ある暮れ方、例によって出かけようとする勇次をおりくが引き留めた。 「勇さん、ちょいと」 勇次は切れ長の目を声がかかった居間のほうに向けると、黙って引き返しおりくの前に膝を折った。 「なんだい、おっかさん」 「うん。ものは相談だけどね、考えてることがあるんだよ」 勇次が静かに母の顔を見守る。こうしてみると、勇次が何を悩み何に苦しんでいるのか、 おりくにも読み取れない。おりくが幼い勇次に徹底して叩き込んできた修羅道を生きるうえでの則が、 この強靱な精神力を育て上げたことは間違いない。 しかしいま、勇次はそれゆえに自分のなかに渦巻く感情との相克に藻掻いている。 まるで荒ぶる龍をむりやり池に鎮めたまま永遠に封印せんとするかのように―――。 「しばらくまた、江戸を離れようかと思うんだよ」 言いながら勇次の顔を伺うが、その少し痩せてしまった白い頬にはわずかな動揺も奔らなかった。 おりくの顔を見つめたあと、一度だけ膝のうえに置いた手に視線をおとす。 「・・・そうかい」 呟いて再び目を上げたときには、その青みがかった黒い瞳に奇妙な光が宿っているのにおりくは気づいた。 「勇さん。それであんたはどうするね?」 「どうするって、なにが」 「あたしと一緒に江戸を出るか、それとも残るか・・・」 「出るさ、もちろん」 勇次はあっさりと答えた。長い苦悩も江戸を出るといういわば究極の選択によって、 ようやく終止符を打てることに気づき、むしろホッとしたような気配すらあった。 「あたしは1人でもちっとも構やしないんだ。これまでだってしばらく留守にすることもたびたびあったことだしね」 「オレはおっかさんの体のことが心配だよ」 「いやだねぇ。いつまで気にしてるのさ。もうすっかり何ともないってずっと言ってるじゃないか」 勇次の心配にいささか反発すら覚えるおりくである。たしかに不安がないかと訊かれれば、多少なり気がかりなこともある。 寄る年波につれ、いろいろな部分で思うに任せぬことも増えてくる。 しかしそれはそれ、とおりくは思うのだ。 「あのときはたまたま家のなかで倒れたし、ちょうど秀さんがいたから助かったけどね」 秀、の名を口にしたときだけ、勇次が一寸目を逸らした。 「どこにいたって起きるときには起きるんだ。心配してたってはじまらないさ」 「そりゃそうだが・・・」 「野ざらしを心に風の沁む身かな、だよ、勇さん。 あたしの身を心配して、あんたまで江戸を出ることはないさ」 いずれどこぞの旅空で死ぬ我が身と思えば―――。芭蕉の句を引き合いにしたおりくの言葉に、 勇次が居住まいを正すような素振りをして、正面から見据えた。 「おっかさんの心配のためだけじゃねぇ。オレもちょうど・・・、江戸を出たいと考えていたところなんだ」 「・・・そうかい」 おりくはそのとき何故か、胸にぐっと込み上げる憐憫を目の前の息子に感じるのを禁じ得なかった。 「ところでチビはどうしようか」 「ああ、そうだったね」 チビはこのところ、勇次の部屋のお気に入りの場所ですっかり安住している。 もうチビと呼ぶには憚られる大きさにまで成長していたが、中身はまだまだ子供だった。 「諏訪町の山倉屋さんで楽隠居の相手を探してるてぇ話を聞いたが。チビを遣ったらどうだろうな。 ひとにはもう馴れてるから、困ることは何もねぇだろう」 「勇さんがそれでいいなら、あたしは構わないよ」 自分の意思を逆に問われ、勇次がやや途惑った表情で曖昧に頷いた。 「オレもおっかさんがいいなら構わねぇ。さっそく次の稽古のときに話してみるかな」 おりくは訊くならいましかないと、言葉尻の終わらぬうちに問いかけていた。 「勇さん。あたしの他にも伝えるおひとがいるんじゃないかぇ?」 腰を上げかけていた勇次が、こちらを真顔で見上げるおりくの目とかち合うが、サッと逸らしてしまう。 「秀さ」 「万事こっちに任せるって言ったんだ。新しい飼い主を捜したって構いやしねぇよ」 「――――」 「もう話が済んだならオレは行くよ。おっかさん」 無言の拒絶をしめす広い背中を、黙って見送る。 「ほんとに江戸を出ていいのかい?」 低く端唄を呻るような声で、その背中が襖の向こうに消える直前、おりくが囁いた。 勇次が一瞬呼吸を止めた様子が気配で伝わる。 「よくお考えな、勇さん・・・。