憑りつかれたのは、秀 3









「おめぇ、また痩せたんじゃねぇのか。ひょっとして恋やつれかい?」
 秀はじろりと横目で涼しい顔の勇次を見たが、誰のせいだとは口にしなかった。言えばいい気にさせるだけだ。
「飯はちゃんと食ってるぜ」
「食っててそれじゃおえねぇ。今日は精を付けに鰻でもやるか・・・」
 あんまりごつごつしてると抱き心地が悪いからと余計なことを言って、ほかの通行人に聞かれはしないかと慌てた秀にまた睨まれる。 ふたりは米蔵の並ぶ掘割沿いを肩を並べて歩いているのだが、なぜか秀の足が急に重たくなり動かなくなった。
「・・・ちょっと待ってくれ」
「どうした?」
「いや、足が急に・・・・・へんだ」
 勇次は立ち止った秀を振り向き、からかうような笑みを浮かべたが、ふいと背を向けてそのまま先に歩き出した。
「勇次?」
 勇次の態度に突き放されたように痛みを感じた秀は、焦って前に出ようともがく。しかしどうしても足は一歩も動かない。
「勇次、待てよっ。この薄情者!何とかしてくれ」
 どんなに声を上げて呼んでももう振り向きもせず遠ざかる、細かい縞の着流しが不意に水の膜でぼやけてしまう。 秀は掌でこぼれそうな目元を乱暴にぬぐう。バカみたいだと自分に腹が立つ。なぜこんなことくらいで・・・。顔を上げればすでに 勇次の後ろ姿は川から立ち上る霧の向こうに消えかけていた。
「・・・勇次っ、勇次!行かねぇでくれ・・・・・」



「まっ・・・・・行く・・・な・・」
「秀?・・・どうした?おい?」
「ゆぅっ・・、なんでだよ・・・・っゆうじ・・・っ!!」
「秀?おい!」
 強く肩を揺さぶられてハッと我に返った。見開いた目から、さっき掌で抑えたはずの涙がボロボロと零れ落ちる。 薄ぼんやりとした灯りに照らされて、すぐ真上から怪訝そうに覗き込む懐かしい顔が視界に飛び込んできたとたん、 秀は何を考えるまもなく両腕を伸ばしてその首にしがみついていた。
「!・・・・・ひで・・・」
「・・・ウっ・・・・・う・・」
 壊れたように涙腺が決壊し、どうしようもなくなった。抑えきれず体の奥底からこみ上げてくる嗚咽に、 秀は自分でも激しくうろたえた。 大の男が我を忘れてしがみつくという行為の異様さに気づいて、頭のなかが一時的に真っ白になったが、 もはや出てしまったものは引っ込められない。 このまま、胸に吹き荒れる嵐が収まるまで待つしかなかった。 勇次がいまどんな顔をしているのかはわかるはずもない。
「・・・・・」
 しかし一度はギョッとしたように身を引きかけた裸の胸が、やがて秀の腕の力のままに重さをもたせ掛けてきた。そうして両手が 背中に回されて、戸惑いつつも宥めるような手つきで肩や髪を撫でながら、時々強く抱き締めてくる。
(ずっと・・・)
 ずっとこの腕が恋しいと思っていた。せめてもう一度だけでも、この腕に抱かれて眠りたかった。 変わらない抱擁の温もりに、確かに伝わる勇次の心音に、不安な心が少しずつ解きほぐされ気持ちが落ち着いてゆく。
「・・・すまねぇな。その・・・」
 鼻をすすりくぐもった声で詫びつつ、やっとの思いで目を上げて勇次の顔を見れば、予期せずしてまたブワッと涙が溢れ出た。
「うわ、な、なんで俺・・・?すっ・・すまねぇ、すまねぇ勇っ、なんか変だっ、俺・・・」
 秀は焦って勇次の首から手を離すと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れた顔をたまりかねて両手で覆ってしまった。 さまざまな感情が入り乱れて、しゃくりあげる喉がなかなか収まらない。 さっきから一言も発しない勇次が半身起こしたままそんな自分を見ているのかと思うと、 消えたくなるほど恥ずかしい。情けないやら気まずいやらで身の置き場もない有り様だった。
