目が覚めると、傍らに寝ていたはずの少女の姿が見えず、ハッとして秀は跳ね起きた。 「お民・・・?」 腹掛け姿で土間に駆け降りる。裸足のままがらりと戸口を開け放つなり、飛び込んできた光景に目を丸くして立ち尽くした。 「・・・・・」 お民が桟橋にしゃがみ込んで、羽釜に入れた米を一心にといでいる。ゆうべは怖い夢を見たと途中で泣いて起きて来て、眠るまで抱いて寝かしつけてもらったというのに。 驚きながら秀は半纏を肩に回すと草履をつっかけて、まだ朝もやの残る戸外に出た。 「おはよう」 傍らに立つとお民は泣いたことなどまるで忘れたように、ちらっと秀を見上げて得意そうにほほ笑んだ。 「お兄ちゃん、おはよう」 「・・・貸しな。おめぇにはまだむりだ」 お民の小さな両手では重そうにやっと支えていた羽釜を取り上げて、それでも秀はくすぐったい気持ちを隠さずに口にしていた。 「ありがとな、お民」 ふたりは顔を見合わせて笑った。照れ隠しに子供の視線から顔を逸らして米を研ぎながら、この小さな存在がとてつもない強さを持つような気がしている秀だった。 死と隣合せに生活している者には、一輪の花の微笑が身に沁みるものだ。 いとけなくも穢れない命が生き生きと明滅するさまにこうして触れるだけで、殺伐とした心が慰撫される。 (・・・・・) 裏の仕事から足を洗うとすでに宣言しておきながら、いまだにその刹那の感覚が体から出て行く気配がないのは何故だろう。 近くでひとり遊びをはじめたお民に目を配りつつ、秀は己のなかの今一つの収まりの悪さに不安を覚えた。 三味線屋のおりくも、あれから妙な胸騒ぎをずっと抱えていた。 悪事の餌食となって命を落とした虐げられた人々、その死んでも死にきれぬ深い恨みを晴らすべく自ら手にかけてきた幾多の悪党ども。 そのどちらの後生をも弔うため長い巡礼に出ることを決めたはずなのに、先日一度再会したきりの八丁堀のことが、なぜか妙に心の隅に引っかかっていて、 いまだに江戸を離れる潮時を決めかねている。 (・・・何なんだろうね、この収まりのつかなさは) 自分でも説明は出来ないが、おりくと勇次が巡礼に出るという話、そして秀が仕事人を抜けるという話を聞かされたときにも、 そうかとやけに沈んだ声で応じながらもろくに視線も合わせようとしなかった二本差しの態度が、気にかかる。 (長年の勘ってやつなのかねぇ・・・。やけに水臭い態度だったじゃないか) 何か気になったことをぐずぐずと考え込んでいるのは、おりくの性格ではない。 このところ、店はすっかり勇次ひとりに任せて自分は自室にこもって念仏に写経三昧の抹香臭い日々を送っていたが、 もう一度八丁堀の様子を確かめてみようかという気が勃然と沸き上がってきた。 日常的に身につけていたお遍路用の白い装束を脱ぐと襟をぬいた粋筋の着物姿に着替え、久しぶりに髪を結った。鏡を覗くと化粧っけのない蒼白い顔が、 我ながら半病人か死人のようだと苦笑しつつ、おりくは脂粉を叩いて眉を描き紅を引く。 身なりを整えると、不思議なほどに腹の底にシャキッとした力が湧くのを感じた。 「おっかさん、そのなりはどうしたんだい?」 三味線を手に店のほうに出てゆくと、見上げた勇次があっけにとられて作業の手を止めて訊ねた。 「ちょいと出かけてくるよ、勇さん」 質問には答えず下駄に白足袋の足を滑り込ませた母を、勇次は黙って見つめている。 「・・・オレも行こうか?」 おりくの気の漲りように、その用とやらが不穏な事柄に関するものだとすぐに察したらしい。 「いまはあたしひとりの方が目立たなくていいのさ」 「いったい何をするつもりなんです?」 「八丁堀の身辺を探ってみようと思う」 戸口へ向かう前に息子を振り向いておりくが低い声で答えると、勇次は何かハッとした表情になった。 「勇さん?どうかしたのかい?」 「・・・。いや、」 勇次は一瞬迷ったように目を逸らしたが、 「・・・さすがだな」 感心したように薄く笑って首を横に振った。 「なにが?」 「ああ。おっかさんと同じようにあいつも・・・。秀も、八丁堀のことを気にしていたからな」 時おり何も言わずにふらりと居なくなる勇次が、秀に逢いに行っていることを本人の口から知らされたおりくは、 一瞬胸が詰まるような思いがしたが、表情には出さなかった。 