それでほんとにいいのかどうか」 「ねぇねぇねぇ、ちょっとちょっと聞いてよ秀さぁん〜〜」 近頃足が遠のいて静かになったと思っていた加代が、 久しぶりに戸を叩いて訪ないを入れたかと思えば、騒々しい声とともに上がり口に這い込んできた。 「んだよ加代・・・。おめぇはほんとうるせぇな。そんなでけぇ声出さなくたって目の前に居るだろうが」 「これは地声だよ!それにしたってこれ聞いたら大声で嘆かずにいられないわよ〜」 秀はうんざりと煤けた天井を仰いだが、いつでも変わらない加代のあけっぴろげさに、 ここのところ煮詰まっていた気持ちが、ちょっぴり解放されたのもたしかだった。 「分かった分かった。頼むから戸くらい閉めてから話してくれ」 あ、忘れてたと加代は戸口を閉めに走り、草履を脱ぎ捨てて板間に上がり込むと、秀の作業机ににじり寄った。 真っ赤な紅を口に塗った白い顔が間近に近づくと、ふいに加代が真顔になる。 「?」 怪訝な目を向ける秀に、小声で囁いた。 「おりくさんが近々江戸を出るつもりでいるんだって」 秀は加代の猫のように光る大きな瞳を見つめた。 「今月すえにも出発して、当分戻らないつもりらしいよ」 「・・・何かあったのか?」 「知らない。っていうか、何となく思うところ出てきたんだってさ」 言いながら加代は唇をとがらせ、なんとも不満げな様子である。 「江戸(ここ)に居て、妙に人心地がつきすぎたようだって・・・。 このまま居続けたら、気が緩みきっていけないような気がするんだって」 「・・・・・」 秀は凜として佇む、おりくの小柄だがやけに大きな存在感を示す姿を脳裏に思い浮かべた。 八丁堀とはまた違う意味で、おりくは仕事人としてだけでなく、 年長者として秀たちを見守りときに厳しい意見を呈する貴重な役割をも担っていた。 たった一年あまりとも思えぬほどに、その存在は自分たち仕事人仲間のなかに欠くべからざるものになっていたため、 突然の加代からの報告は、少なからず秀にも衝撃を与えていた。 「おりくさんは、ずっとそんなことを考えてたのか・・・」 秀が思わず独り言を漏らすと、 「そんなことないよ!」 加代がやたらとムキになって秀に反駁した。 「春先に倒れたことあったでしょ。あのときから色んな昔のことを振り返るようになったんだって」 「・・・・・」 「行っときたい場所や消息が気になる人の足取りを、思いついたときに訪ねておきたいって私には言ったよ・・・」 おりくの過去は何一つ知らないことに秀はふと気づく。と同時に、あの親子に血のつながりが無いという事実以外、 彼らについてなにも知らなかったことを、今さらながら思い出して少し茫然とした。 考えてみれば、それはごく当たり前のことなのだ。 仕事人としてつとめを果たすためだけの一時的に手を組んだ仲間に過ぎない。そしてそれだけであるなら、 相手の過去や素性など知らなくとも何ら支障はなく、むしろ互いになにも知らずにいるほうが、 余計な気持ちを引き摺られずに済む。おりくたちとの関係性のほうが今までにはなかったことであって、 あってはならないことだったのかもしれない。 それでおりくは自分なりのけじめをつけようと、江戸を離れることを決めたのだろうか。 無言で考え込んでいる秀に焦れったいものを感じたのか、 「ねぇ、いいの、秀さん?」 加代が袢纏の袖をくいくいと引っ張った。 「いいって何がだよ?」 「勇次さんに会わなくっていいの?」 いきなり加代が核心をついてきたので、秀は外に聞こえたのではないかと危ぶむほどに心音を高鳴らせた。 「なっ・・・!なんで俺が勇次に会うんだよ」 はらはらとしながら、つい落ち着かなく秀は前髪を掻き上げる。 「だって秀さん、勇さんとはけっこう仲良くしてたんだってね」 「加代!いってぇ誰にそんなこと―――」 「あの猫、勇さんに押しつけたの、秀さんなんだろ」 ハッとした。チビのことを、悪いがすっかりと失念していた。 「・・・まぁ、な」 「こないだ月見したとき、おりくさんに聞いたのさ。勇さんに秀さんが相談して、飼うことにしたんだって」 「――――」 秀はすっかり決まり悪くなって、がしがしと髪を掻きむしった。自分でも分かるほど、頬が熱い。 「反省はしてるぜ。ムリに押しつけて出てきちまった・・・」 あのとき、なんで勇次のもとに行こうと思いついたのか。