順之介に頼んで近所の子供たちと一緒に読み書きを習わせているお民を、長屋に迎えに行った帰り。夕暮れの雑踏のなかでお民が「おじちゃん」とふいに言った。 「え?」 秀は何のことか分からず、道の反対側を指さす少女を見下ろした。 か細い指の先に、白地に藍でところどころ大き目の絣模様が描かれた見覚えのある着物を見つけてドキリとする。 果たして三味線の包みを手にした勇次が、通りすがりの誰かと挨拶を交わしている姿が目に飛び込んできた。 子供の観察眼の鋭さと記憶の確かさに秀は内心舌を巻く。お民にとって加代や順之介や長屋で会う人々とは別に、 時おりふらりと二人の住む小屋に立ち寄る男とは、たった2度会っただけだというのに。 「ぽっぴんのおじちゃんだ」 と嬉しそうにお民は言うのだった。 「・・・お民、行こう」 勇次に気づかれないうちに立ち去ろうとする秀に、少女が不思議そうに訊ねる。 「お話しないの?」 無垢な目で見上げられ、秀は戸惑い言葉に詰まる。素直な一言に自分の本音まで指さされた気がした。 「・・・でも誰かと話してるだろ。おじちゃんの邪魔しちゃいけねぇよ」 「うん・・・」 頷きつつもお民はちょっと唇を尖らせていた。記憶に鮮明なのはあの宝物をくれたからだろうと思っていたが、どうやらぽっぴんのおじちゃんと話したいらしい。 子供は子供なりの目線で気に入った大人を選び取っているのかと、秀は意外なお民の意思表示に驚いていた。 新しく始まった暮らしのなかで、お民は死んだてておやのことを直接的に口にすることはなくなった。 むしろ秀との生活に色々な楽しみを見つけるべく、秀の交友相手を覚える目を早くも身につけんとするかのようにも思える。 「おじちゃん、また来る?」 「そうだな。きっと・・・お民の顔を見に来てくれるさ」 腰を屈めて請け合いながら、頬が知らずに火照った。まだ江戸に居たのだ。 またなと別れておいて、そのまま黙って消えても不思議はないとどこかで思っているだけに、同じ空のした不意打ちで姿を見ただけで、自分でも想像しなかったほど胸は疼く。 池の傍でお民にびいどろを吹いてやっていた様子に思わず見とれてしまった日のことを、ふと思い出した。 まるで以前からずっとそうしているような自然さだった。勇次にはおりくがいたからだろうか。 親を知らない秀には、ああいうやりとりはなかなか出来るものではない。お民が勇次に懐いているのが自分のことのように誇らしくなった。 勇次はまた来てくれる。何となくそんな気がした。自分に会うためでもなくても、きっと一度は・・・。 皮肉にも、お民の存在がいまは自分たちふたりを繋ぐ最後の糸なのだとは、もう考えないことにした。 (あと少し・・・。もう一度だけ・・・) 夕焼けの人波に紛れ込んだ広い背中をちらと見送ると、秀はお民と手を繋いで提案する。 「さ。今日はあんかけ蕎麦でも喰って帰ぇるか?おめぇ好きだろ」 「うん!」 半ば放心して歩いていたから、誰かに声を掛けられていることにもすぐには気が付かなかった。 勇次は一瞬だけ我に返ると、呼び止めた花街の男としばらくどうでもいい談笑を交わした。 福寿が首を長くして待っていやすぜ、と馴染みの遊女の名を囁かれても曖昧な返事しか出来なかった。さっきから意識はまるで別のところをぐるぐると回っている。 ついさっき、出かけようとする勇次を呼び止めて、母がついでのように言ったのだ。 「勇さん。その三味線は取りに来て貰う分だから届けなくていいんだよ。 それから、八丁堀の仕事を受けることにしたから、そのつもりで居ておくれ」 「・・・・・」 この三味線の依頼を受けたのは自分だった。取りに来ると言われていたのも指摘されてすぐさま思い出したが、 勇次はいま母の言った言葉に思わず動揺し、自分の足元に目を落とした。店を脱け出す口実を母に見抜かれていたような気がした。 おりくが動かないその背中に向けてぽつりと呟く。 「巡礼はやめにしたよ。・・・すまなかったね。勇さん」 勇次はすぐさま振り向くと、怪訝な声で訊き返した。 「おっかさん?すまなかったって・・・なんのことを言ってるんだ?」 「あんたの気持ちを・・・、あたしのことでさんざん悩ましてしまったことをさ」 さりげない言い方でも、勇次の耳にはそれが深い意味をも含んで聞こえていた。 「・・・。オレの気持ちなんか、気にしなくていいよ」 「・・・・・」 「オレはなんとも思っちゃいねぇ」 我知らずいつにない大きな声になっていた。この母にはかなわない。自分が昔と変わらぬ小さな子供になった気がした。 黙ってこっちを見ているおりくを戸惑いながら見つめ返すと、今度は静かに繰り返した。 「なんとも思っちゃいねぇよ、おっかさん。