「そうかい。秀さんはどうしてる?」 「・・・元気にしてるよ」 「その、一緒に住んでる女の子は?」 「お民ちゃんさ。よく秀に懐いてるぜ」 半年ぶりの再会の場で、秀が仕事人を抜けると聞かされてからも、勇次は相変わらず静かに口を閉ざし、 あたかも母の気持ちのけりがつくのを傍らから見守るように、淡々と表の仕事をこなしていた。 それでもこの血の繋がらない敏い倅が、秀と養女の関係について自分と同じことを考えているのは、あえて秀の話題に触れないその態度からもおりくにはよく伝わっていた。 「・・・だったら余計なことに首を突っ込まないほうがいいと言ってやるんだね」 「おっかさ・・」 「勇さん。何度も言うようだけど、あんたは江戸に残ってもいいんだよ」 鋭い視線を送られた勇次はそれを遮るようにゆっくりと瞬きすると、すでにその話は終わっていると言いたげな口調で低く答えた。 「おっかさんが巡礼に出るのに、オレが江戸で裏の仕事を続けるわけにはいかねぇじゃねぇか」 「・・・・・」 もっともな意見でもあり、おりくは珍しく言葉に窮する。 しかし本当に訊きたいのは、そういうことではない。秀を思い切れるのかと、おりくは勇次に尋ねてみたかった。 ここまで惹かれあった者がその未練を絶つことは容易ではないはずだ。 勇次がこの数年のうちに、少しずつ秀と密かに心を通わせていることに気づき、それを内心で一番喜んでいたのはおりく自身だった。 育ての親である自分以外の人間には心を開こうとしなかった勇次が、はじめて己の心に隙間を覗かせたのが、 あのどことなく危うい繊細さを持つ錺り職人の男だった、ただそれだけのこと。 世間でいうところの幸せの形をとらなくても、心の奥底で繋がっていられる本物の相手に出逢えたのならば、それが本人にとっての幸福であることに違いはない。 この先に何があろうとも勇次が人間性を失した外道の仕事人の道に迷い込むことはないだろう。 おりくはそう思い、ふたりの行く末を陰ながら見守ってゆくつもりでいた。しかし秀はいま、勇次の手の届かない場所に行ってしまおうとしている。 足を洗った仕事人には金輪際関わりを持たないようにするのが、この世界の不文律である。 それぞれの決断をぐらつかせたり中途半端な出入りを許して、どこからか足がつくのを恐れる所以だ。 勇次は江戸を去ることで、秀への想いにも密かな関係にも終止符を打つつもりでいるようだ。 自分が秀の目に触れる場所にうろついていることで、秀を苦しませずに済むように。それが勇次の選んだ秀への心の示し方なのだろう。 それでも今はまだ、離れることは出来ないでいる。きっとそれは秀の方でも同じなのだ。 仕事人として出逢った者同士は、その世界の内側に息づく間でなければ共に生きることは出来ない。 秀も分かったうえでお民に対する償いを自ら引き受けることを決めたとはいえ、勇次と二度と会わずに生きる道を完全に向いてしまうまでには、 いま少しの時間を要するのは当然だ。だからこそいまだに秀は、裏の仕事にも八丁堀にもこだわってしまうのではないだろうか。 「・・・それじゃ、行ってくるよ。ここ数日は帰りが遅くなるかもしれないけど心配しないでおくれ」 勇次の返事を待たずに、おりくは店を後にした。母親に余計な心配をかけさせまいと自己完結しようとする息子の思いやりが、かえっておりく自身の迷いを深くさせていた。 面倒なことになった。闇に紛れて単身、老中の妾宅をなんとか脱け出た八丁堀は、飛び込んだ路地裏の天水桶の陰で生きた心地もせずに潜んでいた。 元仲間たちの助っ人を望めないと諦めた時点で、この仕事に勝ち目があるとはほとんど思っていなかったが、いざ追い詰められてみると、 正直に助けを求めなかった自分の意地をいまになって後悔していた。 秀たちが江戸に戻ってくる前の話だ。八丁堀は奇妙なことに巻き込まれていた。それぞれ別の仕事人から一緒に仕事をしてくれと秘密裡に依頼されたのだ。 双方がそれぞれ違う老中を亡き者にするという内容で、仕事料は破格の百両。老中同士の勢力争いに仕事人を使うつもりだと気づいた八丁堀はどちらの依頼も一蹴した。 