憑りつかれたのは、秀 2









 朝から小止みなく降り続いていた雨が、夕暮れ近くになってようやく切れ間をみせた。
「それじゃあまたね、勇次さん」
「毎度ごひいきに」
 いつも通りの微笑と共に最後のお客を送り出すと、勇次は濡れた草履や下駄のあとの残った店の三和土(たたき)を 竹箒で掃き始めた。開け放した入口からは雨上がりのせいか、湿り気をたっぷりと含んだみょうに生暖かい風が 吹き込んでくる。
 この雨風じゃ、桜(はな)もあらかた散ることだろう。今年もあちこちの花見の宴に誘われながら気が乗らずにかわしてきた 勇次にしてみれば、これでようやく断る手間が減ると思うと、春の長雨がありがたくもある。
・・・ちょうどこのくらいの時期だった。 一年前に、裏の仕事仲間の思わぬ一面を垣間見る出来事に遭ったのは。
 脳裏によみがえるさまざまな情景に気をとられていたため、いつの間にかそこに当の本人が佇んでいることにまるで気が付かなかった。


 吹き込んでいた風が急にやみ、変に思って振り向いたとたん視界に入ってきたその痩せた黒っぽい姿に、 勇次はぎくりとして箒の手を止めた。 いつの間にか閉じた障子戸の内側に入っていた秀は、切りっ放しの黒髪も半纏も細い雨に濡らしたまま、黙って勇次を見つめていた。
「・・・・・こいつはまた。珍しいこともあるもんだ。どおりで天気がおかしいはずだぜ・・・」
 勇次は抑揚のない声で呟いた。
 秀が訪ねて来ると予想していなかったわけではない。 いつかは秀が痺れを切らして自分から会いに来るはずだと考えていた。律義者が別れ話を持ちかけるにせよ、女のことを隠し通すに せよ、加代から聞いた話がどこまで真実かは、会ってみれば不器用な男のことだ、すぐにボロを出すに決まっている。
 勇次のほうでは秀に会いに行くつもりは毛頭なかった。勇次は秀の気持ちを試したのだった。 会わぬまま、裏の仕事の用事で面突き合わせることになったとしても。
「なにか用かい?」
 そう問われて、黒目がちの瞳が戸惑ったようにまばたきをした。いつもの無表情と違って、 哀しそうな思いつめた顔つきだった。上目遣いの潤んだ目にもの言いたげな色気すらある。 目は口程に物を言うというが、口下手な者にこそ当てはまる言葉だった。
 裏切りを許さねぇとあれほど悋気したにも関わらず、秀の顔を見てまず胸に湧いたのは、不思議と冷淡な怒りではなかった。 恋多き自分が、初めて憎いと思わされるほどに愛しさを感じた相手だからだろうか。 懐かしさのほうがむしろ先に立ち、それが勇次の口元に軽い自嘲を浮かばせた。

