勿忘草 〜 forget me not 〜 2







 風呂上がりの夕食前。夕涼みの窓辺から、通りの賑わいを見下ろす伊佐治の動かない目に、町灯りがゆらりと映る。
 襖ごしの三人連れは物見遊山の旅らしく、汗を流すのもそこそこに大はしゃぎしながら外へと繰り出して行った。 当分は帰らないだろう。静かになった室内で一時的にホッとしたものの、妙な胸騒ぎは相変わらず伊佐治のなかで蠢いていた。
 今夜は眠れるだろうか。 ふと思った後ですぐに打ち消す。江戸に近づくにつれ些細なことに敏感になり、 気が張り詰めてゆくのは当然としても、少しばかり心に余裕がなくなっているようだ。
 流れ流れて西の果ての長崎の地に居を定めたのは、2年あまり前。 わずかな家財を処分し来月までの店賃を上がり口に置いて、ある夜人知れず長屋を出た。 軒先で揺れていた『かんざし』の看板がないことに住人たちが気づく頃には、 朝日に照らされる坂の多い町が遠ざかるのを、船の上から見つめていた。
 いま旅空にあるのは、この道行きを自分が決断したからに他ならない。
(考えてみたところで今さらどうしようもねぇ。もう決めたんだ。―――だろ?)
 自分自身に問いかけると、荷物から煙管を取り出し一服付けた。