「・・・・・」
 やがて体にかかっていた重さがなくなり、起き上がった勇次が着物を肩にひっかけて部屋を出て行く気配がした。 独りにされてはじめて、秀は落ち着きを取り戻すことが出来た。少しして戻ってきたときには、 秀の涙もようやく引っ込んで、嗚咽も収まりかけていた。
「・・・ほら。これを使いな」
 すぐ脇にみしりと勇次の体が戻ってきただけで、秀の胸に安堵が広がる。
「・・ん・・・」
とはいえ、きまり悪くて顔から手を外せない秀の気持ちが伝わったのか、
「まったく。仕方ねぇやつだ」
 苦笑して、秀の手の上に濡らした手ぬぐいが広げて置かれた。勇次はそのまま秀に背を向けた様子だった。


 秀がごそごそと手ぬぐいを使っているのを背中で聞きながら、勇次もまたぼんやりと紫煙をくゆらせつつ物思いに耽っていた。
 いまなんどきかは分からないが、おそらく丑三つにもなってはいまい。秀が昨日やって来たのはまだ早い夕暮れだった。あれから ずっと居間に籠っていたのだ。ゆうべの秀は自分からすすんでからだを開いていった。勇次がどんなことをさせようと、 嬉々としてそれに応じ、誘いかけるように自ら危なげな痴態を演じてみせる。
 何かに操られているのではないかと、途中から勇次は 秀の乱れように違和感を覚えたが、そんな秀のもたらす淫靡な快楽にいつか引き込まれていった。
 喉の渇きに目を覚ました勇次がさすがに気だるい身を散乱した着物の上に起こし、行燈に火を入れてまもなく、倒れ込んでいた 秀がなにかにうなされている声に気づいたのだ。
(それにしちゃ、ゆうべとは様子が違いすぎる)
 まだ軽く鼻をすすっている秀は、こう言ってはおかしいが、勇次のよく知っている秀に近い雰囲気に戻っている。
(戻ってる・・・。そうだ。憑き物が落ちたみてぇに)
 憑き物が落ちたといえば、勇次自身もそうだ。最初感じた怒りの感情から目もくらむような情欲が突如として沸き上がり、 目の前の存在を征服することしか考えられなくなった。秀に応える形で何度も激しく交わった。 目を覚ましたときは、まだ自分の内側でくすぶる情念を感じていたが、またもふらふらと挑みかかろうとしていた 勇次の目を覚まさせたのは、秀の必死で名を呼ぶ声と涙だったのだ。
(秀もオレも・・・。どうもおかしくなっちまってたらしい・・・)
 ちらと振り向くと、起き上がった秀が半纏を腹のあたりに手繰り寄せてへたり込んだまま、 呆然と勇次の背中を凝視しているところだった。
「?どうした、秀」
 ついさっきまで首にしがみついて泣いていたのが嘘のように、秀は固唾を呑んで勇次のことを怪訝な目つきで見つめている。
「なんでぇ。狐につままれたような顔してるぜ」
「・・・・・・・・・・ここは?」
「何言ってやがる。うちに決まってんだろ」
 不気味そうに周囲を見回して、勇次の言葉を確認している秀の奇妙な様子に、なにやら勇次まで薄気味悪い心持ちがし始めた。
「秀。おめぇ昨日、自分が何したか・・・覚えてるか?」
「・・・・・・。昨日・・・?」
 向き直った勇次に問われ、何度かまばたきをした秀は何かを思い出そうとするように宙に視線を彷徨わせたが、 黙って首を横に振った。しかし身に覚えのあるからだの怠さ重たさは十分に感じているらしく、 行燈のもとで照らされる俯き加減の顔を赤くしている。しばしの沈黙があって、俯いた秀がぼそりと訊ねた。
「俺・・・、いつここに来たんだ?俺が自分で・・・来たのか?」
「なんだと・・・。おめぇ、まさかそれも覚えがねぇってのか?」
