勿忘草 〜 forget me not 〜 1







 タッタッタッタ……

 軽快な駆け足の音がみるみる近づいてきたかと思えば、陽に焼けた肌に腹掛け一枚の隆とした体躯の飛脚が、 宿場の大通りを東に向けて駆け抜けて行く。 雑多にひとの入り乱れる辻で誰かとぶつかりそうになったのか、ごめんよ!!と気の立った大声で謝ったのが、 露天に品物を商う“親子連れ”の耳にも届いた。 飛脚は一度として足を止めることなく、足音はまた軽快に遠のいてゆく。
 ここまで来ればあと一息で江戸と安堵する者と、 この辺りからいよいよ江戸を離れたという感慨を抱く者とが交差する地点ということもあってか、 旅装の父子がようやく辿り着いたばかりの東海道藤沢宿は、多くの旅人でにぎわっていた。
 泊り客の出立を見送ったらすぐに、今度は昼飯と休憩を求めてなだれ込む客を迎える準備がはじまる。 どの旅籠でも猫の手も借りたい慌ただしさで殺気だっているが、それでもこの賑わいこそが通りすがりの旅人の足さえも つい引き留めさせてしまう宿場町の魅力でもある。
 いま路上で旅籠の邪魔にならない場所に布を広げ、小さな商い品を並べている露天商の前にふと足を止めた初老の商人(あきんど)も、 そうした旅人のひとりだった。
「簪か…どれ、ちょぃと見せて貰おう」
 どうぞ、と低いが愛想良い声で応えて、年のころ三十前くらいの男が律儀な角度に頭を下げた。 禁欲的な面立ちの目つきの鋭い男だった。簪などを商うにしてはいささか暗い陰りがある。 座っている男の背後に突っ立ち、行き交う人波を眺めていた子供が振り返って、 しゃがみ込む客を探るような目でジッと見た。
「ふぅん。こいつはなかなか…。兄さん、あんたが造りなすったのかい?」
 行商の男の慣れた目で見ても、この細工の細微に渡る技の冴えは、一見の価値あるものだった。
「へい。あっしの造るんはどうも地味すぎるってんで、手にも取らず立ち去る方もござんす」
 実直な物言いも、露天商ならば半端ものでも勢いで売り込もうとする輩と違っていて、好ましい。 なによりこの、すっきりとしていながら品のある優美さを細部に表現しているこの簪は、やはりこういう錺職人の手になるものというのが、 見れば見るほどよく伝わってくる。
「いや、地味は滋味という趣にも通じるものだ。あんたの細工はそんな風に見えるよ」
「そいつはどうも…。恐れ入りやす」
 中途半端な仕事ではこうはならない洗練された簡素さは、それだけ男の密かな自負を示しているともいえた。 しかし通りすがりに露店を冷やかす客から熱意をこめて認めて貰えたのが、意外でまた面映ゆかったらしい。 男は恐縮して首のうしろに手をやったが、浅黒い男らしい顔を照れくさそうにほころばせて、頭をきちっと下げた。 そうしながら値段を尋ねられて答えた額は、拍子抜けするほどの値だったのも、旅の商人を喜ばせる。
「これはいい出会いだった。私は西国に商売に向かう途中だが、ちょうどいい、いくつか仕入れてゆくことにしよう」
「ありがとうございます」
 ふたりのやり取りをさっきからずっと無言で見つめていた子供に、ふと商人が気付いて顔をあげた。 旅装からも少年だというのは分かっていたはずなのに、 細い手足に小さな顔、真一文字に引き結ばれているが可憐な口元、 とりわけ黒々とした大きな瞳が、一瞬少年の恰好をさせた女の子かと思わせた。
「坊。二人旅なのかい?おとっつぁんはいい腕の錺職人だねぇ」
 あまりいい血色とは言えない顔の周囲に癖っ毛を纏いつかせた少年は、急に話しかけられ驚いたらしい。 戸惑ったように何度かまばたきをしたが、黙って商人を見返しているだけだ。代わりに男が素早く答えた。
「こいつが死んだ女房に似て大ぇした人見知りでして…。おい秀、挨拶くれぇしねえか」
「はは…、いい、いい」
 江戸を離れる前に、いい仕入れの出来た商人は上機嫌だった。
「無口な職人のてておやに無口な子供がいるのは当然さ。てことは顔はきっとべっぴんの女房に似たんだな、秀坊とやら」
「ま、そんなもんで」
 笑いながら大人ふたりから顧みられても、秀は何がおかしいのかといった表情でまばたきをし、ふいと横を向いた。
「道中どうぞお気を付けて。おたっしゃで」
「ああ、あんた方もな」
 客が去ったあと、胴巻きに金をしまいながら、「おい、秀」男が声をかけた。 商人の後姿が雑踏に紛れ込むまで見送っていた少年は、振り返ると男の脇にしゃがみ込んで来て、顔をちらと覗き込んだ。
「おめぇがそうでっかい目で睨むと、おっかながって客が逃げちまう。退屈ならその辺ぶらついて来ていいんだぜ」
 秀は男の言葉についてしばらく考えていたが、黙って首を横に振った。 黒目がちの双眸がここにいると意思表示するように見上げてきたとき、澄んだ正直な目だと伊佐治はあらためて感じた。 この少年と二人旅をはじめてまだ三日ほどしか経たないが、最初に自分を睨み付けるように見たときの目が印象的で、 それが少年を気に入るきっかけでもあったのだ。
「…ふぅん。簪がそんなに面白れぇのか?」
 秀は伊佐治の手掛けた細工ものを、飽きもせずに眺めている。 暇さえあればそうして、簪をしげしげと見つめているのに伊佐治は気づいていた。 問いかけに秀は目を上げないままちょっと考えていたが、ぽつりと答えた。
「……きれいだ」
 高くも低くもなく耳障りのいい声だった。といっても、まだ両手に満たないほどにしか聞いたことがない。 話しかけないと答えは返らないし答えるの自体にも時間がかかるが、どうやらそれがこの少年の性格で遠慮や恐れではないらしい。 口が重いからといって頭は悪くないことも、すでに伊佐治には分かっていた。
「そういやまだ訊いてなかったな。秀おめぇ、いくつだ」
 無言で首を横に振る。 物心ついたときには芝居小屋に飼われていたのなら、いくつなのか自分でも答えられないのもムリはない。 秀を伊佐治に押し付けた宿のおかみの見立てはもっと幼かったが、 しっかりした判断力から、十三の歳は越えているのではないかと伊佐治は見立てた。 たしかに万年栄養失調気味でなんとか育ったと言えそうな体は、華奢で背もその年頃の少年にしてはやや小さいほうだ。
「よし。それじゃ今のうちに決めておこうぜ。…おめぇは十二でオレの息子な。 おっかさんはおめぇを生んですぐ死んじまったからなにも覚えていねぇ。 この先もし誰に訊かれたときはそんな風に答えればいい」
 江戸に入る前に、一人より親子を装うほうがなにかと怪しまれずに済むからと、 この身寄りのない少年を連れてゆくことにしたのに、きちんとした口裏合わせもしていなかった。 先の商人とのやりとりで気づかされるまで、すっかりこの少年の存在に馴染んでいた自分自身に驚いていた。 秀がほとんど喋らないしうるさくまとわりつくこともしないので、 寡黙な伊佐治にとっては何の気遣いも要らぬいい旅の道連れと満足していたのだ。 しかし不用意に話しかけられたときのために、多少の入れ知恵は授けておかねばなるまい。
「オレのことは伊佐治と呼べばいい。でもな、人前で呼ぶときは父ちゃんと言うんだぜ。分かったか?」
 ほかに聞こえぬ声で諭されて、秀は目を何度か瞬かせたがやがてこっくり頷いた。 みなしごがそう急に言い聞かせたからと、いざそのときにサラリと父ちゃんなどと言えるものだろうか。 伊佐治自身、そう呼ばれたことのない独り身だ。面はゆいのはお互いさまかも知れない。
「まあなんとかうまくやっていこうぜ、相棒」
 少し心もとない不安げな表情になった秀に気づいて、伊佐治が苦笑してその前髪に手を伸ばした。 目元に落ちかかる髪を軽く引っぱり指先で掻き分けてやる。生真面目な瞳が露わになった。
「そんな心配することはねぇ。困ったときはそのだんまりでジッと睨んでやればいいのさ」
 伊佐治が笑うと秀はその顔を不思議そうに見つめたあと、旅に出て初めて口元に仄かな笑みを浮かべた。


