勇次が中庭の井戸端で洗面を済ませ、手ぬぐい片手に勝手口から入ると、 こぢんまりとしているが整然と片付いた台所脇の板間で、すでにおりくが朝餉の膳の前に座っていた。 「おっかさん、気づいたか知らねぇが、朝顔が柄杓に巻き付いてたよ」 斜向かいに座りながら勇次が声をかけるが、 「気づかないものかね」 お茶を淹れながら、おりくが物憂く返事をする。 「こう暑くなってくると水やりを忘れるわけにはいかないからね」 初夏の気持ちいい陽気から日に日に暑くなるこの季節、朝顔売りから買った鉢のひとつから奔放に延びる蔓が、 勢いあまって側に立てかけておいた古柄杓にまで絡み付いたようだ。 「あとで竹の棒にでも移し替えてやろうか?」 味噌汁を一口啜って勇次が言うと、 「あれはもう水が漏る古いのだからいいんだよ」 勇次に湯飲みをすすめると、自分のは掌にのせて、 おりくはしばしぼんやりと開け放した戸の外を眺めた。脇には使ったあとのたばこ盆がある。 いつもはおりくが自分の部屋に置いているものだ。 「・・・どうかしたのかい?」 「―――え?」 静かな声で訊ねられ、ふとおりくが顧みると、倅の青みがかった艶のある瞳がじっとこちらを見つめていた。 「今朝はどこか様子がへんだぜ」 「・・・そうかい?」 「なんだかうわの空にみえるよ」 「べつに何でもないよ。・・・ちょいと夢見が悪かったのかね」 おりくは勇次の視線を遮るように湯飲みを傾けた。 勇次もそれ以上は何もいわず漬け物に箸をのばす。 朝顔のこともだが、勇次は細かなところによく気がつく。しかし詮索されるのが嫌いなおりくの性格を理解していて、 こちらから何か言い出さないかぎり、何も言わない。おりくは勇次の気遣いにいつものことながら感謝した。 この子と一緒に暮らしてもう20年あまり、それぞれの旅空に離れていることもあったが、 じつにそれだけの長い時間を勇次と共に生きてきたのだ。 男と添うことも子を孕むこともなかった自分が、なぜかこうして、成長した血の繋がらない息子と二人、 朝餉の膳を囲んでいる。 あのときの夢を見たのは、何年ぶりのことだろう。もう二度と思い出すことはないと思っていたのに・・・・・。 「―――ところで今日はおたえちゃんのところには、勇さんが行くんだったね?」 気を取り直したおりくが確認すると、勇次がはたと箸をつかう手を止めて忘れていたという顔をした。 「そういえばそんな話をしたっけな」 「勇さんが自分で稽古を付けたいって言いだしたんじゃないか」 「そうだったな」 おたえは神田のとある長屋に暮らす12になる少女だが、 病みがちの母親に代わって明るく弟たちの世話をみながら針仕事に精をだす、という健気な娘である。 出稽古先に出入りしていた植木職の父親に頼まれて何度か稽古をつけてみたところ、 なかなか筋がいいので、勇次がきちんと教えようという話になったのだ。 そのわりに今日の勇次は、なんとなく気が進まない様子である。 「どうしたのさ?」 「え?」 「あたしに様子がへんだなんて言ったけど、勇さんもなにかおかしいよ」 「いや・・・べつに・・・」 おりくの鋭い指摘を受けて、勇次は罰の悪い表情を浮かべて残りの味噌汁を喉に流し込む。 「いろいろ直しの仕事が溜まってたから、うっかりしてただけさ」 「・・・ふぅん」 ご馳走さんと一声かけるとすぐに勇次は起ちあがり、そそくさと板間を出て行く。 それがおりくにはまるで、母親の目を逃れる子供のように微笑ましく映っていた。 ゆっくりと煙管に火を移して、おりくは久方ぶりのもの思いに耽る。 八丁堀、何でも屋のお加代、そして錺職人の秀らと組んであらたに裏の仕事をするようになってからこっち、 なかなかゆっくりと来し方を振り返る時間も、心の余裕もなかったのだ。 店の方は勇次ひとりに任せておけばよい。おりくは朝餉の片付けもあとにすることにして、 ぼんやりと紫煙の漂う先に遠い視線を彷徨わせた。 勇次は、少年の時分から目の特別に綺麗な子供だった。 粛清のあと、仲間のつてで子供の出自を探ったところ、男が格のある芸者に生ませたことが分かった。 