びいどろ 4









 爪先で弾いただけでも割れてしまいそうな薄いギヤマンの底に息を吹き込むことで、澄んだ金属的な音がする。 びいどろと名前はあるが、その音色をそのままとって『ぽっぴん』といって売ったりもする。
 玩具というよりももともとはこの音自体が魔を払うとして意味を持ち、正月に商家や裕福な家などで用いられた、なかなか値の張るものだった。 いまではギヤマンを最初に作りはじめた長崎以外の土地でもその技術が広まり、それに従って生産が増えたことで、 次第に縁日などでも庶民が買い求められるほどの値段で売られるようになった。
 飴のような表面に、赤や青など違う色で絵付けしてある。言うなればギヤマンの風鈴に底をつけて、細長い管を付けたようなものでしかないのに、 なぜか風鈴よりも浮世離れした風情がある。陽にかざすとその漏斗型の小さな空間に、光を封じ込めているように見えるせいかもしれない。
 勇次がお民に与えたものは、少し珍しい色合いをしていた。細い赤の線で模様は描かれていたが、 ギヤマンの素地そのものがやや紫がかった濃い青色なのだ。深いようで光の透過によっては淡くも見える不思議な色。
 昼間お民が居ないときにひとり細工仕事に精を出しながら、秀は光の当たる場所に置いて時おり眺めている。 なぜか目にしっくりと馴染むそれがどこかで見覚えのある色に思えて、静かに心がときめく。それでいて落ち着くし安心するのだった。
 お民は夕餉の支度をする秀のかたわら、腰かけがわりの古い木の切り株に座って足をぶらぶら揺らしながら、透かしたり眺めたり飽きることなく弄りまわしている。
「そんなに気に入ったのか、びいどろ」
「うん」
「良かったな。・・・勇次が来たら礼を言わねぇと」
 つい礼を言いそびれて二人の遊ぶ姿に見とれていただけだったことを、今になって思い出した。ぽつりと独り言を漏らすと、 その名を耳にした途端お民が嬉しそうに秀を見上げた。
「ぽっぴんのおじちゃん、いつ来るの?」
「え?・・・そう、だなぁ。いつだろうな?あんちゃんにも分からねぇが、たぶん近いうちに・・・」
 何の気なしに口に出してしまい、藪蛇だったと思いながらいい加減にお茶を濁す。
「お民・・・おじちゃんに早く会いたいな」
 真に受けたお民が無邪気に言うので、秀は呆れてしまった。
「なんでぇ、こないだから。おめぇそんなに勇次が好きなのかい?」
 不思議でも何でもないといった風に頷く。びいどろの鳴らし方を教えながら、しばらく一緒に遊んだり飯を食ったりしただけで、 こんな小さな女の子の心も掴んでしまうとは。 順之介のことは順兄ちゃんと呼んで懐いているが、お民が家で口にするのはなぜか、めったに会う機会もない勇次なのだ。
「おじちゃん優しいし楽しいよ」
「そうか・・・」
 何のてらいもない言葉とまなざしに釣られて笑ってしまった。お民の言った言葉は勇次の魅力をそのまま言い当てている。
 かたや、常に武装しながらしか他者と関われず、惚れた相手にすら関わる理由を考えて前に進めなくなる自分。 大人の愚かしさを尻目に、無垢な子供はこんなにも軽やかに好きなものは好きと言ってのける。
 勇次がこの会話を聞いたらどんな顔をするだろう。女には意識して甘く接している色男も、 幼い少女から優しいなどと言われたらちょっとは動揺して照れくさがるかもしれない。 教えてやろう、と頬を緩めている秀を見上げて、そのときお民が思いもよらないことを訊ねた。
「お兄ちゃんは?」
「・・・えっ」
「お兄ちゃんもおじちゃんが好き?」
「・・・・・」
 いきなり何を言い出すのか。頭のなかが空白になり秀はその場に固まった。 思い切り面食らった顔つきのまま秀が絶句しているというのに、妙にくっきりとした視線はこちらを捉えて離さない。
「あ・・。ま、、、それは・・・?」
 間の抜けた声を漏らし目を泳がせた秀だが、うろたえながら少女の顔を横目で確認して、曖昧な反応は通用しないらしいと観念するしかなかった。 お民は無邪気だがしかし真剣に、自分の好きなおじちゃんのことを好きかと秀にも尋ねているのだ。
「そ・・・。そうだな。・・・・・あんちゃんも、その・・・す・・すきだ」
 俯き加減に口の中で呟く。それに対してお民はまるで大人のような返答をして、秀をくらりとさせるのだった。
「よかった!お民ね、そうだと思ったんだ」
 首から上が熱くなるのを感じて、秀は何も言わずにお民に背を向けるとそそくさと夕餉の支度の続きに戻った。 恥かしくて堪らないのに、口に出すと己のなかでもそれが一番、正直な答えだという気がした。
 まったくお民のいう通りだ。ぐるぐると悩み続けた挙句に行きついたのは、ただその一つのことだけ。
 今夜自分がしようとしていることも、そのために選んだ道だ。 お民を家族のように愛しく思う気持ちも、勇次を強く想う気持ちもどちらも捨てられない。否、捨てたくない。
・・・この欲深さのために罪を重ねて、いつか地獄に堕ちようとも。


