかから勇次を恨めしい目で見た。 「まあとにかくいまは熱が下がって歩けるようになるまでここにいるしかねぇだろ。オレにはおふくろの部屋もあるしな。 八丁堀と加代にももちろん秘密だ、悪いようにはならねぇ」 勇次はさらりとそんなふうに言った。秀は反発する気を殺がれて目を泳がせた。 いくら密かに心通わせ肌を合わせる間柄になったとはいえ、そうなってからまだ日は浅い。 これまでも何度かこの家で一夜を過ごしてきたが、離れがたくいつか夜が明けてしまったときを除いて、 秀が泊まったことはまだなかった。 「ちゃんと治らねぇうちに帰られてもな。おめぇが長屋で加代に看病されると思うと、こっちはどうにも仕事が手に付きそうにねぇ」 勇次は自分で言っておきながらニヤリと笑うと、額からずり落ちかけた濡れ手ぬぐいを取って小盥に張った冷たい水で絞りなおした。 これは冗談だ。加代に看病など頼めば最後、「おぜぜ、おぜぜ」と二言目には駄賃を迫ってくるのは必須だ。 治るどころかおちおち静かに寝てもいられまい。 気を遣わせずここで療養させようという、勇次ならではのさりげない申し出だった。 秀は無言のまま布団に深く顔を潜りこませたが、頬や目元のもやもやする熱さが熱のせいか、 いま不用意にドギマギさせられたこの男のせいなのか分からなかった。 熱のせいで少し黄色っぽく充血した白目とぼんやりと潤んだ黒目がちの瞳が、鈍い光を集めている。 いつもに増して大きく光って見える秀の目を覗き込むと、 「うん。そうしてるとおめぇはチビの兄弟みてぇだぜ、秀」 額に濡らした手ぬぐいを置いてやりながら、勇次が愉快そうに言った。 「ここにいる間はチビを見習って何もしねぇで休んでいな。こいつを眺めてるだけで案外面白れぇ暇潰しになるぜ」 続
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