勇次、江戸を去る







 仲秋の月が、今夜も雲のない夜空に美しく輝いている。
 このところ雨も降らず、江戸の町は昼間は水でもまかねばならぬほど土埃は立つものの、 日暮れにかけて人馬の通りが減るに従って少しずつ空気は澄んでゆき、涼しい風の立つ宵の口には、 きよらかな月が澄み渡る茄子紺色の空に浮かぶのだった。
「・・・名月や池をめぐりて夜もすがら」
 小さな中庭に出した床几に腰掛け、長屋の屋根に仕切られた空を見上げて呟いたのは、 おりくである。手にした薄手の盃には、菊を漬け込んで香りをつけた酒が揺れている。 その表面を池に見立てて、月を映し込んでみたところだ。 隣に座る加代もどこからか聞こえてくる虫の音に耳を傾けつつ、 昨日よりまた少し欠けた月を見上げていたが、
「風流だね、おりくさん」
やはり盃片手に、笑っておりくの白い貌を振り返った。
「あたしそういう芸当は逆立ちしたって出来やしない」
 おりくも苦笑して顔のまえで手を振った。
「あたしが詠んだ句じゃないよ。芭蕉さ。知らないかえ?」
「ちっとも。名前だけなら聞いたことあるけど」
 女ふたりはとりとめない会話をしながら、月を鑑賞しおりくの用意した節句の菊酒を嗜んでいるのであった。 このふたりの関係はといえば、表向きには三味線の師匠とその弟子であるかのような関わりに見せているが、 実は裏稼業における仕事の仲間同士である。
 仕事に関わる繋ぎや談合などを除いて、 これまでおりくは他の仕事人との関わり合いにはつねに一線を引いてきた。 ところが現在の仕事仲間に関していえば、 いつのまにやらこんな風にふつうの付き合いをするまでになってしまっている。
 いい意味で世間並みとでも言えばよいのか・・・、 ともかくこれまで知ってきた仕事人にはなかった、自然体の空気がありすぎて、いままでの距離の取り方が通用しない。 見回りの途中で、ふらりと立ち寄っては厚かましく茶を無心する八丁堀といい、 何かうまい儲け話はないかと言ってはあっけらかんと顔をだすなんでも屋の加代といい。
 一方、もうひとりの仲間の錺職人の秀は、図々しいまでに気負いのないこの二人とは態度の異なる、 気むずかし屋の頑固者だ。せっかくの整った容貌に無愛想の仮面を貼り付け周囲に壁を築いている点では、 警戒心の強いいかにもな一匹狼である。 ただこの若い男も、自分で仔猫を拾って迷った末に勇次の許(もと)に押しつけてしまうなど、 みょうに仕事人らしからぬ一面を持ち合わせる。
 三人三様それだけばらばらなのに、なぜか仕事においては絶妙の総合力を発揮する。 共に場数を踏んできたせいか、口論はしょっちゅう起こしているわりに、 いざとなれば秀も加代も八丁堀を中心にして自然とまとまっているのだった。
 連中のそんな人間くささに触れて仕事するうち、ここ一年でなにやらおりくたちも彼らに感化されてきたようなところがある。 今夜のお月見こそたまたま立ち寄った加代に一声かけただけだが、以前のおりくならばけっしてしなかったことだ。 加代は八丁堀と違い単純で分かりやすいところも、ついおりくの警戒心を緩ませてしまうのかもしれなかった。 おりくはたしかに加代を気に入っている。 しかし果たしてそれでいいのかと、自問する内なる声を聞き流しての破格の待遇だった。
 そしてそのおりく以上に、いままで築いてきた己の流儀をぐらつかせているのは、 息子の勇次だった。甲羅を経ただけ警戒心も心の防壁もかなりなものと自認するおりくでさえ、 自分の態度の軟化を意識しているのだ。勇次がいかに醒めた風情を決め込んで居ようと、 内面になんらかの葛藤が起きていることは、 ずっと勇次をすぐ傍で見てきたおりくだからこそはっきりと感じられるのだった。
「勇さんは今夜は野暮用かい?」
 おりくの頭のなかが透けて見えたかのように、加代が勇次の不在を口にした。
「さあねぇ。・・・どこで月を見てることやら」
 うっかり愚痴めいた口調にならなかったかと、おりくはヒヤリとした。 ここのところ、勇次の外出が続いている。 ちょいと出てくるぜと声をかけて店を終ったあとで家を出て、そのまま戻ってこない。 夜半過ぎて戻る日もあれば、朝帰りの気怠い顔を勝手口に見る日もある。
 常ならば、若い盛りの男が連日夜に出かけようと、その行動を咎めることもなければ気にしたこともなかった。 勇次は己の御し方を完全に身につけている。 だからこそ、勇次がそういった行動をとり続けているうちはそれだけの理由があるからだと、 おりくは息子の自制心を信頼していた。 それが今回に限って多少気がかりを抱いているのには、それなりにわけがある。
 ここ最近ずっと、勇次の表情が冴えない。といって他人様に分かるほどではなく、 見た目にはなんらいままでと変わるところはない。 ただおりくの目には、店のお客から通りすがりの娘までもがこぞってうっとりと見上げる白皙の貌が、 ある日を境に、物憂くそれでいて作り物めいた無表情に覆われてしまったように見えた。 お客には如才なくもの柔らかに応対し、 いつも通り静かな笑みすら浮かべてみせる。しかしそれは口元に限ったことだ。
 目の前のものが映り込んではいても、勇次は何も見ていないかのようにうつろな遠いまなざしを心の虚空に向けている。 おりくと顔を合わせるときもそうだ。そして精彩を欠いた切れ長の黒い瞳の底は、大きな喪失感に冥く沈んでいた。
(何を失くしたというんだろう・・・)
 勇次の生活が荒れ始めたこととそれとは、関係しているに違いない。
「・・・ねぇ、加代ちゃん」
 何気なく、おりくは訊ねてみた。
「秀さんは最近どうしてる?」
「あはっ。おりくさんってば、やっぱり秀さんが気になるんだねぇ」
 冷やかし半分、好奇心半分の口調になる加代は、おりくが以前、 秀は信頼出来るとうっかり口にしたことを忘れずにいたようだ。
「気になるっていうかさ。ほら、うちのチビ・・・」
「ああ」
「あの子はじつは秀さんからの預かりものでさ。 それでときどき様子を見に立ち寄ってたんだけどねぇ。 ここんとこしばらく姿を見せないから、どうしてるのかとちょいと思っただけさ」
「えっ!あいつが猫を!?」
 さすがの加代も意外な声を出してそっちのほうに食いついた。
「そう、なんでも殺されかけてたのを拾っちまったらしくてね」
「ばっかだねぇ。うちの長屋じゃ大家がいい顔しないから飼えないってのに」
「それで秀さんが勇さんに相談してさ。ここで飼うことにしたんだよ」
 加代が感心したように呻って首をひねる。
「そうだったの・・・。あの一匹狼が勇さんに相談なんてねぇ」
 また余計な勘ぐりへと加代の興味の風向きが変わるまえに、おりくは慌てて口を挟んだ。
「それで、秀さんは変わりないのかい?」
「うん。と言いたいとこだけど・・・」
「だけど?」
「あたしも隣に住んでいながら秀さんの顔をめったに見てないんだよ。なんだか仕事にモーレツに入れ込み始めてさぁ」
 手に職を持たない加代は、そこで心底羨むようなねたましいような顔になって、 いささかふてくされた面持ちで言った。
「ちょいと覗いてやっても、ろくに返事もしないし、顔すら上げないときがあるんだよ!」
「・・・」
「秀さんがあの松・・・」
「加代ちゃん?」
 察したおりくがすかさず鋭く制した。中庭とはいえ屋外でする話ではない。 加代がハタと気づいてペロリと舌を出す。
「ご、ごめん。あの・・・件のあと、あいつしばらくかなり落ち込んでてさ」
「・・・」
「無愛想なのは前から変わんないけど、それに輪をかけて無口になっちゃった・・・」
「そうなのかい・・・」
「なんだか雰囲気まで変わっちまったよ」
「変わった?どんなふうに?」
 加代の言葉をおりくは聞き逃さなかった。
「う〜ん・・・なんて言うかなぁ。前は口は悪いけどあんがい面倒見いい奴だったのよ。 でも今は長屋のなかでも、あんまり人と関わらないようにしてる。 声をかけても、心ここにあらずって感じだね」
「・・・・・」
「それに寂しそうっていうか哀しそうっていうか、とにかく表情が・・・背中が・・・。そう辛気くさいんだよっ」
 いよいよ菊酒の酔いがまわってきたのか、加代の口調が少しずつ恨み節めいてきた。加代としては、 隣人の秀の変化も気になるところだが、この調子がそのまま続いて、 そのうち裏の仕事をしないと言い出さないかとやきもきしているのだ。
「もう、あいつの性格ってほんっっっとにめんどくさいっっ!」
「分かった分かった、加代ちゃん!あんたちょっと飲み過ぎだよ」
「だいじょーぶよおりくさぁん。それよか聞いてよあたしがどれだけ・・・」
 とんだやぶ蛇だったと臍を噛んだが、時すでに遅しである。 ふらつきながらも隣人の愚痴を言い始めた加代をおりくはムリに立ち上がらせ、慌てて家のなかに押し込んだ。




