みだれ傘 2-3







 そしてまた、夜。


 秀は市中に幾つかある、談合の為の隠れ屋のひとつに来ていた。 溶け出した蝋燭一本の灯がおぼろに揺れる中、加代が中央に置いた酒樽のうえに、古びた巾着からバラ銭をあける。
 小粒がいくつか混ざるだけの乏しい依頼料。だが、託された巾着に染みついたまま変色した鮮血に、 恩義ある主の仇をとって欲しいと告げるなりこと切れた憐れな元奉公人の老女の姿を、 その場に居る誰しもが思い浮かべていた。重い沈黙が一瞬場を制したあと、勇次がまず暗がりからゆらりと動いた。
 差し出した掌に加代が取り分を載せるのを、秀は見守っていた。 いつものように袖のなかに手を隠すと後も見ずにその場を去る。勇次の背が消える前に主水が動いて金を受け取り、 これまた重たげな半眼を闇に放ったまま秀の脇をすり抜けて行った。
「ほら」
 しばし呆然と立ち尽くしていた秀は、催促する加代の怪訝な小声に我に返る。勇次の幅広の背中に気を取られていたのだ。 そのことを自覚したとき。もう、それしかないと秀は観念した。
 どうかしたのか、と加代の目が灯下で問いかけるのを気づかぬふりして、取り分を受け取り忍び足で素早く踵を返す。 隠れ屋を離れる直後、背後でため息交じりに加代が蝋燭を吹き消す気配がした。



 町なかに続く辻の手前で、勇次はふいに足を止める。 ずっと後から付いて来ているのはいつもと違って気配を隠そうともしない分、途中から気づいていたのだ。
「―――」
 なんだ、と言おうとして言葉が出ず、勇次は無言で半身捻って振り返る。 思った以上に近い距離に秀が立っていたのが、意外といえば意外だった。
 見つかっても秀は自分も足を止めたきりで、少し俯き加減の顔を勇次の足元近くの地面に落として、彫像のように立ち竦む。 表情はまるで見えなかったが、今夜の秀には警戒心というものをほとんど感じなかった。 むしろ無防備とも言えるほどに、秀は頼りなく悄然とした気配を纏いつかせて、黙然と勇次の前に姿を晒しているのだ。
 勇次はちらと周辺に目を配り、まるでひと気がないことを確認すると体全部で秀と向かい合って立った。
「―――何かオレに用かい?」
 その低い声かけを待っていたように、黒い影の細い肩のあたりが軽く揺れた。 勇次はそれだけを言って沈黙する。いつも投げかけるのは自分の側だった。 己を偽ることが出来ないこの不器用な男が、この期に及んでいったい何を今さら、自分に告げようと言うのか。
(傘を突き返したのはそっちの方なのに―――)
 勇次の胸の呟きにあたかも呼応するよう、突如として秀が口を利く。低く押し殺した、しかし切羽詰まった声だった。

「か・・・、かさ・・・、かえ・・・返してくれ、勇次―――」

 黙ってその場に立ち尽くす三味線屋の長く伸びた影に向けて、秀は顔を上げてその白皙の貌に表れた反応を見る勇気もなく、 もう一度繰り返した。
「傘―――。おっ・・俺に・・・っ、返してくれ・・・っ」
「――――何故だ?」
 しばしの間を置いて、勇次が言葉を発する。 当然と言えば当然な問いに、秀の胸はギュッと限界まで絞り上げられた。 返して欲しいと言うことを考えていたが、理由を訊かれることまでは思い至らずにいた。 忘れたフリが上手い男のことだ。だから『何のことやら』とばかりにいなされてしまうかもと、 むしろそっちの方を想像していた。

「なんでって―――」

 秀はカラカラの口を薄く開いて空気を取り込む。耳で聴こえるくらいに動悸は高鳴っていて、 裏の仕事をする時とまた違った緊張に、血が全身を沸き立つように巡っている。 話を聞こうという勇次の姿勢からして、どうやら自分たちを繋ぐ細々とした糸は、 まだギリギリのところで切れずにいたらしい。 そっと瞼を上げてみれば、影になって見えない勇次の切れ長の目とかち合ったのを感覚的に捉えた。
(それでもどのみち、言わずにいられなかっただろう)
 ふと思った。
 さっき隠れ屋で、仕事の話よりも勇次に会ったことに気を取られていた自分に気づいたとき。 秀は今回の仕事を完遂させる前に、どうしてもこれだけはこの男に告げておかねばならないとハッキリと悟ったのだった。 互いにいつ命を落とすか分からないこの裏稼業。ならば尚のこと。
 あの傘を自分は取り戻したいと。命の続く限り、儚い日常が続く限りは、手元にずっと置いておきたいと―――

「お―――おめぇが先(せん)に持ち帰ったのは、・・・お、俺んだ」
 ようやっと絞り出すように秀が小声で告げると、やや離れた場所からでも男が詰めた息を解くのが伝わって来た。
「・・・おめぇは借りただけだと、オレに言ったが?」
 さっきまでとは少し異なる、注意深く探るようでいてどこか柔らかさを含む美声を遮って続ける。 この声が欲しかった。耳元で自分にだけ囁く、雨垂れみたいに胸に落ちてくるこの声が。
「違う―――。あ、あれはおめぇが俺に呉れた傘だ・・・!だ、だからもう、俺のものだ。・・・俺の傘だ、勇―――」