 半信半疑ながら、勇次は昨日の夕暮れ時、秀が店にいつの間にか立っていた話をしてやった。とはいえ、秀が自分から擦り寄り 手を握ったり口吸いをしてきたりと、勇次に迫ったことはぼかしておいてやった。これが演技というなら、わざわざ聞かせてやる までもないし、話を聞いているあいだの秀のまるで他人の 様子を聞くような愕然とした表情が、不器用な男に出来る演技とはとても思えなかったからだ。
「とにかく、今のおめぇとはまるで別人のようだったぜ、」
「・・・別人?」
「ああ…。妙な言い方かもしれねぇが、悪い女か狐でも乗り移ったんじゃねえかと思ったくれぇだ」
 季節外れの艶笑怪談ふうだと冗談めかしたつもりだったが、聞いた秀のほうがハッとして顔を上げた。
「女?!女が乗り移ったっていま言ったのか?!」
 秀の顔は行燈の灯りのしたでもそうと分かるほど、青ざめていた。唇がわずかに震えている。
「いや、真に受けるなよ。ただそんな風に見えたっていう・・・それだけだぜ」
「・・・。・・・・・・・・」
「どうした?おめぇがまさかホントに乗り移られたってのか、秀」
 さすがに信じられなくて、勇次が間延びした声で尋ね返すと、秀がまるで冗談とも思えない声で低く答えた。
「・・・・・たぶん・・・」
「まさか」
「聞いてくれ、勇次。昨日ひとりの女が俺を訪ねてきたんだが、その女に会ってる途中から・・・俺の記憶が消えた・・・」
にわかには秀がなにを言っているのか分からなかった。
「どんな女だ?」
 ちらと秀が勇次の顔を確かめる。勇次が自分の話をひとまず聞こうとする態度に励まされたようだ。
「・・・どこかの金持ちの妾か芸者かっていうような、良い身なりの女で・・・。はじめて見る女だった」
「はじめて・・・?」
 勇次のなかでは、早くも加代の話と食い違い始める。
「前にここに泊まった日の朝、戻ってきたとこを加代にめっかっちまった・・・。そん時に女が家の前で待ってたと 聞かされたんだが、その女だったらしい」
「・・・・・」
「俺がそいつに会うのは昨日がはじめてだったが、加代や長屋のカミさん連中はしょっちゅう女の姿を見かけてたらしいんだ。 それをネタにずいぶんからかわれたりしたっけか・・・、なぜか俺がいるときに限って一度も訪ねてこねぇ」
 秀はしつこくネタにされたことを思い出したのか、ほんの少し眉をしかめた。それからちらりとまた勇次のほうを見やって、 なぜか気まずそうに目を逸らす。
「俺は・・・。実を言えばもう、おめぇとは・・・・・。切れたものと思っていた・・・」
「・・・・・・・」
 目は合わさず畳のヘリを見据えたまま、押し殺したように秀の話が続く。
「ここんとこおめぇが来なくなったのは、他に誰か出来たとかきっとそ、そういうことだろうとおもっ・・・思って」
「・・・・・・・」
「だから、もう諦めかけてた。そうしたら、女が・・・いきなり訪ねてきた」
「秀・・・」
 ごくっとそこで秀は大きく喉を鳴らして唾を飲み込んだ。見ると体のまえに掻き寄せた半纏を、手が白くなるほど固く握りしめて いる。
「その女が、俺に訊いたんだ……。はじめて会う女から…」
「女はなんて?言えよ、秀」
 それを口にするのは、秀にとってかなり勇気の要ることだったらしい。勇次が辛抱強く見守るまえでしばらく言葉が出せず、 何度も言いあぐねていたが、
「・・・・・」
「え?・・・・」
 秀は乱れた前髪ごと顔を隠すように額に手を当てると、ほとんど吐息だけで繰り返した。
「あの男が、恋しいんだねと。・・・・・戻るのを・・待ってるんだねと・・・」
「!?・・・・・」
