憑りつかれたのは、秀







 かざり職とだけ書かれた薄い板が軒先に揺れる裏長屋の障子戸越し、コツコツと鑿をふるう小さな音が聞こえている。
 秀は、とある粋人からの依頼の品にかかっていた。ふだんは簪を中心に仕事を請け負っているが、 ときには別の品を名指しの依頼で受けるときもある。これは煙草入れの印籠に用いる細工もので、最近受けた なかでは高値の依頼である。
 外は雨で、しとしとと静かな音が長屋の屋根を叩いていた。こんな雨だと井戸端で長話も出来ないとみえ、女房連中もみな それぞれの家のなかに引っ込んでいる。ドタバタと狭い家のなかを駆け回る子供たちを時おり怒鳴りつけながら、内職にでも 励んでいるのだろう。
 おまけに隣の加代は仕事に出かけて留守だ。どこからの邪魔も入らない、 滅多にないほどの静かな昼下がり、こんなときこそ手の込んだ作業がはかどるはずだった。
 ところが、さっきから秀の手は同じところに鑿を当てているだけで、一向に先に進む様子がない。少し叩いてはフッと息をつき、 また少し鑿の角度を変えては神経質に手を止める。
 だしぬけにバシャバシャと誰かが駆けてくる水音がして、秀はハッとして障子戸を振り向いた。足音は秀の家のまえを行き過ぎ、 遠ざかってゆく。
「・・・・・」
 とうとう秀は細工もろとも、手にした道具を作業机に投げ出してしまう。腰を後ろに引き立ち上がると、土間に降りて 水甕の蓋を取る。このあいだ叩きつけて折ってしまった柄の短い柄杓で水をすくい、口元にもっていった。が、何を思ったか いきなり顎を上げパシャと自分の顔にぶちまけた。
 縦じわを一本刻んだままの眉間から水が流れ落ち、喉や半纏の胸を濡らす。その冷たさに ようやく我を取り戻した秀は、何度かまばたきして掌で顔を一撫でした。
「・・・・・。・・・ゆうじ・・っ」
 誰も聞くもののいない部屋のなか、ため息と共に秀はついに声に出して苦しさを吐き出していた。


 朝帰ってきたところを加代に出くわしたあの日以来、勇次が長屋に姿を見せない。もうひと月は過ぎただろうか・・・。
 はじめの十日が過ぎたときには、忙しいのだろうと思った。別れ際、まだ布団のうえに転がっていた勇次だが、 帰るぜと覗き込んだ秀の頬を黙って撫でてくれたからだ。それから三日経ち、また五日経ちしたが、あれほど一定の間を空けては マメに顔を出していたのが嘘のように、ぴたりと来訪はなくなった。 何食わぬ顔で暮らしながら、秀はひとり焦燥を募らせていた。
 思い余って、何度か三味線屋に訪ねて行こうとしかけたこともある。しかしそのたびに、八丁堀と交わしたやりとりが記憶によみがえり、 どうしても決心がつかなかった。勇次に逢えば、どうしたってまた同じ葛藤を繰り返すのは目に見えている。 それならこれを勇次を思い切る機会にすることも出来るのだ。
 一、二度、届け物の行き帰りにわざと店の前を通ってみたが、通りに面した虫窓は閉じたままで、 それでも人の出入りは普通にあった。外から見る限りでは、勇次はふだん通りの生活を送っているらしかった。
 思い切るまでもなかった。もう終わっていたんだ、と秀は自分に言い聞かせた。恋が遊びだと分からない、自分の知らないうちに。 勇次が変わらぬ暮らしを続けながら寄り付きもしなくなったこと。それはとりもなおさず他に心変わりをしたか、 もしくは秀との関係に飽いたかどちらかの理由しかないだろう。 そのくせ頭の隅では、ちょいと間があいただけで考え過ぎだといいわけする声も、しつこく頑張っている。
 漠とした疑心暗鬼を胸のなかに何日も囲っているうちに、小さかったそれは次第に大きくなり、 胸がつかえて飯もろくに喉を通らなくなった。
(もううんざりだ・・・。あいつのことでなんでこんなに悩まなきゃならねぇ。俺だけ悩むのは不公平だ。 勇次のやつは今頃のうのうとどこかの女に…)
(そもそも女に不自由してないあいつに、我慢出来るはずがねぇ。あいつの言葉を真に受けた俺が馬鹿だった・・・)
 延々と埒もない逡巡を繰り返している。


 こんなときの静けさなどかえって遣り切れない。加代でも長屋のカミさん連中でもいい、 誰か来て与太話でもふっかけて来てくれないものか。だいたいこういう時に限って、長屋の連中がこぞって口にしては秀を 冷やかしにかかる、『例の芸者』とやらも訪ねてこない。
(妙な話だ・・・。俺だけがなんで一度もその女に会っていねぇんだ)
 少し不気味な感じもしている秀だった。その例のと皆が口をそろえて言う女というのは、最初に秀の家の前に立っているのを加代に 目撃されて以来、ひと月ほどたびたびこの界隈で目撃されているらしい。
 女はいつも気が付けば秀の戸口のまえに佇んでいる。といって訪ないを入れるわけでもない。 すらりとしたしなやかな体にすんなりと馴染んだ豪奢で品のいい着物を着て、 しばらく中から聞こえてくる小槌の小さな音に耳を傾けている様子だが、他のものに見とがめられて声を掛けられると、 スッと背を向けて去ってゆくのだという。
 秀のなかでは、裏の仕事の依頼を持ちかけるつもりだろうとかなり確信的に思い込んでいたので、初めのころこそ会わずに済むならば これ幸いとばかり無視を決め込むつもりだった。が、ひと月近くもイタチごっこが続くとなると、それはそれで女の目的が 気になって仕方がない。
(ひょっとするとそっちの筋じゃなく・・・。どこかの大名あたりの所望で)
そこまでゆくと加代が言い出しそうな夢物語だ。
(止めだ止めだ。直接会うまでは、考えても仕方ねぇ)
 そこは勇次の問題と相通じることなのだった。秀はそう自分に言い聞かせ、ふたたび仕事を再開する前に用足しに出た。