「話があるならそんな隅っこに突っ立ってねぇで、こっちィ来て座っていな。もう終わるから」
 そう言い置いて勇次が竹箒を戻して振り向く間もなく、背後に近づいていた秀がツイと身を寄せてきた。 一言も口をきかないまま肩口に擦り寄り、ぎこちない動きながら勇次の手に自分から触れた。一瞬手を引きかけたほど冷たい手だった。
「・・・そいつはなんの真似だ?ちょいと会わねぇうちに、どこで覚えた手管だい」
 勇次は振り払うことなく、しかし肩越しに皮肉に応じた。これまで一度もしたことのない、遊び慣れた女のようなあからさまな仕草が、 秀の考えに元々あったとも思えない。これも例の女の影響というわけか。勇次のなかの熾火がカッと青白い焔を吹き返す。
「秀・・・。どういう風の吹きまわしだ?そうやって擦り寄ればいつでも歓迎されるとでも思ってるのか? あっちこっちの家で餌貰ってる野良猫みてぇなやつだな、」
「・・・・・」
「おめぇがオレに押し付けた猫を少し見習っちゃどうだ。あいつはいまでもオレの手からしか餌を喰わねぇぜ・・・」
 勇次のきついあたりにも、秀は瞼を薄く伏せて応えない。それどころか冷たい指先を深く絡ませるとクッと握りしめてきた。
「おい。よしな」
 勇次はついに低いが鋭い声をあげて、秀の手を振り払った。 いつもの無愛想とは違う妙な沈黙を保ったまま、慣れぬ誘惑など仕掛けてくる秀に、 可愛さ余って憎さのほうが湧き上がるのは当然のことだった。
 勇次のなかではむろん何もなかったことになったわけではなかった。 これだけの熱量の感情が己のなかにあったのかと遺憾にすら思ったほど、勇次は秀に対して悋気の焔を燃やした。 どこの者とも分からぬ女に対してではない。この一年で自分たちが紆余曲折しながらも、 そこここの接点で折り合いを付け互いを知っていった 日々を、にわか登場の女が簡単に奪えるものではないことくらい、勇次にも分かっている。
 黙って江戸を出る気でいた勇次に会いに来た秀にも、そのことは分かっていたはずだ。でなければあのまま二人は最後の接点を 失ったまま、二度と袖振り合うこともなかっただろう。だからこそ勇次は、自分からもここまで恋に踏み込んでおきながら未だに 迷い続ける秀の葛藤を、それがゆえに魔がさしたとしか言いようのない秀の他愛ない裏切りを、許せないと感じるのだった。
「これから出かけるところだ。今日はこれで帰ぇってくんな」
「・・・勇次・・・。どうして」
 低く呼びかけた秀が手を伸べて、今度は勇次の着流しの袖を掴んだ。払えないほど強い力ではない。 しかしはじめて発した声のあまりに寂し気な調子に、ついその目を覗き込んでしまう。どこか焦点が合っていない不思議に 澄んだ目で勇次を捉え、小さく囁く。
「どうして・・・?俺はずっとおめぇのものだと・・・」
 抑揚を欠いた声の調子にもまるで真意が見えてこないにも関わらず、あたかもこちらの思いを見抜くような物言いに、 勇次の背筋にぞくりと戦慄が奔る。官能なのかなにか違う寒気なのかははっきりしなかった。
「勇次、分からないか・・・・・」
 袖を掴む手に徐々に力を込めて、秀が自分を引き寄せたと思ったときには、触れ慣れた形のいい唇が勇次のそれを吸っていた。
「・・・・・」
 いつもは勇次がそうするようにはじめは啄み、舌先で相手の唇を舐め口を開くよう誘いかける。 勇次はしたいようにさせながら、じっと秀の薄く開いた瞳を覗き込む。ようやく勇次の舌先を探り当てた秀の目の中には、 激しい情欲の色だけが浮かんでいた。 それを認めたとたん、勇次は急に腹を立てかけていた己が馬鹿々々しくなり、秀を振り払う気を失くした。
 だしぬけにやって来たのは、そのためか。陰で裏切っておきながら自分のことは棚に上げ、 もの言いたげな哀しい目でこちらを煙に巻いて、欲を隠すどころか勇次に対しても同様の情けを求めてくる。 あれほどつれない振る舞いに徹し、悩まし気な貌で抱かれていたことが嘘のようだ。
 勇次は秀の頬に手を添えると、重い口づけを重ねては秀の息もつかせぬほどに追い込んだ。秀はさすがに苦しそうに勇次の 胸から逃れようともがいたが、滅多なことでは出てこない勇次の怒りに火をつけてしまったことには気づいてもいないようだ。
「勇次、勇次・・・っ」
「・・・・・秀、おめぇ・・・。なに考えてやがる・・・・・」
 勇次の知る秀とはまるで別人のような態度ですがる秀の、妙になよついた下手な芝居に、ひどく興ざめな思いがする。 と同時に、抑え込んでいた秀に対する残酷な気持ちが荒々しく勃興してきた。
「・・・」
 勇次は秀の腕を掴むとすぐに、上がりかまちを引きずるように上がらせた。抵抗しない秀の腕を引いてそのまま居住区につながる障子戸 を開ける。狭い廊下の向かいの居間に足を踏み入れるなり、秀を畳のうえに無造作に放り出した。続き間の寝間はすぐというのに、 待つ気もなかった。
 秀が起き上がりかけるのを上体に重みをかけて押さえつけ、のしかかる。灯りの点いていない室内は暗く、ほとんど互いの顔の輪郭 以外は、表情も読み取れない。勇次にとっていまはそのほうが都合が良い。暗がりで息を詰めて勇次の次の動きを待っている秀の 耳元に囁く。
「今日のオレは手加減なしだ。するつもりもねぇが。そいつを覚悟のうえなんだろうな、秀・・・」
 見えない誰かが勇次の怒りに乗り移り、手綱をとっているかのようだ。 冷たく冴えたままの頭とは裏腹に、いまはただ秀を征服することに場違いなほどの欲望を感じてしまう。
「・・・こんな流れでまた・・・・・おめぇを抱くことになるとはな・・・」
 秀がいま何かを言うのではないかと思ったが、組み敷いた濡れて冷え切った体からは、一言の応(いら)えもなかった。





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