「お民。・・・言い忘れてたけどあんちゃんな・・・今晩どうしても出かけなきゃいけねぇ用があったんだ」
 夕飯のあとしばらく手習いの復習をみてやっていて、そろそろ眠たげに瞼の降りてきたお民の様子を伺い、だしぬけに秀は告げていた。
 いつ言おうかどう言おうかと一日中そわそわと落ち着かなかったが、もうあまり時間がない。自分の声が不自然に明るく聞こえていた。
「ちょっと遅くなるかもしれねぇが必ず戻る。だからお民は先に寝ててくれな?」
 布団を敷きながら一息で言ってしまった後、背後で物音がしなくなった。振り返ってみればお民がうつむいているので慌ててその膝元ににじり寄る。
「・・・ごめんな。用が済んだらすぐ帰ってくるから」
「・・・・・」
「も、、もちろんお民が寝るまではどこにも行かねぇ。朝起きたらもうここにいるさ。・・・いいか?」
 返事のかわりにお民がこくりと頷いた。わがままを言わない、この年頃にしてはほんとに聞き分けがいい子だねと、長屋のガキどもと比較した加代が言っていたのを思い出した。
(ごめんな・・・お民。ほんとにごめん・・・・・)
 こんな顔をさせるために引き取ったのではないのに。これからも度々、いや益々、身を切られるようなこのやり取りを交わすことになるだろう。 八丁堀の懸念が早くも当たっている。
「・・・」
 無言で寝る支度を続けている秀の顔には翳りが落ちていた。その沈んだ横顔に浮かんだものに、お民がジッと上目遣いで目をあてていることには気づいていない。


ぽっぴん

 例の音がして、秀はそっちを振り返った。手習いの道具を片したお民がびいどろを手にしている。
「お民。もう寝よう」
 思わずやや尖った声になっていた。お民が行かせまいと時間を稼いでいるように思えたのだ。