 ふたりの互いに困惑した目が絡んだが、秀はそのときのことをまざまざと思い出したのか、小さく震え出した。
「そ、それでいきなり、俺の手を掴んだそいつが、あたしと同じ・・・かわいそうに、って言って顔が近づいてきたんだ、 そ、そしたら口が耳まで裂けて・・・。それで・・・それで、」
 本当に恐ろしい思いをしたらしく、言葉が幼くなっている。
「それでどうした、秀?」
「あ、ぁぁ。・・・俺はもう、そのときには声も出せなくなってたんだが…。女に手を掴まれたときに妙なものが体ン中に入ってきた 気がして・・・」
「妙なもの?そりゃ一体ぇなんだ」
「おっ俺が分かるかよっそんな!!とにかく・・・っ何か変なものに乗っ取られて気が遠くなっちまった。 そっからあとのことは覚えてねぇ・・・・・ここに来たことも話したことも、何一つだ・・・」
 何とか一気に最後まで話し終えると、秀は精一杯保っていた気力の糸が切れたように突然ぐらりと横倒しに倒れた。
「!!秀っ」
 いつの間にか煙草の火が消えていることにも気づかず話に引き込まれていた勇次は、慌てて煙管を投げ出すと秀の体を抱き起こした。
「おい、しっかりしな、秀!おい!?」
 ちょうど手ぬぐいと一緒に持ってきた銚子と猪口の盆が目に留まる。勇次は銚子を取り上げ直接自分の口に含むと、秀の白く乾いた唇に 流し込んだ。酒はほとんどが端から零れてしまったが、勇次は濡れた唇をこじあけるように、何度かそれを繰り返す。
「・・・・・」
 秀がこくりと二度ほど嚥下したあとで、げほげほと急にむせた。
「か、辛・・・。水かと思ったら・・・」
「気つけが要るかと思ったのさ。もう一口飲むか?」
「・・・要らねぇ、こんなときに・・・。俺を殺す気かよ」
 掠れた声は疲れ切っていたが、どうやらこれは完全に本物の秀に戻っているらしい。勇次を押しのけて起き上がろうとする しおらしさの欠片もない秀に、急に懐かしい気持ちと同時にたまらない愛おしさがこみ上げてくる。
「な・・・っ。なんだよいきなりっ?」
 横倒しのまま抱え込むように抱かれて、秀は焦った。さっきの自分と逆だ。泣いてはいないが。 温かさを直に感じて、ずっとすっ裸だったことにいまさら気づいた。
「すまねぇ、秀。こうでもしてねぇとオレはいま・・・おめぇの顔がとても見られそうにねぇ」
「?なんのこった?」
 いいから早くどいてもらって、何か着たい。ひどく居心地が悪そうに腕のなかでもがいていたが、勇次の顔が見えないのが かえって不安になった。
「勇次、おい・・・?」
「オレはおめぇにまた酷ぇ間違いをするところだった・・・・・」
「酷ぇ間違い・・・?なんの話だよ、勇次?それより早くど・・」
「・・・・・言いたくはねぇが・・・。オレは加代からおめぇんとこに女が通って来てるって噂を吹き込まれて、」
「!!」
 秀がぴたりと動きを止めて、勇次の懺悔に耳を傾けた。
「加代・・・・・?」
「秀、すまねぇ。おめぇがオレといる間もずっと何かに悩んでるみてぇに見えていたから、 ・・・オレは手もなくその話を信じ込んだ・・・」
「・・・・・・。そいつはホントの話か、勇次・・・」
「ああ。ホントだ」
「・・・。分かったから、一度起こしてくれねぇか?」
 聞いていたのかどうか分からない秀の言葉に拍子抜けしたように、勇次がのろのろと身を起こして秀のことも起き上がらせる。秀が 首のうしろあたりを掻いている勇次を見て、言った。
「なぁ、勇次」
「ん?」
 そちらを見た次の瞬間、みぞおち辺りに一発痛烈な拳を喰らい、勇次は息を詰まらせて一声呻くと腹を抑えて 前のめりに倒れた。
「おめぇの顔を殴ったら、お客が悲しむんだろ。ありがたく思えよな、勇次」
