勇次、口をひらく 2







 秀が問屋に頼まれた簪を数本届けた帰り道、勇次を見かけたのは偶然だった。 掘割の対岸を、揺れる柳のした三味線の包みを抱えてすたすたと歩いてゆく。
 ちょうど向こう岸に橋を渡りかけていた秀は、遠目にもわかるスラリとした姿が目に入るなり、 思わず足を止めた。反射的になぜか背を向けてしまう。 このあと、ちょうど三味線屋に向かおうとしていたのだが。
 橋の欄干にもたれ川の流れに見入っているふりをする。 が、勇次は橋を渡らず、そのまままっすぐ行きすぎた。薄水色の細い格子の着流しに縹(はなだ)色の帯が映える。 あいかわらずいまいましいほど涼しげな男だ。
 行きすぎる娘がちらちらと振り返ってみる。勇次はというと、なんの感慨も持たないような 素っ気なさで淡々と足を運んでゆく。 それでもその裾のさばき方ひとつとっても、挙動のひとつひとつが自然に目を惹くほどに端正なことくらいは、 秀も認めざるをえなかった。
 帰る足で、預けた仔猫の様子を見に行くつもりでいたのだ。勇次が出掛けているということは、店にはおりくがいるのだろう。 もちろん仔猫も一緒に。
 仔猫はいる。でも、勇次はいない。勇次がいなくても仔猫には会える。
「・・・・・」
 しかし秀は、勇次の背中が辻の先を曲がって見えなくなると、無表情にくるりと踵を返して橋を元来た方角に戻っていった。
 一方。おたえの稽古を終えた帰り道、行きがけに通った柳のしたに差し掛かったとき、勇次はふと足をとめた。 何かを想うように橋のほうを見やり、そちらのほうに足先を向けかける。
「・・・・・」
 が、結局橋を渡らずに、勇次は元の道を歩きだした。その口元に淡い自嘲を刻んだまま・・・。


 戻ってみると、チビが出迎えてくれた。
「よう。ただいま」
 ニャァと一目散に勇次めがけて走ってくる、その小さな躯を笑って手のひらにすくい上げる。 手厚い世話の甲斐あって、チビは最初に持ち込まれたときとは見違えるほど元気になっていた。 いまでは柔らかな毛並みもきれいに生えそろい、見上げる大きな茶色の瞳が美しい雌猫だった。
 ちょうど店にはお客は誰も居らず、おりくも奥に引き取っているようだ。
「・・・・・」
 勇次は三味線を傍らに置くと、立ったままチビを撫でつつ話しかける。
「チビ・・・。おめぇのいのちの恩人は今日も来てくれなかったかい?」
 喉元を指先でくすぐると、チビは気持ち良さそうに目を細め、ゆるりとシッポを揺らす。
「もう10日近く顔を見せねぇとは、薄情な恩人だなぁ」
 通りに向けていつも少しだけ開け放している格子窓の外に、物憂く視線をとばす。 艶やかな瞳の表層がいつになく精彩を欠いていた。物思いを振り切るように軽く頭を振って低く嗤うと、 勇次は手の中の仔猫にささやいた。
「おめぇがなんとか呼んできてくんねぇか、チビ・・・」



 それから数日経ったある日の午後。 勇次が蕾を付け始めた朝顔の鉢を店先に出していると、 長い影が屈んでいる勇次のすぐ傍らに射した。顔を上げると案の定、無愛想なツラが見下ろしている。
「―――よう」
「猫、居るか」
 訊かずもがなだが、いつも以上に低い声で問いかける秀は、あきらかに照れくさいのを隠そうとしている。
「・・・さっきまで近くにいたんだがな」
 勇次は立ち上がると、なんとなく自分も秀の顔を見られずに先に立って店のなかに入った。 ちょっと間をおいて、秀もあとに続く。
「咲きかけの朝顔に手を出そうとするからまいったぜ」
 言いながらチビの姿をさがす。
「チビ?どこだ?おめぇの大事なお人が来てくれたぜ」
 秀がなんだそれは、というように眉をひそめたが、猫を探してうろつく勇次の広い背中を目で追うと、 首のうしろに手をやってかりかりとあたまを掻いた。ほんの少し、口の端に笑みが浮かんでいることに双方が気づいていない。
「なんだ。そこにいたのか」
 座布団のなぜか下に半分潜るようにしているのをやっと見つけた勇次が、チビを引っぱり出してつまみ上げた。
「ほんとにおてんばだぜ、こいつは。毎日かくれんぼだ」
 ほれ、と無造作に秀に差し出すのを受け取った。
「なんか前より急に育ってねぇか?」
「しばらく見ねぇうちに育つのは餓鬼と借金だって言うぜ」
 上がりかまちに腰を下ろして、不思議そうに猫を目の高さにかかげる秀の傍らに片膝をつき、 勇次は面白そうにその様子を見つめた。



