勇次、江戸を去る 3







 勇次が店の軒先につるしてあった看板ごと、外そうとしているときのことだった。
 秋の日は釣瓶落としの言葉そのままに、急速に陽が落ちた後の薄闇のなか、 背後から勇次に近づいてきた者がある。 お客かと思い振り返った勇次は、その姿を見るなり我が目を疑った。
「っ。・・・ひで・・・」
「―――」
 秀はいつもの袢纏姿だったが、吹き抜ける風に少し寒そうに胸のまえで両腕を組んで、 無言のまま突っ立っていた。
「・・・どうしたんだ、いま時分?」
 看板はそのままにして向き直る。秀は黙って勇次を見つめていた。 秀の目の白い部分がやけに底光りして、勇次の目を射た。
「・・・・・お。おめぇと、・・・は・・・はなしがしてぇ・・・と思って、来てみた」
 たったそれだけのことを口にするのに、 秀は何度か言いよどみ、 囁くような低い声でようやく勇次にそれを伝えた。
「・・・・・」
 突然の驚きのあと、一瞬湧き上がった甘い疼きに胸を締め付けられる。しかし秀の固い表情を見て、 勇次の胸を暗澹とした思いがよぎった。あの夜のことを、身にも心にも刻み付けられた陵辱の記憶を、 秀が忘れられようはずがない。
 いまさら何を話すことがあるのか。自分の側にはもう何もありはしない。 しかし秀が何かを伝えるために来たことだけははっきりしていた。そうでなければ、 加代から自分たちが江戸を出るという話を聞かされたとしても、 わざわざ秀が姿を見せるはずがない。否、見せたくもないはずだ。
 中にはおりくがいる。すでにふたりの荷造りも終わり、明日の朝にも発とうというところだった。 昼間顔を見せた八丁堀や加代と同じように、 秀にも最後の別れに母にも会わせようかと思ったが、
「秀。これからどこかで呑めるか?」
 勇次は訊ねた。ふたりきりで向き合いたい、という欲求のほうが勝ったのだった。 秀は少し途惑ったように身じろいだが、ああ、と応じた。
「一寸待っててくれ」
 言うなりすぐに勇次は中に足を踏み入れ、奥にいるおりくに向かって声をかけた。
「―――おっかさん。すまねぇがちょいと出てくるぜ」
 奥からはなんの返答もなかった。
「待たせたな」
 勇次は出てくると、後ろ手に戸口を閉じながら秀の全身をあらためて見遣った。 影を見るだけでも秀の痩せた体がさらに細くなった気がするのは、気のせいだろうか。
「どこに行く?」
 声だけを聞けばあいかわらずの無愛想に軽く口元を緩ませ、
「こっちだ」
勇次は秀を促すと、先に立って歩き出した。



 巴という小料理屋に入ったふたりは、こぢんまりした奥座敷に迎えられると、 銚子を数本と簡単な酒肴をまかせて、あとは呼ぶまで来ないようにと女中に頼んだ。 注文の品が運ばれ女中が去ると、部屋には急に居心地の悪い沈黙が訪れた。
「いける口かい?」
 誘った勇次が銚子を手に訊くと、
「まぁな」
 膳のうえの盃をとって、秀が無表情に差し出す。勇次がそこに酒を注いだ。
「注(つ)がれたからには、返さねぇと」
 と、今度は秀が勇次の盃に注ぐ。 このぎこちなくも滑稽なやりとりに、目を見交わしたふたりの間にささやかな笑いが起こる。
「あとは勝手にやってくれ」
「めんどくせぇや。無礼講で頼むぜ」
 ふたりはほとんど口も利かず、ろくに顔を見ることもせず酒を口に含んでいたが、 そこに重苦しい雰囲気はなく、淡々としていながら不思議と気詰まりでない静けさが場を満たしていた。 猫を真ん中にしてふたりで過ごしていた頃と同じだと勇次はふと懐かしくなった。
 盃の陰からチラと秀を見ると、秀もまた勇次に視線を向けていた。
「秀。おめぇ・・・。なんか話があって来たんじゃねぇのか?」
 空恐ろしくもあったが、秀の思ったよりくつろいだ様子を見ていて、勇次は自分から口火を切ることにした。 どのみち、これが最後。何を面罵されようとも、今後ふたりがこうして目を見交わし、 会話することはないのだから。
