人目につかない出会い茶屋にふたりは入った。 薄暗い廊下を行くあいだにも襖を通して、向かいの部屋や隣の部屋から、 睦み合う気配とあられもない男女の声が漏れ聞こえてくる。 「まいったぜ。家ん中じゅうずぶ濡れだ・・・」 部屋に入った勇次は苦笑いを浮かべて、後ろに付いてきていた秀を返り見た。 灯りのついていない部屋は暗く、障子窓を通してのかろうじての光源が透けている。 そのなかでうつむき加減に佇む秀の表情はわかりにくいが、 あきらかに緊張している気配だけは伝わってくる。 勇次は秀の体には触れようとせず、ただ言葉だけをかけた。 「よくねぇ趣向だ。やっぱり止そう」 秀は黙っている。 「おめぇのその気持ちを聞かして貰っただけで・・・オレは充分さ」 「・・・・・いやだ・・・」 「秀・・・」 何をか言わんとして、一度小さく秀が息を吸う。 暗闇と今しかないという気持ちの両方に後押しされるように、一歩勇次のほうに近づいた。 「お・・・俺は・・・。あんときの・・・アレが、おめぇとの、さ――最後の逢瀬になるのは・・・いやなんだ」 秀の言葉に、勇次の背中全体をぞくりと快感が襲う。 闇のなかで秀の意志を宿した瞳を探し当てたとき、勇次は総毛立つほどの烈しい欲望を覚えた。 「・・・オレに、おめぇの傷を・・・癒させてくれるのかい?」 低く問いかけつつも、勇次の手はもう秀の肩にかかっていた。洗いざらしの薄い袢纏の上から掴んだ肩は、 あのときよりも明らかに痩せていた。勇次が秀を永遠に失ったと思い、 忘れようと女の肌に逃げても忘れられず悶々と苦しんでいたように、会わないあいだ秀もそれだけ、 色々な葛藤に悩み苦しんでいたということだろう。 「てっきり殺したいほど憎まれてると思ってた・・・」 「殺してやりてぇと思ったさ。・・・だがそれを望んだのは俺のほうだ」 喉もとから首筋にかけて、露出している肌に両の指を這わせてゆく。 輪郭を辿って耳朶に触れ、耳の後ろから切りっぱなしの髪に手を差し入れてまさぐった。 秀はされるままになりながら、自分でもおずおずと勇次の胸に手を触れてくる。 「辛かったろう」 「おめぇも、勇次―――」 囁き合いながらやがてぎこちなくふたりの唇が合わさった。何度か啄むように口づけたあと、自然に舌が絡み合う。 至近距離でしか判り得ない、お互いの肌の匂いと体温とに欲情していた。 唇を離せないまま互いの帯を解き、肩から着ていたものを性急に滑り落とす。 衣擦れの音までが今夜はなまめいて秀の耳には感じられた。 互いのあいだを隔てるものはすべてが邪魔でしかなく、 下帯まで取り去って敷かれた床のうえにもつれ込んだときには、 もうどうしようもないところまで身裡を煽る焔は燃えさかっていた。 秀の背が布団に触れるのを待ちかねたように、 伸び上がった勇次が裸の腕で上体を抱き込んで深い口づけを落とす。自然に目を閉じていた秀も懸命に応える。 息を弾ませて求め合うふたりの脚が複雑に絡んだ。 日常的に鍛え抜かれた痩身に、勇次が楽器を扱う手つきで指を滑らせた。 脇から腰、尻にかけてを撫で下ろされ、秀のからだがまたぴくりと跳ねる。 「心配いらねぇ。おめぇの厭なことはしねぇよ・・・秀」 勇次は時間をかけて秀のからだを開いていった。 この肌に己が刻みつけた陵辱の痕跡をひとつずつなぞり消し去るように、丁寧な愛撫を加えてゆく。 秀がときおり、もどかしそうに首を振って先に進めさせようとする素振りをみせるが、 ここで己の欲を充たすために急ぎたくはなかった。 自分の胸のしたで快感と羞恥に身を捩らせているこのからだが、 勇次を信じてすすんで身を任せようとする秀の心根が愛しい。 あのときには単に秀をより精神的に追い込む目的で、唇を這わせ指で敏感な部分を嬲った。 