 二人が出会ったのは、もっと遠州寄りの東海道中にある宿場だった。 秀は男が投宿した旅籠の下働きの小僧だった。 疲れてたどり着いた客でごったがえす中、手が足りずに下女に交じって宿の三和土で伊佐治の足を洗いに出されたのだ。
 ふだんは裏の仕事でこき使われているらしく、膝下までの一重はぼろく土や炭に汚れていて、細い手足もかさかさして見えた。 伊佐治は元々の仕事柄、相手をよく観察する癖があったが、 この小僧は顔色も悪く休息や栄養がまるで足りていないと思った。
 ひょっとすると病み上がりを圧して働いているのではないか。 実際、少年の動きは人形のようなぎこちないもので、 人前に出されることに慣れていないための不調法以上に、ほとんどやっとの思いで体を酷使しているようにも見えた。
 他の下女たちのような、お疲れでしょうとか客にちょっとしたお愛想を言うことももちろん出来ず、 少年はそれでも丁寧に足の水滴を拭き取ると、黙って立ち上がる。 そのとき足元がふらりとよろけた少年は、両手に抱えた足洗い用のたらいを支えることが出来なかったのだ。
「危ねぇ」
 とっさに手を出して支えようとしたときにはすでに遅く、 泥に濁った湯はばしゃりと伊佐治の腰から下にもろにぶちまけられてしまっていた。
「秀っっ!?お前また何をやらかしたんだい!!」
 すかさず奥からすっとんで来たおかみが、手を出しかける下女を押しのけると、 自分も濡れたまま呆然と立ち尽くす少年に金切り声を上げた。
「お前ッ、お客さんになんてことをしてくれたんだよっこのバカ!」
 他の常連客も下女もいつもこんな調子のおかみには慣れっこになっているのか、苦笑しながらそう気にも留めていない。
「ほんっっっとに相すみません、お客さまぁ、まあ大変だ、お召し物がこんなに濡れて…」
 あたふたと謝りながら手ぬぐいで伊佐治の衣服の水を払いつつ、小さな体をどんと小突いてますます怒鳴りつける。
「秀っっっ!なにもたもたしてるんだよっ、さっさと拭くものを取って来な!!ほらっその前にたらいをどうにかおしよ!!」
「まあまあ、おかみさん。あんまり叱らねぇでやってくんな。こっちが気ぶっせいになるぜ」
 見かねて被害にあった伊佐治のほうが割って入った。
「まぁ、でも…」
「ひと風呂浴びてるうちに乾くだろうさ」
 特に自分のほうを見てかばうような様子もなく、これ以上の騒ぎは煩わしいと面倒くさそうに言う男の横顔を、 秀と呼ばれた少年は大きな目で怪訝そうにそっと見上げたが、おかみに追い立てられ慌ててその場を出て行くのだった。  




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