遣らずの雨。 帰ろうとする人を引き留めるように降りしきる――― いま何か応えれば、この男がその先を教えてくれるんだろうか。 こうまでして逢い続けることの理由(わけ)を。二人の間に横たわる沈黙の意味を・・・。 そこまで考えておきながら、秀は思考とはあべこべの態度で勇次に背を向けてしまった。 「―――傘。あるじゃねぇか。おめぇの」 また沈黙。雨の音までがしんしんと耳に突き刺さるように、秀には感じられた。 「オレの?あれはおめぇに遣ったんだ。オレんじゃねぇ」 「違う。あれは借りただけだ―――。うちには生憎あの傘っきゃ無ぇから…ちょうど良いや、・・・持ってってくれ」 今夜に限って近所は何でこんなに静かなんだろう。 自分の鼓動が早まっている音すら背後の男に届いてしまいそうで、 低く淡々と言葉を吐き出しながら、秀はムリに呼吸を抑えつける。 いつもならばまだ子供の泣き声やら、千鳥足で戻る亭主の鼻唄くらい聞こえるはずなのに。 「―――。分かった。そうする」 やがて出し抜けにぽつりと応(いら)えが返り、秀は剥き出しの肩を思わず揺らしそうになるのをどうにか堪える。 身支度をする衣擦れの音を背中で聞いていた。身動きはしていないのに、心臓は痛いほど高鳴っている。 勇次が投げかけた言葉は、心の深淵に幾重にも波紋を広げていた。 が、秀には今しがた意識もせずにポッと浮かび上がった言葉を、 自分のものだと認めることすら出来ずにいたのだ。 だから反射的に、勇次からも自分自身からも目を逸らした。否、逃げ道を作ってしまった。 遣らずの雨。 今夜はこのままここに居て呉れ―――。 体の相性を口実に抱き合ってきた自分の矜持が、その一言で崩れてしまう。 関係が始まったときから、目の奥を覗き込むように視線を逸らさずに自分を抱いてきた勇次が、 何を想っているのか。自分から何を引き出そうとしているのか。 求められているものが何かと考えると、空恐ろしくなる。 きっと自分にはこれまで縁の無かった感情だ。勇次が如何にそれを求めようと、 (俺は信じることが出来ない。だから俺は―――誰のことも愛せない) 男が静かに出て行き、手にした番傘を開く音が戸障子ごしに聞こえた。 やがてバラバラと意外にも激しい雨音が傘を叩き、その音は遠ざかって行く。 秀は耳を抑えて固く目を閉じていた。これで終わった、これで良いんだと胸の奥で念じながら。 ―――それから何度か、裏の仕事があった。 仲間内での談合と仕事を仕掛ける夜と。 手を伸ばせば届くような距離ではないが、そこにはいつだって三味線屋が闇に紛れて佇んでいる。 だが今は、あの熱い肌も呼気も汗もどこにもない。 記憶までもが遠い。 あの符丁を失ったあくる日から、秀はまるで幽霊にでもなったようだ。 淡々と裏の勤めを、日々の職人仕事をこなしながら、だんだん自分が希薄になってゆく感覚。 とりとめがなさ過ぎて、毎日が同じことの繰り返しに感じられる。 哀しみや寂しさは無いが、かといって悦びもない。花や雲の動きや近所の子ども達を見ても、 凍結してしまった心は冷たい石のごとく、何の感情も沸いてこない。 あれだけ考えることなく自然に指先が動いていた細工仕事までも、 どこからか降りて来る閃きのようなものが消えてしまっていた。 秀が唯一真からの充足を感じられていた、創り出す喜び―――それすらもどこかに行ってしまったのだ。 (くそ・・・っ。なんでだ。たかがあんな傘一つ失くしただけで―――) 外目には何も変わらないのに、己だけが感じているこの無為無策の苦しみ。 寂しい方がまだマシと思える底のない虚しさ。 (何を心の糧にして生きてればいい?何の為に俺は生きてる?) 何もないと分かっていて水瓶の陰に、悶々と自問しながらまた視線を向けている。 秀ははたと、神経質に寄せた眉を久々に開いた。 (勇次―――。おめぇ) 他者と必要以上に交わらない暮らしをしていても、目を転じればその先にあの傘があった。 自分で手放した切り札の存在を、実は信じていたのだとその時はじめて秀は気が付いた。 (あの傘は。いや・・・あの傘が、おめぇの心だって言うのか、勇次―――?) 秀の手に託された一本の傘。勇次はあのときこう言った。 『わかっちゃいねぇよ、おめぇはまだ』 なぜ勇次は、ああして自分のことを見つめてくるのだろう。 水鏡のような艶やかな瞳の表面に映しこまれた自分の、 なにか心のもっと奥底にある、秀自身も自覚しない、知りたいとは思っていない部分を透過されている気がしていた。 しかし今。その瞳に覗きこまれる機会を失った今。 秀はより一層の孤独を感じるようになっていた。しっかりと目の奥を、誰かに捉えていて欲しいとすら思う。 誰か。それは今の秀にとっては、あの男をおいて他にはあり得なかった。 (逢わずにいる時にも、あの傘が俺とおめぇを繋いでる糸だと――だから、俺に遣ったと言ったのか・・・?) 秀は急に、居ても立ってもいられない心持ちになった。 煮詰まった挙句に勝手に思い至ったこの筋書きが、勇次の実際とは違っていたとしても。 自分にとってはあの傘とあの男との逢瀬が、どれほど大事なものだったかとこの喪失感を経て思い知らされた。 馬鹿みたいだと我ながら思ったが、今すぐ三味線屋に出向いて行って、 せめて一目なりと遠くからでもその姿を見たい衝動に駆られた。 (会いたい――。逢いたい) こんな気持ちになったのは初めてだ。 認めた途端、これほどの渇望が突き上げるように湧き出たことにも、自分自身が一番驚いていた。 勇次が見つめていたのは、秀の孤独だった。それは秀の愛情に飢えた心そのものでもあった。 続
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