秀が生理的な己のからだの反応に必死になって抗う姿を見るのは辛かった。 快楽を与えてしまうほうが勇次としては容易だった。しかしそれをしてしまえば、 あのときの秀なら舌を噛むことも辞さなかったろう。 死なせないために、勇次は憎悪の矛先を秀自身でなく、自分に向けさせるような非道を行なったのだ。 硬く勃ち上がった秀の牡を口に含もうとしたとき、 「!だめ、だっそんな・・・っ」 さすがに秀が勇次の肩を押し止めようともがく。その手を逆に握り込んで、勇次は構わずにそれに舌を這わせた。 「・・・っっ、ぁ・・・っ!」 秀の爪先が肩に食い込む。欲深さを正直に示すそれを口内に誘い込むと、 開かせた内腿がはげしくわななき秀が背中を大きく反らせた。 「ん・・・、んっ・・・っ」 声を殺そうと片手の拳を口に押しつけて悶えるが、堪えきれない呼気の乱れがかえって勇次を煽り立てる。 わざといやらしい音を立てるたび、薄い腹に震えが奔り、秀の汗に湿った髪がぱさり、ぱさりと布団を打つ。 自分と同じ性の証を持つ者になんの抵抗もなくそれが出来ることに、勇次は不思議を感じた。 むしろ男の自分だからこそ、深い愉悦を引き出してやれるとすら思った。 「―――ゆう、も…もう・・・」 我慢も限界に達したのか、やがて余裕のない秀の声が許しを乞うように勇次を急かす。 勇次は唇を離すと半身を起こし、今度はそこに長い指を絡めて強く擦り上げてやる。 緩急つけて追い上げる動きに秀は短く息を継いで喘いだが、アッ・・・と小さな声を発して手の中に精を放っていた。 ハァハァと息をつく口元に伸び上がり、勇次が再び唇を重ねる。 射精後の息つく間もなく呼吸を苦しくされ、秀が思わず勇次の背中に手をまわして引っ掻く。 その仕草のあまりの愛しさに、追い上げた側の胸が詰まりそうになる。 藻掻かせておいて勇次は濡れた手をそのまま、片手で抱き寄せた秀の尻に滑らせ、双丘のあいだに塗り込めた。 綺麗に丸く整えられた爪先が後腔に触れると、さすがに秀が身を硬くしたのが分かった。 勇次の背に回された手から力がぬけ、するりと肌からすべり落ちる。 勇次は軽く身を起こして秀の顏を見下ろした。 「・・・ここで止めたいか、秀・・・」 低く訊ねる。勇次としても当然、それはとてつもなく苦しいことだった。 秀と身を繋ぎたいという体中の血も煮え立つほどの欲望が、勇次のなかで荒れ狂っている。 しかし秀も言っていたように、最後の逢瀬が辛い記憶と重ねられるならば―――。 「・・・違う」 ややあって、呟いた秀が再び手を勇次のからだに回す。その動きに誘われるように唇を軽く合わせ、 互いの睫毛さえ触れあうほどの距離で見交わす秀の黒目がちの瞳が、ふいにパタリと閉じられた。 「秀・・・?」 「また・・・おめぇとこうしたら、・・・今度こそおかしくなっちまいそうで・・・」 その密やかな声音には、怖れを誤魔化すためかそれとも照れ隠しのためか、 薄く笑いを含んでいた。そのくせ、密着している胸を通して秀の熱く速い鼓動は勇次にも伝わっていた。 愛撫の最中からずっとからだに当たっていた勇次の剛直を、秀の腿が軽く押し返す。 わずかそれだけのことで勇次の下半身に重い快感が奔る。 勇次を思い切らせるように、秀の掌がゆっくりと背中を抱き寄せる。 眩暈がしそうな誘惑に飲み込まれかけながら、ついに勇次もくすりと笑って応じた。 「・・・ぜひともそうなって欲しいね。こっちもやり甲斐があるってもんだぜ・・・」 そのとき隣の部屋から絶頂を迎えたらしい女の声があがったが、 ふたりの耳にはもうなに一つ届いてはいなかった・・・・・ まだ明け初めぬ時分に、勇次は家へと戻ってきた。 秀とはそこで分かれた。いつまでそうしていても、きりはない。 