 一方秀は、自分を見つめている久方振りに間近で見る勇次の切れ長の瞳に、 無自覚に動悸が速まる思いがしていた。身勝手な自分に勇次が失望し蔑んでいるのではないかという妄想に、 昨日もまた苦しんでいた。このまま何もせず、物別れに終わったほうがいいのではないか。 そうした葛藤を何度も心の隅に追いやりながら何とか造り上げたものを、 今夜秀は勇次に渡したいと思ってやって来たのだった。
「・・・あぁ」
 秀は盃を戻した膳を脇に押しやると、懐を探って布に包んだものを取り出した。 畳のうえにそれを置き、黙って見ている勇次の前でそれを開く。 行灯の柔らかい光を受け、その艶やかな銀色はとろみのある光沢を湛えていた。
「秀―――これは」
「口約束のままになってたのをやっと仕上げたぜ」
 口調がついぶっきらぼうになってしまうのは致し方ない。勇次の反応を見る勇気がないまま、 秀は布ごと勇次のほうに押しやった。勇次の白い指先が、丹精込めたそれをソッとつまみ上げる。
「・・・竜胆に燕・・・」
「・・・」
「覚えていてくれたんだな」
 勇次の口元がほころび、秀をかえり見る。勇次が持つと不思議と簪にもなまめかしさが加わり、 秀の胸にそのとき初めて、苦い切なさが広がった。造っているときは何も考えていなかったが、 これはそう、勇次の想い人への贈り物なのだ。 細工の美しさを愛でるように指先でゆっくりとその形をなぞる勇次を、秀は伏し目がちに見つめる。
「遅くなっちまったが、・・・もし渡せるんなら・・・」
 その言葉に勇次が顔を上げて秀を見た。秀は反対のほうに目を逸らす。余計なことを言ってしまったようだ。
「秀」
「金は要らねぇ。そいつは礼のつもりで受けてくれ」
「礼?なんの礼だ」
「・・・いろいろだ」
「・・・いろいろ?」
 勇次の声に、湧き上がる可笑しさを押さえつけるような気配が加わり、秀はやや憤然として突っぱねる。
「もういいだろ、なんでも。黙って受け取りやがれ」
 胸のなかで付け加える。
(そいつをその女に渡して、とっとと何処にでも行っちまえ。 おめぇのなかじゃひょっとしてもう、期限のとっくに切れた女かもしれねぇが―――)
「・・・そうかい。それじゃ遠慮なく貰っておくぜ。だがな秀・・・」
 懐に簪をしまった勇次が、膝を秀に向け直すようにした。正面から見据えられ、 ぞくっとするほどの意味深な目つきに、秀は内心の動揺を禁じ得ない。
「あれはオレのものさ」
 意外な一言に、秀の目がきょとんと瞬いた。
「―――どういうことだ?」
「あの簪はな・・・。実を言えば女に遣るためじゃなく、 おめぇと裏の仕事以外で会えねぇものかととっさに口をついて出た・・・ウソだった」
「ウソ・・・?」
 怪訝な秀の表情が、ウソときいて少々険しくなったのを見て、勇次が苦笑して抗弁する。
「いや、女といったのはウソだが、ぜんぶが出まかせじゃねぇ。 竜胆と燕の意匠がいいと言ったのは、ほんとのことだ」
 秀には勇次の言っていることがわからない。
「勇次。おめぇが何を言ってるのか俺にはさっぱりわからねぇ。 俺に会うために簪を頼んで・・・それが竜胆と燕だと?」
「その意匠はな、おめぇのことさ、秀」
「・・・!」
 秀の目が再度大きくしばたいた。
「自分でも不思議だったが、簪を頼んだときのおめぇを見て・・・フッと浮かんだのさ」
 照れ隠しのように、勇次が手酌で自分の盃を満たし、クイとあおる。
「―――――」
 秀は居たたまれない表情になり、顔を逸らした。熱くなってゆく耳から頬にかけて、 勇次が視線をあてているのは分かっていたが、いま顔を合わせることなど出来そうにない。
 あのとき勇次は言った。 『優しげな色気には欠けるし愛想もねぇが、きりりと筋の通った好い女だ』と・・・。
「おめぇは大ばかだ、勇次」
 低い声で勇次を咎めながら、ふいに目元に込み上げてきた熱いものを秀は無理やり抑え込んだ。 勇次の手がすいと伸びてきて、秀の前髪に触れる。