 江戸を出て足掛け五年。その間に伊佐治は三十を二つ越えた。 五年前の口約束をかなえる為に自分は還る。だが今回は役人の元下っ引きとしてではなく、 死んだ甚吉のただ一人の肉親としてだ。
 南町奉行所の“昼行燈”といえば、本名を知らなくとも呼び名だけで通用する男がいる。 当時はまだ三十を少し出たばかりとかで、伊佐治ともそう大きな年の開きはなかった。 だがその若さに似ず、血気盛んに立身出世にまい進するようなやる気も見えず、 いつ市中で見かけても半眼開けたような馬面で、のほほんと店先を冷やかしている姿ばかりが記憶にある。
 実際、大きな手柄を立てることも仕官以来なく、上司の与力だけでなく朋輩からも軽視されているらしい。 が、本人はどこ吹く風と通常の勤務態度そのものからして投げている。こんなので良く同心など務まるものだと、 伊佐治も内心呆れかえったものだ。
 そんな風采の上がらぬ外回り同心に、或る時ヤクザ者たちにいちゃもんをつけられ囲まれていたところを救われたのだ。 万事休すの恩を受けたからと、 頼まれて手先の小者の役なんぞ引き受けずにいたら。錺職人という道をひたむきに歩むだけの人生を選んでいたら。 聞きこみを手伝ったのが運の尽き。一度限りのはずが、その後も何かにつけて声がかかる。
 駄賃はほぼ雀の涙でわりに合わないが、『口の堅そうなおめぇだから頼むのよ、このとーり』などと拝まれると、 若い伊佐治の自尊心はついくすぐられてしまった。 うまいこと顎で使われて肚が煮えながらも、 少しずつその役目に面白さとやりがいを感じてしまい、気づけばずるずると一年近くが経っていた。
 中村主水とのつき合いがなかったならば。甚吉のことは、ただの自死として片付けられたかも知れない。 あの男もしつこく勧めたように傷を癒すのではなく忘れるため、今頃はどこかの女と所帯を持ち子供の1人でも出来て、 かりそめの平和を刷り込んで生きていけたかも知れない。
 そんな空想はしかし、口論の末に出て行った弟の寂しげな顔と無残な最期の姿とが重なり合うことで、 居たたまれない後悔にもろくも打ち消されてしまう。
(この五年、ずっと同じだったな)
 江戸を出て五年の間、数えきれないほどに自問を繰り返してきた。オレはいったい何をしてる。 せっかく江戸(あそこ)を離れたのだ、もう2度と戻らなければ良い。甚吉のことももう過ぎてしまったことだ。 今さら何をどうしてもあいつの命は還らない。 それにああなったのは―――中村主水の言を引き合いに出すまでもなく―――元はといえばあいつの自業自得でもあるのだから。
(晴らせぬ恨みを晴らす仕事人だ?・・・バカが。金を貰ってやる人殺しに、理由も糞もあるもんか! てめぇの頭の蠅も追えねぇくせに大それた真似しやがって。まともに生きてりゃ良かったものを―――)
 死んだ弟をどう責めてみても、激しく言い争ったのが最後となった兄弟のあっけない決別がやりきれなくて、 忘れようとしても投げ出そうとしても、どうしても手放すことが出来なかった。
 ならば自分は、やはりこうする道を選ぶ他にはなかったのだろう。 不遇の少年時代をどうにか二人寄り添って生き延び、長じた後にはしだいに離反してゆくことになった弟だが。 この世でたった一人信じられると思っていた存在が死んだときに、伊佐治のなかで己の半分が死んだのだ。 生きたままもぎ取られたのだ。
 人の世の汚さに翻弄され恨みを抱いているのは、何も甚吉だけではない。 両親をこの上なく理不尽なやり方で奪われたとき、伊佐治はまだ13歳だった。 あの時の絶望と、弟を連れてのその後の悲惨な数年間を忘れることが出来ないのと同じだ。
 しかし伊佐治は、大人に近づくに従ってそんな昏い想念を腹の奥底に収めて見ないようにしていた。 錺職人の親方の元で修業をし、徐々にその腕を上げて通いの職人として認められるまでに、大人の分別を身に付けていったのだ。 下っ引きの仕事に入れ込んでしまったのも、ひょっとするとこの隠れた怒りが底力として働いているのかと考えた時もあったが、 強いてそこを深く突かないことで、感情の暴発を、そして公私混同を避けてきた。
 共に辛酸を舐めた弟が、自分と同じくこの世の理不尽さに対する怒りを忘れられずにいたのは、 無理からぬことと伊佐治も痛切に思う。甚吉が選んだやり方での報復は完全に間違っていたわけだが、 弟の口惜しさや孤独や無念さをこの手で握りしめた状態で、いまさら自分だけが平凡な幸せを掴めるはずがない。
『江戸を今すぐ離れろ、そして2度と戻ってくるんじゃねぇ。―――みんな忘れちまえ』
 善良な職人を聞きこみの足にただ同然でこき使って平然としていたあの厚顔な下役人は、 仕事人の話を持ち出した途端そう言って突き放した。 最後に交わした一連のやり取りと、南町奉行所の昼行燈と町人の耳にまで噂が入るような男の、 これまで見せたことのない眼光の鋭さに射貫かれて、息の根が止まりかける程の恐怖を感じたことを、ありありと思い出す。
『な・・・なぜです、旦那!?…オレはっ、甚吉がてめぇで首括ったなんて信じねぇ! ご覧になったでしょう!?自分で縊れるのにここまで高く上る必要があるかなと呟いてたじゃねぇですか!! 甚吉は―――あいつは絶対に誰かに殺られたんだと―――』
『伊佐治。それ以上言うと死ぬことになるぜ』
『!?――――』
 見たものを疑い、そこから推理する習慣が探索の常で身についていなかったら。 弟が高い木の上で縊れてぶら下がっているのをその場に駆け付けて目にした通り、ありのままの光景を信じていたかも知れない。 "兄さん おせわ"と拙く書かれた紙切れが懐から出て来た時にも、 この大バカ野郎と叫びながら変わり果てたむくろに取りすがっていたかも知れない。
 長く一緒に暮らしていた弟の性格はよく知っている。 死ぬ数日前の激しい兄弟喧嘩の顛末を思い返してみても、こんな唐突な自死はあまりに不自然すぎる。 自らの罪を認め兄に詫びて縊れるような人間なら、家を飛び出してゆく前に説得に応じていた筈だ。
 言い募る伊佐治の胸倉を掴んだ中村が、押し殺した声で唸るように言った。
『・・・だから何だってんだ?すべては甚吉が招いたことよ。仕事人…とやらの裏稼業に関わってたと他に漏らしてみろ。 次はてめぇが命を狙われるだけだ』
『そ…そんな―――――』
 大工がようやく板についてきたと安心していた弟が、大事な職人の道具を“仕事”に使っていると知ってしまったこと。 嘘の付けない甚吉は、問い詰められて本音を吐いた。
"もし仕事を見られたら、兄であっても殺すから見ないで呉れ"
"だがおれは間違ったことはしてない"
 兄に殴られて血を流した顔のままで、 それを口にした時だけは絞り出すように懇願した、甚吉の最後の言葉と表情とが、伊佐治を過去に引き戻す。
『伊佐・・・。死んだ奴よりてめぇの事を考えろ』
 その話を打ち明けても尚、あの同心はきっぱりと言いきり、 伊佐治に江戸を発ち身を隠すよう忠告した。出て行かねぇなら見つけ次第、俺がてめぇをしょっぴくぜとまで。 そのうえで、
『もし五年経っても諦めがつかぬならば、会いに来い――』
早々にこちらに向けた背中越しに、伊佐治にしか聞こえないほどの低い声で呟いた。
 あれがしつこい伊佐治を追っ払うための、その場しのぎの口約束だったとしても、 中村がなぜそうまで、弟と仕事人との関わり合いの事実に耳を傾けることもしないのか。 そのくせ命の危険に言及し警告を発するとは矛盾している。 仕事人の存在を信じていなければ、そんな事を言うはずがない。 一年あまりを付き合った仲だからこそ、伊佐治は中村の言外に隠された何らかの意図を嗅ぎ取っていた。