その芸者ももともと武家の娘が家の没落を機に苦界に堕ちてきたもので、 そうした素性のせいか持って生まれた気品のようなものが、勇次には備わっていた。 おりくも一度芸者の行方を捜してみたが、上方の遊郭に探し当てたときは、哀れにもすでに気が触れていた。 美貌は母譲りで、口元を除いて面差しは男とはあまり似ていないが、 その声やちょっとした笑い方に抗えない血を感じる。そしてなにより勇次の気持ちの細やかさが、あの男に通じるのだ。 (あのひとはこの仕事を続けてゆくには心が弱すぎた) おりくは思っている。男と出逢い、組んで共に仕事を手掛けるうち、若かった二人のあいだには理屈では説明のつかない情が芽生えた。 そのときだけ肌を合わせる相手なら、いっときの孤独を埋め、 人間の業と罪を背負って生きる我が身を、一時的に逃避できる相手ならよかった。 自分たちの棲む裏の世界では望むべくもないことを、望んではならないことを、やがて男はおりくに求めた。 子供が欲しい。オレたちふたりの。夫婦になって生まれてきた命を育てたい、と。 だからおりくは男の元を去った。 (そのひとから、まさか巡り巡って子供を押しつけられるとはねぇ・・・) 突然目の前に現れた、たったいま己の手によって孤児(みなしご)となり果てた子供を見捨てて去ることは、 さすがのおりくにも出来なかったのだ。死に際して保身を捨て去った男の我が子への命乞いが、 やはりどこかで効いたのかもしれない。 放っておいてもいずれどこかでのたれ死ぬ命。それなら殺したつもりで面倒をみてみよう・・・。 なぜかそのときおりくはあっさりとそんな結論をつけて、少年を保護したのだった。 男の罪深い望みに恐れを抱いて去ったのは、かつての自分なのに。 これまでずっとひとりで生きてきた女が、いまさら子供など育てることが出来るだろうか・・・。 そんな懸念は勇次と共にある日々の忙しさ豊かさによって、じきに崩れ去った。 勇次は小さな大人だった。流れ者の父と旅をするなかで、子供なりの忍従と見識を培っていたのだろう。 父の仕事がなにかは知らされずにいたとしても、けっして明るい陽のもとを歩くようなものではないということくらい、 この敏い少年は肌で感じ取っていたに相違ない。 だからこそ、おりくはある頃から、自分の仕事を勇次には隠さずに打ち明けた。 下手に隠すことで、男と同じ末路を辿ることを恐れたのだった。 女手一つのこの稼業、いつ死ぬかもわからない。 最初に思ったように、のたれ死ぬか殺されるかの命だ。 それならばいっそ、あたしの手でこの道を生き抜いてゆける強い男に仕込んでやろうじゃないか・・・。 勇次は、父親よりもはるかに筋のいい感覚を持っていた。おりくは母としての愛情と同じくらい、 非情の世界に生きるすべを厳しく、勇次という美しい器に注ぎ込んだ。 若さに似ず独特の静けさに月のような孤独を纏うのは、勇次の歩んできた道がそのような人格を内面に育てたからである。 おりくは勇次にある種の誇りを抱くと同時に、つねに抑制の利かせられる醒めた感覚を持ち、 心からの笑みや感情をはじめから抑え込んでしまえる精神の強靱さが、 ときとして痛々しくも感じられるのだった。 そんな思いを抱くようになったのは、勇次に真実を打ち明けたあのときからだ。 加代という女につきまとわれ、裏稼業の身の上を突き止められかけた。 町方役人でありながら、裏では仕事人の顔も持っていた中村という同心に出会い、 中村が手がけている事件の下手人が、過去の因縁を手づるに現在おりくを強請ろうとしていた元仕事人だったと知るに至る。 その顛末から、中村率いる仕事人たちと、一時的に手を組んで仕事することになったのだ。 その際、どうしても下手人と自分たちとの因縁を勇次に説明せねばならぬ状況に陥ってしまった。 一生黙っているつもりになっていた生い立ちの秘密を、ついに勇次のまえに懺悔する瞬間がきたとき、 おりくは自らの死をもって償うことを覚悟していた。 しかし勇次は、おりくを手に掛けなかった。 衝撃と激しい怒り、深い悲しみ。言葉では言い表わせない錯綜する想いが、 真実を聞かされた瞬間の勇次の胸裡には嵐のように吹き荒れたはずだ。 