業  〜 鳥 籠 〜







 秀が町外れの小さな隠居家に移ってきて、ふた月あまり。
小気味よい小槌の音が開け放した縁側にも聞こえてくる。
「居るかね」
 しわがれた声が庭先からかかり、小槌の音が止んだかと思うと、 奥からこざっぱりとした着流しに髷を結わない姿の若い男が出てきた。
「やぁ、源吉さん」
「精が出るねぇ。急ぎの頼まれものかい?」
「そうでもねぇが」
 遠慮して腰が退けかける老人を、秀は微笑して引き留めた。
「待ってなよ、いまおつぎちゃんに茶を淹れてもらうから」
そう言い置いて、土間に向かっておつぎちゃんと、低いがよく通る声で呼びかけた。
「はぁい」
 おつぎは外の井戸端に居たらしいが、すぐに可愛い声が返ってきた。
「爺ちゃんが来てるぜ。茶を淹れてくんねぇ」
 あい、という返事を聞いてから秀は小さな濡れ縁に座った老人の脇に、自分も腰を下ろした。
「おつぎはちゃんとやってるかい?」
「やってるとも。よく働いてくれてるよ」
 おつぎはこの近くに住む漁師源吉の孫である。年の頃はまだやっと十になったばかりだが、 下にまだ小さいのが四人もいるせいか、しっかり者でよく気がつく働き者だ。 簡単な身の回りの世話をする小女をと、八丁堀が見つけてきた。川でたにしを獲っていた 源吉は、いまはいつもは船を出さない。ひまを持て余すとおつぎを迎えに時々顔を 覗かせるようになり、秀とも仲良くなった。
「ナマズの小さいのが捕れたから、台所に置いておいたぜ」
「いつもすまねぇな」
「なぁに。おつぎが捌いてるだろうから、あとで鍋にでもすればいい」
 おつぎは昼過ぎまでいて畑の向こうに固まる幾つかの集落へと帰る。秀は夕餉や風呂の 支度は自分ですると言ってある。自炊はいままでしてきたことだし苦ではない。 が、おつぎを早く帰すのには、他の理由もあった。
「旦那は今日来るのかい?」
「・・・さぁ、どうかな」
 悪気のない源吉の問いに、秀は言葉少なに答えた。手に職を持った若い男がめったに 外に出かけもせず、小さな隠居家に引き篭もって内職に励んでいることを、 この老人がなんと思っているのかは知らない。 しかし源吉は、口数が少なく一見して害のなさそうな秀のことは気に入っているらしく、 何くれとなく気をかけて くれる。八丁堀とおつぎ以外に話す相手もいない日常で、老人と交わすなんでもない会話は、 秀の小さな楽しみでもあった。
「そうかい。・・・じつはこのあたりの若ぇ衆が暇持て余しててな。最近悪さが過ぎるんで、 ひとつ旦那に睨みを利かせてもらいてぇと思ったんだよ」
 時おり昼間から訪れる定廻り同心を旦那と呼ぶ声の調子には、二本差しに 対するというよりかは、囲い者を訪ねる男に向ける含みもたしかに感じられる。だが、 源吉が秀に揶揄するような好奇の目を向けることはなかった。若いとはいえ成人した町人の男が、 侍に囲われていることをごく自然なもののように受け取っている老人に、 秀は少し不気味なような、それでいて救われた気持ちを抱いている。
「悪さ?」
「ああ。2、3人でつるんでは近所の娘や若い嫁に悪戯(いたずら)を仕掛けるから、困ってるとこでさ」
 賑わう界隈からは引っ込んだ土地だから、若い男が楽しめる娯楽が日常的にあるはずもない。 いきおい、その溜まった性欲が、手近な女たちへの下卑た悪戯へと行き着いたのだろう。
「被害は酷ぇのかい?」
 八丁堀が歓迎されている雰囲気は面白くなかったが、男たちの勝手な欲求不満の はけ口にされる女たちには気の毒だ。つい釣り込まれた秀が訊ねると、源吉は日焼けした皺顔を ゆがめて相づちをうった。
「どうも何人か犯されたのもいるようだな」
「そいつはいけねぇ。なんだって名乗りでねぇ?」
「こんな田舎だと噂は恥になるからな・・・。庄屋の倅もグルだから、小作人はどこでも黙って隠し通すんだ」
「・・・」
 無言で源吉を見つめた秀が、何か考えるように目をすがめたとき、おつぎがお茶を運んできた。
「ありがとうよ、おつぎちゃん」
 おつぎは、下働きの小女にもきちんと礼を言う秀を見てパッとその丸い頬を赤くする。 老人が笑いながらからかった。
「おつぎ坊、おめぇも秀さんが気に入ったのかい」
「ちっ違うもん!爺ちゃんの意地悪!」
 胸に抱えた盆を盾にするようにして、おつぎが言い返す。恥ずかしそうな少女の無垢な様子が 眩しくて、秀は自分のほうも照れくさそうに頭を掻いた。
「これ。ここでいつものお転婆を出すんじゃねぇよ、おつぎ」
「おつぎちゃん。今日はもういいから、爺ちゃんと一緒に帰んな」
 秀が穏やかな声をかけて取りなした。こんな日常は、雑多でかつ賑やかな長屋暮らしでは まず味わったことのなかったものだ。すっかり俗っ気も抜けたような気になるのは、こんな ときだった。おつぎが下がったあと、秀は孫の淹れてくれた茶をすすっていた老人に言った。
「源吉さん。さっきの話は、だ・・・旦那の耳にもいれておくよ」
「そうしてくれると助かるな」
 老人は罪もなさげに目尻を下げる。そしてよっこらとかけ声と共に立ち上がりつつ、 秀にも一言忠告するのを忘れなかった。
「タチの悪い連中だから、秀さんも目をつけられんよう、気をつけてな」
「・・・・・」
 おつぎのいる裏口へと廻ってゆくがっしりとした背中を見送り、 秀はしばしその言葉の意味を考え憮然として佇むしかなかった。




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