夜の帳の降りた林のなかを、 白装束を着た旅の六部姿の男が乏しい月明かりのみを頼りに歩いている。 疲れた顔は焦りと緊張とで青ざめ、脂汗すら滲んでいる。 男は何者かの追跡を懸念するように、落ち着かなく上体を揺らし、ときおり後を振り返りながら先を急いでいた。 ―――と、男の行く手のさき、重なる闇の木立の奥に白くぼうとした影が浮かび上がった。 ぎくり、と足をとめるが、幽鬼のような影は一歩近づくごとにひと型をなし、 それはやがて三味線を小脇に抱えたひとりの女の姿になった。 「――――。やっぱりおめぇだったか・・・・・」 上がる息を抑え込むように男は掠れた声を絞り出した。 「おりく・・・」 見るからに粋筋の風体をしたその女は、 蝋人形と見紛う白皙の貌に一切の人間らしさを廃してそこに佇んでいた。 男をじっと見据えているのかその背後にある闇を見つめているのか、 凄絶なまでのその切れ上がったまなざしは微動だにせず、闇を吸い寄せるかのような黒々とした瞳を、 ただまっすぐと見開いている。 男の行く手を、小柄な女の放つ見えない巨大な沈黙がはばんでいる。 その沈黙には、相対するふたりにとって馴染みきった匂い―――制裁による血と死の―――が充ちていた。 「おりく、後生だ。・・・見逃すわけにはいかねぇのか―――?」 もう逃げられないと観念した男は、果たし合いの間合いをとることを端から放棄した。 そのかわり、女になけなしの情を求めて嘆願をはじめる。 「オレのことはもういい・・・。おめぇが追っ手に出されたいま、どうやったって逃げおおせるもんじゃねえ。 てめぇの始末はてめぇで付けたかったが・・・。どうやらそのいとまも貰えそうにねぇな」 カラカラに乾いてひび割れた声に、皮肉な嗤いが混ざる。 「だがよ。オレのことは仕方ねぇとして、あいつは・・・。勇次は、勇次だけは見逃してやっちゃくれねぇか?ええ?おりく・・・」 「・・・・・」 「あれには何の咎もねえ。そも、あのガキはオレの稼業が何かも知らねぇんだ。 オレがその稼業で欲掻いちまって、―――こうしておめぇみてえな元仲間から追われてるってことも、 何ひとつ知るわけがねぇ。オレが殺られるのはてめぇの勝手だが、あいつまで死ななきゃならねぇ道理はねえはずだ」 「・・・・・」 「ひとの親になったことのねぇおめぇに分かるかしれねぇが―――、 親ってのはたとえてめぇが死のうとも、自分の子だけは守りてぇと願うものなんだ・・・」 「・・・・・」 「おめぇだっておりく、いっときはオレと情を交わした仲だ。―――もしおめぇがあんとき、 オレと一緒になるって約していたら、・・・生まれてた子はおめぇにとって・・・あの勇次、 みたいなものだったかもしれねぇんだぜ・・・?」 その言葉に、無表情だった女の白すぎる頬の筋肉がほんのわずかに引き攣った。 かつて裏の仕事人として出逢い、そのなかで互いの存在を必要とするようになった にも関わらず、めおとになろうという男の願いを振り切り、姿を消した女。 それが巡り巡って、掟破りの仕事人の始末という形でふたたび目の前にあらわれるとは。 もうそう若くない女の、自分と別れてからの歳月がどのように細い双肩に降り積もっていったのか。 女の冷え冷えとしたいまの殺気を受け止めるだけでも、その過酷さは想像に難くない。 ただ、一切の情を消し去った切れ長の瞳のなか、かつて惹かれた深い孤独の色だけは幽かに読み取れた。 男は一縷の望みをそこに賭けたのだった。 だが・・・ 「―――――」 女は無言のまま、静かに袖口から三味線のばちを掌に滑り込ませた。さり・・・と一歩、枯れ枝を踏み込む。 夜目にも白い指が男の喉元を確実にねらえるよう、ゆっくりと胸元に持ち上げられてゆく。 「・・・わかったよ。それがおめぇの返事ってやつか・・・――――――!」 呆れたように首を軽く振って苦笑した男の形相が、その刹那ぎらりと豹変した。 サッとうしろに大きく飛び退くと腰を低く屈めて間合いをとる。 手にした修験者の錫の先に仕込んだ刃を小脇にかいこみ間髪入れず女の懐に飛び込もうとしたが、 わずかの差で女のばちの動きのほうが速かった。 「!!!・・・・・・・・・・・」 喉元に一閃、鋭く熱い風を受けたと男が感じたときには、視界を完全な闇が包み込んでいた。 返り血のひと筋も浴びることなく擦れ違いざま喉を掻ききった女は、男を振り返って見ることもない。 そのまま足早に立ち去りかけたが――――― なにかを察知して女はヒタと足をとめ、ハッとしてすぐそばの杉の大木の陰に身を寄せた。 だれかが来る。しかし仕事人ではなさそうだ。なぜなら気配はまるでだだ漏れ、 それどころか乱れておぼつかない足音まではっきりと聞こえてくる。 「――――!!」 女は息を呑んで、その正体を凝視した。 消えたてておやのあとを追って林のなかをさ迷う、みすぼらしい巡礼姿に身をやつした小さな男の子の姿を。 続
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