 勇次は楼閣の障子窓を薄く開けて、欠けた月を見上げていた。
 背後で寝返りを打つ気配がし、枕に詰めた菊の香が闇に漂う。 やがて衣擦れの音をさらさらとさせて、今夜の敵娼(あいかた)が傍らに佇んだ。
「独りぼっちでお月見かえ」
「起こしちまったな」
 一度脱いだ着流しを、勇次はきっちり着込んでいた。
「ここに上がってわっちを独り寝させた男は、ぬしがはじめてさ」
 白粉の首がじっとこちらに青眼を据える。
「すまねぇな。おめぇを気に入らねぇってわけじゃねぇんだが」
 女が黙ってその場に座ると、たばこ盆を引き寄せる。火を点けて二、三服ぷかぷかふかした後、 勇次に差し出した。
「勇さん」
「ん?」
「ぬしをそんなにまで想わせられるのは、いったいどこのどういうおひとだえ?」
「・・・」
「そんなおひとが出来たんなら、なんでまたわっちのもとに来んした・・・」
「・・・怒ったか?」
 紫煙の薄く漂う口元が、自嘲するような幽かな笑みを掃く。ほのかな月灯りを受けて、 女がゆるりと首を一度横に振った。
「わっちよりも勇さんがよほど辛そうだよ」
「そう見えるかい?」
「女郎と肌を合わせて忘れられるくらいなら、後戻りも出来ようものを―――」
「おめぇは優しい女だな、里菊・・・」
「そういうぬしは・・・。かあいそうなひとだね・・・」



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