ぽっぴん

「やめろ」
 近づいてびいどろを取り上げようと肩に触れたとき、お民が丸いほっぺを赤くして小さな声で言った。
「お兄ちゃんが悲しそうな顔をしてるときは、びいどろ吹いてあげなって・・・」
「!」
 お民の言葉に秀の動きが一瞬止まる。
「・・・お民」
 珍しく声を荒げた秀におびえたのか、お民は膝のうえにびいどろを乗せたまましょんぼりと俯いた。 秀は何度かまばたきを繰り返し、戸惑いながらただその小さな体を抱き寄せることしか出来なかった。
「ゆぅ・・・、おじちゃんがおめぇにそう言ったのか?」
 胸の下にある丸い頭がこくんと頷く。自分が知らないあいだに、ふたりはそんな会話まで交わしていたのだ。 お民が二度会ったきりの勇次を慕うわけが、いまやっと分かった気がした。説明のつかない疼きが奥底からこみ上げてきた。
「・・・そうか・・・。怒ったりしてごめんな、お民・・・」
「・・・ごめんなさい」
 半纏に顔を押し付けたまま少女が言った。くぐもったその涙声に秀は慌てて顔を覗き込む。
「なんでおめぇが謝るんだよ?悪いのは俺じゃねぇか、お民はなんにも悪くねぇ」
 背中を撫でて慰めてみたが、お民はもう鼻を啜りあげていた。 それでもびいどろを握っていないほうの手で半纏に強くしがみついてくる。幼い子供に出来る精一杯の表現に胸が痛くなった。
「もう泣くなよ・・・泣くことはねぇだろ?お民が泣くと、あんちゃんまで悲しくなっちまうぜ」
「・・・泣かないで・・・」
 何かのタガが外れたのか、しくしくと本格的に泣き出したお民が嗚咽のさなかに秀にも訴える。
「お兄ちゃん泣かないで」
「・・・俺は泣いてなんか・・・・・」
 秀はこくっと喉を鳴らして息を呑み込んだ。お民の泣いているわけが自分の側にあることに気が付いたからだった。
 聡いお民は、突然現れた見ず知らずの男が身寄りのない自分を引き取って大切に世話してくれていることを、すでによく理解している。 そのうえで少しでも秀が喜ぶことをしようとする。秀の代わりに米を研ごうとしたように。
 それと同じで、秀の悲しみも苦しさもお民にとっては自分のもののように感じているのだ。この涙は、涙を流すことの出来ない秀のために流されたものだった。
 勇次がこの少女の感受性の強さや本来の優しい心を見抜いて、秘密の約束事を吹き込んだのかは分からない。 だが勇次にもお民にも共通して言えること。それは自分のような人間をこんなにも想ってくれているという、確かな信頼だった。
「お民。床(とこ)に入る前にもっぺん・・・びいどろ吹いてくんねぇか」
「・・・」
 顔を上げさせて濡れた頬を袖口でぬぐってやった秀は、こつんと軽く額を少女のそれにぶつけておどけてみせた。 そして自分でも意外なくらい素直な笑みを浮かべると小声で囁いていた。
「あんちゃんはお民のこと、大事にする。・・・だからあんちゃんが悲しいときは・・・おめぇがそいつで慰めてくれよ。な?」



 昔から秀は、闇が薄れゆく夜明け前が一日の時間のなかで一番好きだった。静けさのなかにあの色が見えるから。 勇次のくれたびいどろの色はそれだった。二人で幾度となく迎えた、夜明け前の透きとおった紺青(あお)。
 仕事の後、ふたりはほんのひと時の逢瀬を交わした。つとめのために滾った血も鎮まらないうちに、熱い素肌が重なり背中に腕を回したとき、 秀はどれだけこの重みに温もりに飢えていたかを知った。
「・・・オレの命はおめぇにやる」
 船宿の仄暗い一間、黙って先に身を起こして身支度を始めた秀の背中に、勇次の低い囁きが届いた。
「勇次・・・?」
「何かがあればオレがおめぇを守る。・・・安心しな。だからっておめぇをオレにくれとは言わねぇから」
 振り返った黒目がちの瞳を横目で受け止めて、まるで世間話でもするような調子で勇次は続けた。
「お民のために自分を大事にしろよ、秀。あの子にはおめぇが必要だ・・・何があっても死んじゃならねぇ」
 いつにもまして静かな声が、勇次が言葉を選びながら口にしていることを伝えてくる。秀とお民の未来を、勇次が自身の過去と重ね合わせていることは想像に難くない。
 秀はお民を仕事人の世界に引き込むことはぜったいにしないと、固く心に決めている。その意志は語らずともこの男には伝わっていたようだ。
 だからこそ、自分とお民を陰ながら守ってゆくと勇次は言っているのだ。何かが起きたとき自らの命をかける覚悟で。 果たしてそれでいいのだろうか。勇次の幸せはどこにあるのだろう。
「おめぇは?・・・おめぇはそれでどうなるんだ」
「オレか。オレが死ぬときは女の膝の上と決めてある」
 秀の心の疑問が聞こえているかのように、勇次はゆっくりと首を横に振って言った。
「それまでは勝手におめぇたちから目を離さずにいるさ。たまにこうしていられるだけで・・・オレは満足だ」
「・・・・・」
 この男を諦めたくなくて修羅に生きる道をふたたび選んだことを、秀はもちろん教えるつもりはない。知ればきっと、勇次ならば去ってゆくだろう。
 容易ではない裏と表の世界の両立の先に、いつの日か避けがたい別れが待っていたとしても・・・、いまはこれが自分たちなりの幸せの形なのかもしれない。 少なくとも、そう信じていたい。

 先に出る秀が襖を閉じる前に、ずっと無言だった口をようやく開いた。
「・・・・・勇次」
「ん?」
「お民がぽっぴんのおじちゃんに早く会いてぇらしいんだ」
 青い闇のなかで勇次が照れたように笑ったのが、秀には見なくても分かっていた。





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