(・・・・・やっぱり、ねぇ)
 気配を消して店先をのぞいてみてよかった、とおりくは胸のなかで独りごちる。
 珍しいこともあるものだと気になったのだ。 いつもはほとんど女客の声ばかり聞こえている店内で、勇次の声がいつになく聞こえてくる。 誰が来ているんだろう・・・。時折、自然な笑い声までする。
 誰に対しても同じ距離をおいた応対しかしない勇次が、 そんなふうにごく親し気な調子で話すような相手は、ほとんど聞いたことがない。
(ひょっとして―――)
 よもやと見当をつけたのは、おりくにとっても命の恩人である、あの若い錺職人だった。 果たして秀の細身の袢纏姿をふすまの陰からみとめたときは、
(やっぱり、ねぇ)
 おりくは妙にすっきりと、腑に落ちた気がしたのだった。 ここ最近の勇次の、どこか落ち着かない様子。醒めた目でそつなく世間様と付き合っているときとは違い、 どこかうわの空で、なにか別のことに心を奪われているような印象を、 おりくはときおり倅に対して感じていたのだった。
(猫が必要だったのは、やっぱり勇さんのほうだったんだ)
 おりくは談笑する二人に気づかれないよう、そっとその場を離れた。




 帰り際、
「秀」
ふいに背後から名を呼ばれ、秀は勇次をちらりと振り返った。
「なんだよ?」
「いや。また来いよ」
 勇次が照れたように笑って言った。
「―――なんだそりゃ。今日来たばかりだろ」
 背を向けようとするが、穏やかに見つめてくる瞳に掴まり逸らせなくなってしまう。
「また来てくれよ、秀」
「・・・・・」
 じわっと頬のあたりに熱が這い上ってくる。秀は赤みの射した顔を見られまいと伏し目になり俯いた。
「どうした?」
 勇次がつと手をのばし、秀の頬に触れようとした。驚いた秀が弾かれたようにそれを避ける。
「勇次。おめぇ」
 咎める声に勇次が一瞬息を止める。秀とは対照的にその貌は急に蒼褪めて見えた。 二人は至近距離で向き合ったまま、互いに困惑した視線を慌ただしく交差させた。やがて口火を切ったのは秀の方だった。
「――――誰にでも、そんなふうにするのかよ」
「・・・誰にでも?」
 どこか呆然と人ごとみたいに聞こえる声音に秀はカチンときて、赤い顔を隠すことも忘れて勇次を睨み付けた。
「俺はおめぇの客の女どもじゃねぇ。嬲るなら承知しねぇぞ」
「嬲ってなんかいねぇよ」
 即座に勇次も秀を睨み返したが、なぜか苦しそうな表情になりくっきりとした白い瞼を伏せる。 思わぬ反応に秀はたじろぎ口を噤む。 ややあって目を上げた勇次が、ほとんど吐息に近い押し殺した声で囁いた。
「オレは・・・。どうやら惚れちまったみてぇだ・・・おめぇに」
 秀の黒目がちの瞳が見開かれる。聞き違いかと嗤おうとしたが、勇次の強く光る眼差しに捉えられて声が出せなかった。 無言で後ずさるが、戸口と勇次のあいだに後退を阻まれてしまっている。
「ば・・・ばか言うな・・・・・そんなこと、信じられるか・・・・・・」
「だろうな。オレもずいぶん―――ここのところずっと・・・てめぇがてめぇで分からずに悩んでたよ」
「―――――」
「でも、な。今日おめぇの顔みてわかったんだ・・・。もう認めるしかねぇと」
「・・・・・」
「・・・秀。オレはおめぇが」
「やめろ。それ以上言うんじゃねぇ」
 秀が遮った。勇次から顔を背けている。
「聞いたところで、俺には関係のねぇ話だ」
「秀・・・」
 勇次が思わず手をのばそうとしたが、ビクッと身を引いた秀の拒絶に動きを止めた。
「・・・――――すまねぇ」
 ふたりの間におちた長い沈黙ののち、ため息を吐くように呟いたのは勇次だった。
「オレが悪かった」
 それだけ言うと、勇次は秀からそっと離れて背を向ける。 すぐに飛び出してゆくと思っていた秀の突き刺すような視線を、背中に感じていた。
「・・・勇次。おめぇは勝手だ・・・」
 絞り出すような秀の小さな声。その声音には怒りだけでなく、思いがけず悲痛な響きが込められていた。
「おめぇは、あの簪を俺に頼んでおきながら、今度は俺に・・・そんなことを言いやがる―――」
 勇次はハッとして振り向いた。
「!待ってくれ、そいつは・・・」
「うるせえ!!おめぇはいつまでだって待つって言ったじゃねえか!色気も愛想もねぇが筋の通った好い女なんだろ! おめぇが惚れてる相手はよ!!」
「秀、違うんだ、聞いてくれ」
「黙れよ勇次。・・・俺はおめぇを信じられねぇ」
 最後の一言は、勇次の胸の奥深くをえぐった。言葉を失った勇次の前で戸口が開き、秀の姿が一瞬で消えた。
 勇次はただその場に立ち尽くしていた。





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