それよりオレのほうこそ・・・謝らなきゃならねぇ」 「え?」 「・・・分かってたんだろ、・・・オレが迷ってたことを」 勇次はそこでふいと目を逸らし、やるせない表情を隠すように閉じた瞼に手を当てた。おりくは何も言わずに待っていた。 やっとのことで顔を上げてこちらを見た白い頬には、珍しくきまり悪げな苦笑が浮かんでいた。 「おっかさん。・・・秀とあのお民ちゃんのことが、オレはどうしても気にかかるんだ」 「・・・・・。・・・」 「あいつに、秀に頼まれたわけじゃもちろんねぇが・・・。ただ、遠目にでもいいから守ってやりてぇと思う・・・。あのふたりを」 これほどに正直な告白を勇次がするのを聞いたのは、おりくが勇次に出自の秘密を打ち明けたとき以来だった。 「・・・そうじゃないかと思ってた・・・」 「・・・・・」 「正直に話してくれて良かったよ。あたしは後生を祈るどころか、取り返しのつかない間違いをしてたかも知れなかったんだからね」 「そんな。大げさすぎるぜ、おっかさん」 今度はやや慌てたように口を挟む息子の照れくさそうな赤い顔を見て、おりくは感心して笑い始めた。 「あんたのそんな顔見るなんて、どれだけ久しぶりだろうね。たまにはそういう可愛いところも見せとくれ」 「からかうなよ・・・」 「いいじゃないか。それでこそ親の冥利に尽きるってもんさ」 よほど恥ずかしかったのだろう。 居たたまれなくなったのか勇次はただ頷いただけで、結局三味線を持ったままそそくさと店を出て行った。 一瞬グッと崩れかけた目元を隠すように顔を背けた勇次の横顔を思いながら、おりくは独り胸の内で語りかけた。 ・・・あたしはいつでもあんたの味方だ。それだけは忘れないでおくれ・・・ その男がやって来るとは思ってなかった。 「よう。元気か」 懐手のままぶらぶらと近寄ってきた二本差しは、洗濯物を干していた久しぶりの痩せた背中にいきなり声をかけた。 完全に気を抜いていた秀は文字通り飛び上がり、土埃と日焼けに薄汚れた黒い羽織を認めると素早く後ずさった。 「心配ぇすんな。ツラぁ見に来てやっただけだ」 「・・・・・」 一見して八丁堀は、いつもと変わったところは何もなかった。 それでも秀は、何の用もなしにわざわざ姿を見せるような男ではないと、つき合いの長さから分かっている。 ツラ見に来たといいながらそう秀の顔を見ることもせず、かわりに頭を巡らして何かを探す素振りをした。 「おめぇ一人か?」 「・・・お民ならここにはいねぇよ」 警戒しながらも秀は重い口を開く。お民が居ないことで少しはホッとしていた。勇次と違い、この男にはお民を会わせたくなかった。 それは八丁堀を前にすると、秀自身がどうしても不自然な緊張を漲らせてしまうことを自覚しているからだった。 「ふうん。なんだ、加代にでも子守りを頼んだか」 さすがに鋭かった。秀の交友関係がそうそう広くないことなど分かり切っているといった口ぶりだ。ごまかしても何にもならないと思った秀はあっさり認めることにした。 「そうさ。昼間は順之介に読み書きを習いに行かせてる」 「へへ。いいじゃねぇか。あいつら二人もちっとは世間の役に立つってこった」 「あんたもこんなとこで油売ってていいのかよ」 洗濯物に再び手をつけながら秀が言うと、 「オレはれっきとしたお役で市中見回りしてるからな」 「・・・・・おい」 「あ?」 「なんか用があるなら勿体ぶらずに言ったらどうなんだ」 黒目がちの瞳が正面から八丁堀の目を捉えていた。 「・・・ゆうべ、勇次がここに来た」 そこで勇次の名が出たことが少なからず八丁堀には意外だったようだ。が、あ、と唸って一度ぐるんと太い首を回す仕草をして再び秀を見たときには、 妙に合点がいった含み笑いを浮かべていた。 「そうか。おりくが言ってたのはそのことだったのか」 「おりくさんが何だって?」 独り合点の八丁堀のにやついた顔が気に入らず、秀はさっそく噛みついた。お民がいたらこんな子供っぽいことは出来ないのだが、つい。 「気にするな。こっちの話だ。・・・それより秀。おめぇ、どうするつもりなんだ?」 笑いを口調に含んだまま、単刀直入に訊いてきた。やはりそのことを確かめに来たのだ。秀は一度顔を逸らし、目の前の男に視線を戻すと短く答えた。 「やるよ」 懐から出した右手で顎をさすりながら、八丁堀は曖昧に頷いた。秀の視線を遮るように横を向いて口を開く。 「今回だけな」 「俺は仕事を続ける・・・」 「何故だ。金か?それとも勇次のせいか?」 見ていないと思ったらしく秀の目が泳ぎ、動揺を露わにした。八丁堀の肚のなかにどす黒いものが頭をもたげる。 