 しばらく動けずにいる勇次の背中に、いつも通りの秀の素っ気ない言葉が降ってきた。



 秀に、女が来た時には加代を頼れよと呼びかけたら、 肩をぶるりと震わせたあと、しばらく加代とは口を効かないと宣言した。厚かましい加代相手に秀がどこまで対抗出来るかなど、 火を見るよりも明らかである。
 足繁く覗いてやりたいところだが、それはかえって違う噂を招くことにも なりかねない。まさか近所にも教えに来る端唄の師匠が、堅気な錺り職人とデキているなどとは、 長屋のカミさん連の逞しい想像力をもってしても、なかなか結び付くものでもあるまいが。
(脆いんだか、強いんだか・・・。ほんとに分からねぇ、面白ぇやつだな、おめぇは・・・)
 女が現の者か本当に幽鬼かなにかの類なのかは気にかかるところだが、あの超現実主義者の加代 ならば、丁々発止相手になることはまず間違いない。あれはあれで、加代も頼もしい護衛になるのでは、と秀が聞いたなら 怒り狂うようなことを考えて、向き合って台所でもそもそと飯を食っている憔悴した顔を眺めている。
 秀に、ほとぼりが冷めるまでここに居候することを、提案はしてみた。 秀がそれを承知するとも思わなかったが。思ったとおり、秀は注文の品の期限がある、とアッサリとしりぞけた。
「幽霊だかなんだか知らねぇが、そんなもんが怖くて仕事になるか」
 威勢はいいが、本当は長屋でまた女に出くわさないかと内心怯えているらしいことは、いつも以上に強気な秀の口調から も伝わっていた。しかし勇次は、なにも言わずに秀を送り出した。
 心配してもキリがないことに気づいたのだ。秀を腕の中に閉じ込めてどこにもやらず、手ずからのみ餌を食べるように 飼い慣らすわけにはいかないことに気づいたのだ。 いや、気づいたというより、結局秀に気づかされたのだった。
「たしかに俺ァ・・・色々と割り切って考える器用なことは出来ねぇが・・・。だからっておめぇを謀ってまで ほかの相手に逃げるような真似、誰がするかよ」
 帰りしな、向き合った秀は目は反らしたまま、怒った口調で呟いた。
「馬鹿にするなよ、勇次。俺だっておめぇとこうするからには、覚悟のうえだ」
「・・・・・」
「・・・でなきゃ男に抱かれ続けるなんて出来るわけねぇだろうが。俺が男だってこと、忘れるんじゃねぇ・・・」
 秀を猫に重ねて揶揄った自分の言葉を思い返せば、秀を篭絡して縛り付けようとしていた思いあがった独占欲が 自分でもおぞましいと感じる。
 たしかに勇次は秀に惚れている。惚れた相手のすべてを欲しい、独占したいと願うのは自然な情だとも思う。 しかし秀は自分のものである前に、まずは秀自身のものだった。秀は自分は自分のものだという矜持を持ち、一途に勇次を想う覚悟を 決めていた。不誠実だったのは、秀ではなく勇次自身のほうだ。
 決して口数の多くない秀が、堰を切ったように残していった言葉が、 勇次の心のささくれを秀に対する密かな疑いを、奥深くに息を潜めながらもめろめろと燃え続けていた悋気の焔を鎮めてゆく。
 秀が自ら心を開くまで待つつもりで、あまり過去や内面を深く詮索せずにいたように、 これからも目の前の秀を信じて見つめてゆくほかに、秀を手に入れる手立てはない。 心深く癒されぬ孤独の刃を呑んだこの一匹狼は、ぎりぎりにならなければ本音を露わにしないが、 姿を見失わない限り、何があろうと手を離さずにいる限り。
 秀の言葉にただ頷いて、名残を惜しむように口づけを交わしながら、いまはまだ肩を並べて歩いて行けると勇次は思った。





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