「触るな・・・」
「・・・そいつはむりだ」
 勇次の指が髪からこめかみへと流れ、頬を辿って頤へと、ゆっくりと秀の輪郭をなぞってゆく。 顎を捉えた親指が、やがて乾いた唇に触れた。
「秀・・・。あの場のこととは言え、おめぇには酷ぇ仕打ちをしてしまった。・・・すまねぇと思ってる」
 秀の目が勇次のそれと絡み合う。哀しい色をしていると思った黒い瞳が自分を映し込んでいた。 そのとき気がついた。勇次のこの哀しみは、勇次の優しさから湧いてくるものなのだと。
「―――勇次。謝るのは俺のほうだ」
 ようやく秀は素直に口を開いていた。
「松蔵の一件といい、雄太郎のことでも・・・。おめぇに何もかも面倒かけちまった・・・」
「面倒なことがあるもんか。オレが勝手におめぇに惚れてやったことさ」
「・・・なんでだよ。なんで俺なんかに―――」
 俯いて、なぜか責めるように声を絞り出す秀の顔を、勇次の両手が包んで上向かせる。 その目にも口元にも、くすぐったいような笑いが浮かんでいた。
「じつはオレにもよくわからねぇんだ。いつからおめぇを、そんなふうに想ってたのか・・・」
「・・・・・」
「自覚はなかったが、ひょっとすると簪を頼んだときにはもう・・・」
 勇次の影が動いて、秀の唇を塞いだ。秀は目を見開いて固まったままでいたが、 柔らかく押しつけていただけの勇次の舌がなかに入ろうとしたとき、ビクッと思わず肩を震わせていた。
「・・・・・」
 勇次が身を離し、秀をじっと見つめて呟いた。
「すまねぇ。おめぇにこんなことをする資格はねぇな」
 秀がなにかを言おうとカラカラに乾いた口を開きかけたとき、襖の向こうから、 あのぅ…と若い女中の控えめな声がかかった。
「お客さん、あいすみませんが・・・。そろそろ店じまいです」
「おう。こっちもちょうど出るところさ」
 即座に反応した勇次がサッと裾を捌いて立ち上がり、襖を開けた。
「お客さん、こんなに・・・」
「いいんだ、とっときな」
「はい・・・はい、ありがとうございます」
 如才ないやりとりを遠くに聞きながら、秀は無意識に自分の両腕を強く掴んだ。 勇次が欲しい。しかし体はそれを反射的に拒絶する。

 見送られて店の外に出るまで、ふたりは一言も交わさずにいた。 昼間の日差しのもとではまだ心地好い秋風も、夜には身に沁みる。
「―――それじゃ」
 口火を切ったのはやはり勇次だった。秀は自分の不甲斐なさに唇を噛み締める。 いつだって勇次に、先に言葉を出させ、先に行動させている。自分はいつも待つだけだった。
 そう。どこかでいつも勇次を待っていた。本当は自分のほうこそ、勇次の目が自分だけを捉えるのを、 意味深な言葉を投げ掛けてくるのを、ずっと待ち望んでいたのだ。
「―――勇次」
 踵を返して歩き出した背中に、秀は小声で呼びかけた。勇次が足を止める。
「勇次。頼みがある」
「・・・」
「俺を・・・抱いてくれねぇか・・・」
 振り向かない背中が一瞬硬直する。ややあってこちらを振り向いた町灯りに照らし出された白い貌にも、 勇次らしからぬ動揺が浮かんでいた。
「秀、おめぇ」
「頼む。もし・・・。もしおめぇが厭でねぇなら」
「・・・。ムリするんじゃねぇよ」
 再び立ち去りかけた勇次の着流しの袖を、秀の手がとっさに捉えていた。
「!・・・」
 ふたりの視線がもう一度絡み合う。 喧嘩かとちらちらこちらを伺いながら行き過ぎる酔客をやり過ごすと、秀は押し殺した声で勇次に告げた。
「勇次。いつもおめぇにばかり言わせてきたが、俺は・・・。俺も、おめぇに惚―――」
 その声は、通りの喧噪と吹き渡る秋風とにほとんど掻き消されたが、 勇次の耳にだけははっきりと届いていた。





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