秀は思い出そうとしたが、 瀕死の仔猫を抱えたときになぜ三味線屋の顔を思い浮かべたのかさえ、自分自身にも説明がつかなかった。 「勇さんはすごくチビを可愛がってたみたいよ。チビももうどこに行くにも勇さんに付いて回ってたってさ」 「・・・」 「だからさ、チビがちゃんと新しいうちに馴染めるんだろうかっておりくさんはちょっと心配してたよ」 秀は明らかな動揺を浮かべて加代を見た。 「新しい・・・うち?」 「そうだよ。勇さんもいなくなれば、また独りぼっちになっちまうだろ」 その言葉がやけに遠くで聞こえた気がした。まさか、おりくだけでなく勇次も江戸を出るとは・・・。 加代の話からおりく一人が出るのだろうと思っていたのだ。 勇次も一緒にということは、別の土地に流れてまた新たな仲間に出会い、つとめを始めるつもりなのだろうか。 「秀さん?」 心配そうな加代の声がすぐ近くでした。加代が秀の顔を覗き込んでいる。 「大丈夫かい?顔色、よくないよ」 「何でもねぇ。構わねぇでくれ」 思わずぶっきらぼうな声を出してしまったのは、 さっきの加代の『勇次さんに会わなくていいの』と訊ねた言葉の意味が、 いまさら重さを伴って秀の胸に迫ってきたからだった。 「―――すまねぇ、加代」 一瞬珍しく傷ついた目をした加代に気づき、秀は謝罪を口にする。 「お・・・俺はいろいろふたりには世話になっちまった。だが・・・いまさら何も言うことはねぇ」 「秀さん・・・」 加代が責めるような上目遣いで秀を見つめた。秀はその視線を振り切るように立ち上がり、 草履をつっかけて土間に下りた。 「どこに行くのさ?」 「どこだっていいだろ。とにかくこれでふたりとはお別れだ。おめぇの口から達者でとでも伝えてくんな」 「誰がそんなこと伝えるもんか!このバカっ!ひねくれ者!!」 素直じゃない秀に、加代が堰を切ったように罵声を浴びせる。加代としては、 次にいつ会えるのかこのまま一生会うこともないかもしれないふたりに、 すっかり身内の情を寄せてしまっているのだった。 水杯を交わし今生の別れを惜しまなくとも、この稼業にいればいつどこで命を落とすか、 それは誰にも分からない。秀と同じく、身よりのない加代にとっても、 おりくはどこか擬似的な母か姉のような存在であり、 勇次はまた兄弟であるかのような錯覚をひそかに愉しんでいたのだ。 秀が無言で出て行ったあと、 「あの唐変木!後悔したって知らないんだから・・・」 加代はひとり、しばしの感傷に浸り切るとさめざめと涙したのだった。 数刻のち。夜の帳がすっかり降りた頃、ことりと小さな音を立てて秀の部屋の戸が開く。 暗闇に滑り込んできたのは、もちろん秀だった。加代に気づかれたくないのか、 まるで忍ぶように板間に上がると、手探りで作業机脇の燭台に火を灯した。 「・・・」 机のうえの作りかけの簪を、うつろな目で見下ろす。 指先でつまんで目の高さにまで持っていって眺めたが、気乗りがしない表情で、 ふいに中途のそれを道具箱に放り込んでしまった。 しばらくじっと考え込んだ末、そっと立ち上がった秀が、 雑多な物入れと化していた行李の中から取り出して来たのは、何枚かの紙だった。 ずっと前に描き散らしてみた、簪の意匠―――。竜胆に燕を組み合わせたものを何通りか、 秀は考えたのち自分でもバカバカしくなって、行李の底にまとめて押し込んでいたのだ。 (こんなことして今さらなんになる) 床の上に拡げたそれをじっくりと検分しながらも、秀の胸の内はぐるぐると葛藤を繰り返す。 (あいつだってもう、俺の面なんざ見たくもねぇに決まってる・・・) (だから急に江戸を見限って出て行きたくなったんだ・・・) ぐしゃ、と拡げた紙を両手で握りつぶし、秀は固く目を閉じて深くうなだれた。 静かな時間だけが過ぎてゆく。 「・・・・・」 やがて顔を上げて目を開いた秀は、フーッとひそやかなため息を吐いて軽く頭を振った。 もう一度手の中の紙を丁寧に拡げて、それらにあらためて真剣な目を通す。 そしてそのうちの一枚を取り上げると、作業机のうえに置いた。 (・・・勇次・・・。おめぇに俺の出来ることは、もうこれしかねぇんだ) 秀は胸のなかで勇次へと語りかけると、道具をひとつずつ目の前に並べていった。 続
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