その日も空は一日晴れていた。雲一つないというわけではないが、 夏の暑さの名残りと秋の涼しさとが日ごとに入れ替わる、この時期の変わりやすい空模様にしては、 このところ毎日似たような穏やかな晴れの日が続いている。 裏長屋でいつもと変わらず細工仕事に精を出していた秀は、隣人の加代が出かけて行く音を耳に捉えていた。 裏の仕事の時以外、加代とはそうしょっちゅう顔を合わせることはない。 たまに押しかけて来て断わりもなく上がりかまちに尻を据え、やれ金が無い、何でもいいから仕事の口はないかなど、 いつもの愚痴まがいの世間話をして行くこともあるが、秀はまともに相手もしない。 本人も秀の愛想の無さにはもう慣れっこで、気にする様子もなく一方的に喋り倒してゆくだけだった。 そんな加代がゆうべ遅く、久しぶりにちょいと顔を出した。 なかなか良い仕事の口にありついたと見え、見るからに晴れ晴れと陽気そうだ。 かねて旧知の小間物屋のおかみさんが、商用と息抜きを兼ねて江戸近郊の宿場町を数日かけて巡るので、 そのお供を頼まれたという。 「おめぇの馬鹿力を見込んでの荷物持ちかよ」 女だてらに何でも屋の看板をあげていると、こうした女の旅のお供の仕事が舞い込むこともある。 ちょっとからかってやったが、加代はフンと鼻を鳴らして頼もしいことを言った。 「そ。まとまったおあしが貰えるためなら、重い荷を背負ってよちよち付いてくことなんか苦労の一つにも入んないわ」 荷物持ちだけでなく、このお加代さんがいれば行く先々での宿を取るときや万が一駕籠を使うときの交渉にも役に立つんだ、 と胸を張った。たしかに加代の値切り交渉の腕前ときたら、 それ自体がひとつの見世物になるんではと思うほど鮮やかだ(強引すぎて喧嘩になりかけることもあるが)。 加えてこの底抜けの明るいお喋り屋ときているから、女旅の連れとしては心強くまた退屈する暇とてないだろう。 「それで用は何だよ」 なかなか終わらないお喋りに呆れて、秀の方からやっと話の継ぎ目に割り込むと、 「あ、そーよ。そのために来たんだった!あたしはしばらく留守にするから、大家が来たら家賃は戻ってからって伝えといて」 案の定、滞納していた先月分も含めて引き伸ばす戦法に出て来た。 「―――おい。伝えるのはいいが、俺はもう2度と!ぜっっったいに!立て替えてやったりしねーからな!そう覚えとけ!!」 以前にも度々この手口でまんまと踏み倒された分も、何だかんだと全額は返して貰えていない。 秀が舌鋒鋭く念を押したときには、 「分かってるわよ!ちょっと時間稼いでてくれたらいいんだから。じゃあねそゆことで〜よろしくぅ〜。いってきま――す」 まったく当てにならない軽い返事と白い手だけが、閉じかけた戸障子からヒラヒラと挨拶していた。 秀は加代が旅立った日、ふだん水瓶の後ろに隠すように置いている例の番傘を引っこ抜くと、 人目を憚りつつそっと部屋の外に出して立て掛けておいた。 三味線屋がやって来たのは、2日目の晩だった。 「クゥ―――!ぁっあっ・・はっ・・・ン―――ァァッ」 自分が符丁で呼びつけて、この遊び慣れた男に己の身を抱かせている。 そんな秘密を共有することになった勇次は、 そもそもは裏の仕事でやむおえず組むことになった一時的な仲間に過ぎなかった。 が、ふたりは今も一蓮托生の仕事人稼業を共にこなしつつ、人に隠れてこうして男同士で身を繋ぐ機会を、 細々と持ち続けている。 他の住人にも不可解な物音を聞かれやしないかと危ぶみながらも、 隣人が居ないと思うと、ここが出会茶屋でもないのについ声が上がってしまう。 勇次の方もそれを分かっていて、挿入した秀の肉奥の弱いところをこれでもかと攻め立ててくる。 毎度息を継げなくされるほどの最初の圧迫感は、じきに重くて甘怠い疼きとなり、 しまいには純粋で強烈な快感となって、秀の脳から思考も理性も剥ぎ取ってゆく。 身の置き所の無い切ない頂点へと何度も追い上げられる苦しさに、 逃げ場を失った身も心も白旗をあげて、ついには自分を獣に堕とした男に舌ったらずに懇願する。 「ンンン―――!ぁ…あも・・・そん・・っ…や・・・っ・・・・めっ・・っ―――」 闇の中で目を開けると、裸の広い肩口に引っかかった己の片足がぼんやりと揺れていた。 上体をなかば起てている勇次の首に片手を回して引き付けると、 荒い息を吐きながら覗き込む白く浮かんだ貌からも、ポタリと汗の一しずくが降りかかる。 それは汗ばむ自身の肌を上を転げてゆき、そのくすぐったい感触までもが秀のぎりぎりの感度を煽った。 「ぁぁ・・、もぅ死ぬ――ィ・・ク…!」 髪振り乱し何度目とも知れないあさましい言葉を口にしながら先に達すると、 その断末魔の硬直に応えたように勇次もまた、秀の中に最後の精を放った。 がくりと双方の身体の力が抜け、そのまま布団に倒れ込む。 熱い感触を残して勇次がやっと出て行った。あれだけ解放されたいと念じていたのに、 直に実体を感じていたものが自分の中からいなくなると、 急にみぞおちの辺りが心もとなくなる。確かに繋がっていたことを示すように、 どろりと内股にも腹にも、互いの残滓が派手に飛び散っている。その温もりがじきに冷たくなるにつれ、 心身の充足感は早くも不快な虚しさにすり替わってしまう。こうして逢ったあとのこの時が、秀は一番嫌いだった。 「・・・アレ?いつの間にやら雨だよ――」 仰向いた顔の上に両手を当てるようにして秀が呼吸を落ち着かせていると、勇次が呟いた。 まるで気が付かなかったが、宵の口のまだ早い時間に勇次の訪いを受けたときには降ってはいなかった雨の音が、 今ははっきりと聞こえている。あれから一刻は充分に経ったはずである。 傍らの熱い体が、軽い風を起こして身動きした。手探りで紙の束を引き寄せ、 自分の身に散った白いものを拭い去る音と気配がする。 やがて、ごわついた紙が肌の上を清めてゆくのを、秀は動かず黙って受け止めていた。 口を利かずにいると雨音だけがふたりの間を埋めてゆく。情事が終われば、勇次はほどなく帰ってゆく。 会話もなく始まる身支度。衣擦れを聞きたくなくて雨音に意識を絞っていると、 「―――雨だ、秀」 起き上がったまま、まだ動かない影が低い声で言った。 秀は無意識に息を殺していた。 わざわざ言わなくとも分かることを口にしてそこで途切れさせたのは、何事か思い付いたのかも知れないと思った。 秀もつい今、意識せずに頭の中に浮かんでしまった言葉があった。 遣らずの雨――― 続
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