それでも――――。やがて勇次は、涙をこらえた声で静かに問うた。 『オレにとってあんたはおっかさんだ・・・。違いますか』 寒い夜には胸に抱いて暖めてくれた。動かないおりくの背中に向けて語りかけてきたことは、二人だけが知り得る記憶だった。 おりくが全霊をかけて自分を育ててきたことを、実の父をわけあって殺害したこと以上に、 勇次はかけがえのない真実として受け入れたのだ。 そのときもう、おりくは何もこの世に未練はない。 思い残すことなどひとつもない、と胸の内で閃くように呟いていた。 自らの意志で引き受け長年引き摺ってきた重い枷が、ようやっと外されたという深い感慨に打たれ、 呆然とその場に立ちつくす他なかったのだ。 (あたしの命はいつだって、あの子のためにくれてやれる) かつて男がおりくを説得しようとして発した言葉が、 いまではおりく自身の言葉として、胸に刻み込まれている。 己の罪は消えないが、勇次への償いに一生をかけるつもりだ。 当の勇次は母の想いなど気づかぬ素振りをして、まったく以前と変わらない暮らしが続いているのだったが・・・。 過去の述懐から立ちかえると、おりくはたばこ盆の縁に煙管の雁首を打ち付け、灰を落とした。 膳の片付けに取りかかる。そこに、ニャァと小さな啼き声がして、勇次の部屋のわずかに開けておいた隙間から、 白茶の仔猫がするりと抜け出してきた。 「おや、チビ。そこにいたのかえ」 膳をふたたび床におろし、近づいてきた仔猫を抱き上げる。 ひと月ほど前、外出からおりくが戻ると、勇次が秀からの大事な預かりものだと、 この猫を差し出しておりくを驚かせたのだった。 「あんたもすっかり勇さんに懐いたもんだねぇ」 おりくが話しかけると、チビは意味がわかっているのかいないのか、絶妙の間合いでニャアと返事をして、おりくを笑わせる。 チビがやってくる少し前、勇次がおりくに生き物でも飼ってみればと提案してきたことがあった。 猫なら以前にも、上方にいた頃に飼っていた時期がある。 ここに来てまで、と乗り気でなかったが、それもいいかもしれないと気が変わったのは、 内心勇次のためにも良いのではないかという思いが、ふと浮かんだせいでもある。 店に勇次目当ての客は引きも切らないが、本人は至って淡々と仕事に精を出している。 好きな三味線の仕事でもあるし、客の相手や出稽古もそれなりに気に入ってはいるのだろう。 しかし勇次には、何をしていても何を見ても、どこか遠くからそれを眺めているような人間味に欠けるところがある。 人間味など、裏の仕事にはまったく無用のものではある。 しかし、おりくは我が身の過去を引き合いに出して最近とみに思うのだ。 他人の業をなりかわって片付ける仕事人こそ、己を見失わないための最低限の人間味というものは必要ではないのか、と。 そう思うのは、おりくには勇次がいたからだ。 最後にあの男と相まみえた頃、おりくは一切の人間味を失いかけているところだった。 技は冴え、仲間内でさえおりくのことを懼れるほどに、仕事人としての生にどっぷりと首まで浸かっていた。 思えばあのときすでに、殺しの傀儡(くぐつ)と化しかけていたのだろう。あと一歩遅かったら、 人としての則を踏み越えて外道の殺戮者の道へと進んでいたかもしれない。 それを勇次という少年を拾ったことで、仕事人と母の両方の役割を担うことになった。 救われたのは、おりくのほうだった。勇次には自分の危うく落ちかけた方向には、いって欲しくない。 そんな勇次は、たまたま秀が押しつけてきた猫を飼うことになってからこっち、 おりくの漠然とした思惑にまるで呼応するかのような、微妙な変化を見せるようになったのだから、 わからないものだ。 (それにしても近頃、あの子はちょっと様子がへんだよ) 猫に餌をやり、外に出ないよう勝手の戸を閉めながら、 「うわの空なのはどっちのほうだかねぇ」 と、笑いを含んだ声でチビに話しかけたのだった。 続
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