 やるしかない。たとえその為に今度は自分が命を狙われたとしても。
 どこかに居るらしいと、下ッ引き時代にひそかに不幸な人の口の端にのぼることもあった、 仕事人と呼ばれる殺し屋。甚吉があさはかにもその闇の社会に立ち入ったことで、 あたら若い命を散らしたのだと信じるほどに、 伊佐治は弟の死の真相を知り、自らの手でその無念を晴らすまでは、 幸せになることなど赦されないと考えるようになった。
 そうして長いようで短い五年の月日が過ぎ去った。
(それに中村の旦那・・・。何を言っても手遅れだ。オレはもう・・・、あの“仕事”に手を染めちまった―――)




 物思いに深く沈み込む伊佐治の耳に、
「秀っっっ!まあたお前かいっっっ!!」
旅籠のおかみの金切り声がどこか下方から上がり、ハッとして我に返った。
 二階の角に位置する伊佐治の居室は、旅籠の裏舞台のほぼ真上にある。 台所や井戸端と繋がる内庭を通して、奉公人の忙しく立ち働き出入りする喧騒が届いていた。 それは宵の口の遅い春の風に乗ってそれほど煩わしいものではなく、 伊佐治は聴くともなく漠然とその騒めきに身を預け、孤独を慰められてさえいたのだったが。 これから一斉に夕餉や宴会が始まるという時間帯だけあって、おかみの怒鳴り声はいっそう殺気だっていた。
「こっちの膳はそこいらの客には出すもんじゃないんだよっ!見りゃ分かるだろ、間抜け!この忙しいときにさ!!」
 秀という名が最初に出たから、あの痩せこけた少年のことかと思い出した。 旅籠の客の足洗に出されたものの、盥の重い水を盛大にぶちまけておかみに怒鳴られた。 とっさに汚水を浴びた自分が仲裁したが、その後のことは部屋に上がったから知らない。
 三和土の粗相の始末をした後、休む間もなく今度は台所の方に行かされたのだろう。 上客か否かによって出す膳の質まで替えているおかみの吝嗇ぶりにも呆れるが、 そんな勝手な理屈を嵩に子どもに当たり散らす理不尽さの方に、他人事と思いつつも不快を覚えた。
 どこの丁稚だって奉公先ではこんな風な扱いに大差ないとは思ってみても、 薄い一重一枚で蓬髪の髪を結うことすらされていない少年の姿は、 奉公人と呼ぶにしてはおざなりにされ過ぎているように見えた。それに酷く冴えない顔色。 どこか螺子仕掛けの人形みたいなぎこちない動き。ふらついてまるで病み上がりだ。
(どこかからの拾い者か・・・?おかみの大した当たりようは・・・)
 身なりからだけの推察ではなく、明らかに少年を厄介者扱いしている。 ガミガミ言う声に対して、秀と呼ばれた側から何の応えもない。もしくは何か返事くらいはしたのかも知れないが、 聞き耳を立てる前にバシッバシッと問答無用とばかり、頬を張る音がした。
(ひでぇ女だ。あのガキも、ひとっ声も上げねぇとは・・・なかなか強情らしいぜ)
 思わずキンと胸の奥が痛んだ。遠い日の自分たちの姿が脳裏を掠める。 旅籠の上がりかまちに腰を下ろした自分の前に膝をつき、挨拶を言う代わりにジッと無言で見上げて来た、 秀の小さな顔を思い浮かべた。・・・なぜ思い出せたんだろう。ただ一度、正面から顔を見ただけなのに。 少し考えて思い当たった。
(あの目だ)
 眉や頬にかかる癖のある黒髪に縁どられた少年の面に目が留まり、ハッとしたことを思い出したのだ。 二重の大きな目、細い鼻梁と白っぽくかさついているが花弁のような唇の造形には、 性別を超えた可憐な美が元から備わっていると見た。
 ありがとよ、と口をついてふと出た言葉に少年がちょっと顔を上げる。 二人の視線が合った時。真っすぐに見つめて来た黒目がちの瞳の揺るぎなさに、伊佐治の意識が動いた。
(あんな目を―――どこかで見た気がする)
 静かな諦念と拒絶。見えない壁が少年の周りに張り巡らされている。 目は心を映す鏡だともいう。まだ十を幾つか出た齢にしか見えないのに、一切の心を閉ざしてそこに居る少年。 何の感情も映さない透明なまなざしを向けられ、わずかながらたじろいだのは、 旅の間も迷い続ける己の心を見透かされた気がしたからだ。
 そのうち力尽きてしまうのではないかと思わせる危なっかしさ儚さを覆すものとして、 捨て犬のような少年の瞳は、伊佐治の脳裏に強く印象づけられていた。  




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