互いにどこまでも貪欲に追い求め、からだにも心にもその存在を刻みつけた挙げ句、 ふたりはもうこれ以上どんなに求め合っていても、 どこにも向かうことの出来ない自分たちに気づかぬわけにはいかなかった。 体中に勇次の遺した刻印を散らしたまま、 秀は疲れた身を引きずるようにしてひとけのない道を、勇次とは反対の方角へと去ってゆく。 勇次はしばらくその振り返らない細い背中を見送っていたが、 口のなかでひとつ深いため息を噛み殺すと、背を向けた。 先ほどまであんなに熱を孕んでいた体を、冷たい風が吹き付けては冷ましてゆく。 まるでからだが透明に透けてしまったような、 足下に吹き寄せた枯れ葉一枚の重たさもない空っぽになった己を、勇次は感じていた。 これからの日々を、あれほど愛しいと思えた存在無しにどうやり過ごしてゆけばいいのか、 距離と時を隔てるうちいつか忘れて以前の自分に戻れるのか・・・。 さしもの勇次にも見当もつかなかった。 出立の前夜にしてこれほど帰りが遅くなるとは、さすがに母の気を揉ませたかもしれない。 出がけにおりくに声をかけたが聞こえていなかったのかと勇次は思い、 表にまわってみたのだが、やはり三味線屋の表戸は不用心にも戸締りがされないままになっていた。 しかしなかに一足踏み入れた勇次を驚かせたのは、そのことではなかった。 いつも勇次が座って三味線の手入れをしていたちょうどその場所あたりに、 両手にあまる程の大きさの白いような塊が、茫とわだかまっていたのに気づいたためだ。 「・・・チビ――――!?」 一瞬いつもの出迎えかと目元を緩ませた直後、 勇次はそれがここにいるはずのないことを思い出し、ハッと目を見開いた。 「お…っかさん?」 瞬間、勇次はらしくない雑な動作で下駄を脱ぎ捨てると上がりかまちを一跨ぎにし、 裾を蹴さばいて家の奥へと急いだ。 「おっかさん!?」 許しも得ずサッと開け放ったおりくの部屋を覗いて、勇次は言葉を失った。 布団はすでに畳んで部屋の隅に寄せてあった。たばこ盆はそのまま、しかし愛用の煙管は思ったとおりそこから消えている。 「――――・・・」 勇次は踵をかえすと、勝手へと向かった。明け方の薄闇のなか、 そこに自分の旅支度だけが置き去りにされているのを見つけた。 「おふくろ・・・」 おりくはひとり、未明のうちに発ったのだ。昨日の夕方、勇次が出かけると声を掛けたあのとき、 敏い母は息子の声の調子で何事か起きたと感づいていたのだろう。 勇次が猫を出稽古先に連れていったのは数日前だった。その猫を昨日のうちに出かけていって、 貰われ先から取り戻してきたのもまた、母の仕業に違いなかった。 『よくお考えな、勇さん・・・。それでほんとにいいのかどうか』 『野ざらしを心に風の沁む身かな、だよ、勇さん。あたしの身を心配して、あんたまで江戸を出ることはないさ』 勇次のぼんやりと定まらない頭のなかを、おりくの言葉が巡る。ひょっとすると母は、 自分の秀に対する想いに気づいていたのだろうか。 何かに迷ったときただ見守るだけで悩むだけ悩ませて、 常に勇次自身に答えを探させてきた厳しい母が起こした思いがけない行動に、 勇次は母の語らずの声を聞いた気がして、長い間その場に立ちつくしていた。 ニャア、と小さな鳴き声がして、勇次のくるぶしにチビが体を擦りつけてくる。 勇次は黙って、チビの体を抱き上げた。 「なぁ、おい。おっかさんが行っちまったよ、チビ」 白に茶のところどころ混じった猫は、長いしっぽをゆるりと勇次の肩にのせかける。 「・・・どうだい?おめぇの拾い主にも、そろそろ会わせてやらなくちゃな・・・」 返事のような間合いで、ニャと猫が応え、勇次の口元を緩ませる。 外から、新しい朝の光が射しかけていた。 了
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