 雨の中でも外の空気を吸うことで、かなり気分転換になった。すっきりした気持ちで部屋の戸を開けたとき、秀はドキリとした。 誰もいるはずがない土間の薄暗がりに女がいた。
「!!」
 薄暗がりといいながら、女の目鼻立ちもはっきりと分かって、それはすらりとした三十ばかりの際立って美しい女だった。 ただし青白い頬はやつれ気味で、おろしたままの黒髪の一筋が磁器のような額にはらりとかかり、 たとえようもない切ないまなざしで秀を見つめている。
「あんた、どこの人だい?」
 障子戸を閉じた秀はつっけんどんに訊いた。これが例の女に違いない。
「俺になんか用なのかい?」
 はかどらない仕事に戻るより、気になる件が先に片付くならそっちのほうがいい。
 なるほど、しきりに噂されるのも無理ないと納得するほど、このおんぼろ長屋には不釣り合いな客だった。 しかも、門外漢の秀にもそうと分かるような 目にもあやな着物姿でありながら、不思議なことに女はその裾にも水の滴ひとつ跳ね返らせていない。
(俺が厠に行ってる短い間に、駕籠で乗り付けたってことか?)
 傘も持っているふうでもない女の、幽玄とした姿になにか背筋にうすら寒いものを感じた秀は、わざと切り付けるように言った。
「俺の留守中にも来てたんだってな。何度もうちん中に入ってったって聞いてるぜ。用があるんならさっさと言ってくれ」
 女は白い顔をやや傾けて、秀の不機嫌さを隠そうともしない顔を見上げた。こちらを見ているのに、どこか秀を通り抜けた虚空に 向けているような視線である。哀しそうに柳眉を寄せると、
「可哀想に・・・・・」
牡丹のような唇から微かな声が滑り出た。細いが妙に耳の奥に残る、悲痛な声だった。
「? いってぇ何のことだ?」
 やっと会えたと思ったらいきなりわけの分からないことを言う。元々苛立っていることも手伝い、秀はかちんときて声を荒げる。
「勝手に入ってきて、いきなり可哀想だ?あんた人のことからかいに来たのか?」
「・・・・・」
 女は黙って秀を見つめている。怯えるどころかまばたきもせず、哀しい目で見つめる女の視線と睨み合ううち、 秀はだんだん混乱してきたが、そのうちハタと気づいた。
 これは気の触れた女なのだ。まるで普通に見えるが、狂人がみな髪振り乱して奇行を演じる輩とは限らない。 この不気味な静けさを纏う女は、精神の芯が抜けてしまっているのだろう。こんな女なら一度会えば忘れるわけがない。しかし どこで知り合ったのかはこっちはまるで覚えがない。一方女の側では秀になにかの折に執着し、狂人の執念で ついに住処まで突きとめてしまったらしい。
 道理でなにか変だと感じるはずだ。確とした用がある者なら、秀が居なくても早々に隣近所に言付けるなりのことをしている。 住人から見れば色恋沙汰だと思い込むのもこれでは仕方ない。まったく人騒がせな女である。 長屋のかみさん連中はすっかり芸者だと決めつけているが、 気の触れた芸者なり愛人なりを囲ったうえ、勝手にふらふらと出歩かせている物好きな旦那にこそ、会って文句を言ってやりたく なった。
「・・・悪いが、俺はあんたにまったく見覚えが無ぇんだ。用がねぇんなら帰ぇってくれねえか」
 話が通じるか分からないが、なんとかして帰って貰うしかない。心配したわりにはつまらないことに巻き込まれたものだと、 秀は情けない思いで、とりあえず早々にこの気の毒な女を追い出しにかかった。
「駕籠は待たせてあるんだろう?いま呼んできてや・・・」
「あんた・・・」
「え?」
「あんた・・・・・あの男が・・・恋しいんだね、・・・・・・」

 女の言ったことが分かるまで、ほんのわずか間があった。毛穴が逆立つような戦慄が秀の体を襲った。 目を見開き弾かれたように身を引きかける秀に、いつのまにか青白く細い手が伸ばされている。
「男が戻るのを待っているんだね・・・・・あんたも・・・」
 まるで生きた温もりの感じられない指先が、秀の手に触れた途端、ぴくりとも動けず声も出なくなった。 やがてそこから何かが、実体はないが明らかな意思をもつ何かが、スッと自分の内側に入り込んできたのを秀は感じた。
(・・・・・?!)
 それは女の意識か、それとももっと激しく哀しい念のようなものか…。まず頭のなかが、そして心が浸食される。 あたかも誰かの人格が乗り移ったかの如くに、秀の意識が押しやられ遠のいてゆく。
(・・・ゆ・・。勇・・・・・・!)
 なぜか目の前に怖いくらいに大写しになった女の蒼白の顔が迫ったかと思うと、 紅い口がニヤリと真横に裂け、どろりと顔の皮膚がずり落ちた凄惨な嗤い顔になった。
「あたしと同じ・・・・・かわいそうにね・・・」
 先ほどとは打って変わって老婆のようなしゃがれ声のささやきを最後に、秀の意識はぷつりと途絶えた。






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