 そしてまた、秋も深まり始めた或る夜―――。


 たびたび三味線屋に立ち寄ってはムダ話に花を咲かせてゆく何でも屋の口から、またしばらくの間の不在を訊き出した勇次が、 加代が嬉々として宿場町巡りのお供に出立していったその日の晩、長屋を訪れた。
 ついに痺れを切らした大家の容赦ない取り立てに遭い、 加代の店賃まで払わされていた前貸し分をなんとか旅立つ前に返済させ、秀はホッとしているところだった。 夕飯時にひと気のなくなった路地を抜けてするりと戸障子の隙間から入り込んできたその長身が、 徳利を手にしていたのを目に留めるなり、
「ここんとこ金が無くって切らしてたんだ」
と嬉しそうに言った。 が、勇次が小脇に抱えた番傘を閉じた戸口の脇に立て掛けた時には、 何も言わずに目を逸らしていた。
 勇次は勝手に水場から湯呑を二つ取ると板間に上がり込む。 火鉢の火を熱心に掻き立てるフリをしている秀の膝元に、ことりと置いてやった。 無言でそれを見やり、次いで上目遣いに横目で勇次の顔に視線を移す。
「何だ、そのツラ」
「ツラ?」
「にやけるんじゃねーよ、気味悪ぃ」
 秀はいつでも、相変わらずの様子だった。


 重なり合うと、吸い付くように互いの体は一体となる。触れ合わずにいた期間がどれくらいあったのか、 抱き合ってみればそれすらも考えの範疇になかった。 何度か果てても心は貪欲に相手を求めて、離れがたく手足を絡みつかせたままでいた。
 秀は息も絶え絶えになりながら、勇次の求めにどこまでも応じている。 固く目を閉じて口も利かないまま、ひたすら情交に身を委ねている秀のどこか必死な様子が、 勇次の胸の奥をもやつかせる。まるで渇いた者がいっそのこと水の中に飛び込まんとするようだ。
「どうして――?おめぇはそうやって、ギリギリまで独りで抱え込んじまうんだろうな・・・」
 ようやく身を離して隣に横たわりつつ、勇次は独り言みたいに声に出してみた。 遣らずの雨。 真意を引き出したくて勇次の投げかけた言葉に、あの晩も秀はあくまでシラを切り頑なな態度で押し通そうとした。
 雨の中を無下に追い返そうとした背中は、語らずの声を発していたのに。 追えば逃げ、逃げれば時間はかかるがソッと追ってくる。己の求めるものが何かと気づいたとしても、 それに素直に手を伸ばすことが出来ない。 それが秀という男の性格だと言ってしまえばそれまでだが。
「おめぇの意地は哀しいよ。秀―――」
 失くしかけた符丁を取り戻すべく自ら行動を起こすまでしていながら、 今夜の必要以上に寡黙な秀は、そんな自分を恥じているようだ。 罪の意識をどうしても切り離せない一匹狼は、掴んだものを自分のものにしていいのだと、 心のどこかでは赦していないからだろうか。
 秀はさっきから勇次の囁きに声ひとつ上げない。 あの傘は俺のものだ、と押し殺した声で告げた時の秀がどんな顔をしていたのか確かめられなかったように、 今夜もまた、寂しい本音は訊き出せそうになかった。
「だがオレは・・・。そんなおめぇだからこそ放っておけねぇ。―――バカだと思うんなら嗤っていいんだぜ」

 勇次が自嘲気味にそこまで言ってからふと何かの気配を感じ顔を上げると、 今しがたまで目を閉じたままでいた秀が瞳を大きく開いている。 消さぬまま情事にもつれ込み、細々と乏しく灯る火の光に照らされて、その黒目がちの艶やかな瞳から痩せた頬にかけて、 煌めくような透明の筋が引かれているのに気づいた。
「・・・・・」
 半身起こすと手を伸ばして乱れた髪を掻き上げてやり、 秀と正面から視線を合わせてみる。厭がる素振りもみせず秀はただ大きな目を見開いて、 驚いて覗き込む勇次の瞳の奥を見つめているのだった。
 勇次が最初に逢ったときから意味も解らずに記憶の底に焼き付いた、 印象的なまなざし―――。 秀の真っすぐで透き通るような哀しみを湛えた瞳から、涙は次々に湧き出てきて、 自らの頬や唇や首だけでなく勇次の手をも温かく濡らしてゆく。
「・・・遣らずの雨・・・ここにあったのか―――」


 秀の両手が背中に回っていた。 急に、自分も泣きたくなるほどの熱い衝動に胸を衝かれ、声も立てずに泣き続ける秀を勇次は急いで深く抱き寄せ、 抱き締めた。
 雨は降っていなかったが、今夜は帰らず朝まで床に居てずっとこうしていようと思った。