「あいつと別れるのがそれほど嫌なら、何でガキなんか拾っちまったんだよ」 「・・・てておやを手にかけたのは俺だ・・・」 八丁堀は胡乱な目つきで秀を睨むと鼻で嗤って吐き捨てた。 「そういうことか。バカくせぇ。安っぽい罪滅ぼしでてめぇでてめぇの首絞めやがったな」 無言で殴りかかったが、八丁堀の動きのほうが早かった。あべこべに胸倉を掴まれ容赦なく平手で頬を張られる。 「欲張りめ。何ひとつ持ってなかったくせして今はどっちも捨てられねぇのか?」 なじられた悔しさよりも、その一言で秀は自分の業の深さを思い知らされた。 己に対する不信感。引き返せない今の状況を自ら選んでおきながら、江戸に戻って以来これで良かったのかと自問しない日はなかった。 勇次に再会したことで、その迷いは抜き差しならない苦悩へと秀を追い込んだ。 考えていた以上に、あの男の存在は自分のなかで欠かせない拠り所になっていたのだと・・・。それに気づいたときには、そこから離れようとしていた。 昨日遅くに勇次が訪ねてきて、江戸に残ると告げられた。そして仕事も続けることになったと。 「オレは前々から、おめぇのそういう甘さがイラついて仕方ねぇんだよ・・・秀。昔とちっとも変ってねぇ。 いつだって後先考えずに情に突っ走って、挙句の果てに苦しむのはてめぇ自身じゃねぇか」 唸るような声音には冷たさが感じられなかった。尻もちをついていた秀は目を上げたが、屈み込むように見下ろす眉間に深い皺を刻んだ顔は、秀自身よりも悲しく歪んでいた。 記憶の底から、この男に仲間にしてくれと頼み込んだ日の感情が蘇る。 誰よりも非情だと思っていた男が、仕事人を雇って恨みを雪いでも救われないひとの心の苦しみを、 もっとも理解していることに、殴られたような衝撃を受けた。それが秀をしてこの仕事から、そして八丁堀から離れられない理由にもなっていた。 その気持ちはいまも秀の胸にくすぶり続けている。この男が考えている以上に、自分にとっては勇次ともまた違う意味で、欠くべからざる存在なのだ。 「・・・何とでも言えよ。俺はあんたみたいな仕事人にはなれねぇ。・・・けど、自分をごまかして後悔するくらいなら・・・、俺は苦しむほうがいい」 こうして一見して安逸で平穏な暮らしを始めておきながら、ずっと悩み続けていたこと。 仕事人だったことを忘れ、仕事人を必要としている者がいることを忘れ、世間の裏で粛々と行われてゆく悪事の存在にも目を瞑り、 すべてなかったものとして生きてゆくこれからの日々を想像しても、そこには取り残されたような孤独と虚しさがあるばかりだった。 順之介が思うような正義を為す集団だと、仕事人のことを美化するつもりは毛頭ない。所詮金が繋ぐ仲間の縁だ。 しかしそれでも。 自分のような者にとっては、同じ目的を持つ仲間の存在があるからこそ、この世でどうにか己を見失わず生きてゆけるのかもしれない。 欲張りと言われても、自分の手で掴んだ絆を捨ててしまうことは秀にとって生きる理由も失くすことだった。 「先に言っとくがな。おりくのようなことは誰もが出来るもんじゃねぇぞ。仕事続ける以上そのガキがどんだけおめぇの命取りになるか、考えたことあるのか」 「・・・・・分かってるさ。お民には何も知らせはしねぇ。命がけであの子は守る。あんたらの誰にも迷惑はかけねぇよ」 掴んでいた秀の胸ぐらを手放すと、立ち上がった八丁堀が肩をすくめてハッと笑った。 「またそれだ。てめぇの年甲斐もなく青くせぇとこはだな、そうやってひとりで何もかも背負いこもうとするところだ」 思いがけないことをこの男の口から聞いた気がして、秀はその背中を見上げた。 「かっこつけんじゃねぇ。おめぇが仕事を続けるんなら、なおさら仲間以外に頼れる人間はいねぇだろうが」 「・・・・・」 「ガキを拾ったのはおめぇの勝手だ。ガキの方がおめぇを選んだわけじゃねぇ」 「・・・!」 「おめぇが独り相撲で意地を張れば、迷惑するのはそのお民だ。そのことを忘れるな」 そのまま歩き去ろうとする羽織の背中をぼんやりと見送っていた秀だったが、フッと我に返るとぶっきらぼうな声を張り上げた。 「八丁堀!あんたこそ、今回の仕事はひとりでカタを付けようとしてたらしいな」 「・・・だったらどうした」 「かっこつけんじゃねぇや。ひとの事にいちいち口出すヒマがあったら、自分の身の心配をするんだな」 「・・・ケッ。口の減らねぇ。ガキがガキを育てるんじゃ先が思いやられるぜ…」 まんざらでもない声で言い残して男が去ったあと。池の桟橋に腰を下ろした秀は、膝を抱いて長いことそこにひとり座っていた。 続
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