ところがそれ以来、何者かによって命を狙われるようになった。こんなこともあるかもしれないと用心は怠らなかったため大事には至らないものの、 一度は八丁堀の代わりに上司の田中が市中見回りの際に倒れてきた材木の下敷きになりかけた。 命を狙う相手の攻撃は脅しに近いものだった。依頼を断ったことで、裏で糸を引く何者かの恨みを買ってしまったらしい。 八丁堀は、自分の周辺をうろついていた仕事人の男をついに捕えて締め上げ、依頼の主に直接会わせるように強要した。 自ら危険な方向に足を踏み込んでいるとわかってはいたが、互いに面が割れるとなれば相手も弱みを握られることになる。それが狙いだった。 依頼主の正体は御目付方の長坂平馬。密会した屋形船の中で長坂は、 己の息のかかった老中と敵対する別の老中を始末して欲しいと、真っ向切って百両の前金と共に依頼してきた。 断ればこの場で斬られる。ここまで来たらさすがにもう後戻りは利かない。 「いいでしょう。・・・が、お互い弱みを掴んでるんだ。妙な裏切りは無しでお願いしますよ」 顔を見られているのにも関わらず、長坂のやけに余裕ある老獪な態度が勘に障ったが、初めからこの依頼に断るという選択肢はないのだと腹をくくるしかなかった。 そんな最中、外回りの途中で加代の懐かしい顔に出くわしたのだ。 みんなも江戸に帰って来てるって、また一緒に仕事が出来るねと気が早くそんなことを口走る加代の口を慌てて塞ぎつつ、 内心で溜息が出るほどホッとしていたのは八丁堀のほうだった。 さっそく元仲間たちと落ち合った山門で、八丁堀は挨拶もそこそこに今の己の窮状を相談して、手を借りることを目論んでいたのだ。 ところがいざ会ってみれば、その目論みは口に出す前に当てが外れてしまっていた。三味線屋のおりくは巡礼用の白装束に身を包んでおり、 長い巡礼の旅に出ると言い出した。勇次もまた何も言わないところを見ると、母に付き従うつもりでいるらしい。 加えて一番最後に現れた秀は、仕事人から足を洗うと顔を見るなりそう言い放ち、全員を沈黙させた。 理由は分からないが旅の最中、秀はどこかで出会った孤児の幼い娘を引き取って育てる決意をしたとのことらしい。 情に引きずられ易い自分の脆さを克服すべく意識的に孤高を守ろうと苦心してきた秀に、いったい何があったのか。 それぞれの細かな事情を聞き出して説得するような関係ではない。自分たちはあくまで、裏の仕事で袖振り合った一時的な仲に過ぎないのだから。 それが分かっていながら、つき合いが長くなればなったで互いへの気心も知れてつい気持ちが頼りそうになる。 (よくねぇ癖だ) 半年のあいだに心境や置かれた状況が変わった仲間たちの様子を見るにつけ、自分の話をここで持ち出すことなど出来ないと八丁堀は思いなおした。 ただ金の問題でなく、今回は自分の命にかかわる仕事の話だ。 言えば必ず、おりくも勇次も秀も自分の事情は後回しにしてでも、なんらかの形で関わろうとするに違いない。 こんなふうに命を狙われるのは、自分ひとりでいい。公儀側にいながらこの闇の仕事を長く続けてきた自分自身の招いたことでもある。 巻き添えを食ってせっかくの足抜けの機会を失くしては元も子もない。 仕事人を抜けようという奴らを黙って送り出してやるのが、せめてものはなむけだと己に無理に言い聞かせた。 何気ない会話で別れを告げた八丁堀は、ひとり地獄を見る覚悟を決めていた。 かくして今夜、八丁堀は妾宅の庭先に潜んだのだったが。 オレが先にいく、と八丁堀を目で制してまず今回はじめて組む仕事人が、一足先に締め切った廊下側の障子ににじり寄った。 中に女と老中が居るはずだが寝静まったせいかやけに不気味な静けさが広がる。 音もなく障子をあけ放ち、中に押し入ったその男がかすかに怪訝な声をあげたとき、 (厭な予感がしやがる・・・・・) 何かが頭の隅を大きく蹴り飛ばすのを感じ、八丁堀はとっさに出てゆくのを踏みとどまった。 「な、なんだてめぇは?!」 「なに・・・っ?そんなバカな?!」 (!!まずい・・・・) 空の座敷の中央で、それぞれの獲物を持ったまま二人の仕事人がバッタリ顔を合わせたのを、八丁堀は庭から見ていた。ふたりがひるんで互いに声を発した瞬間。 「来たな、下郎」 「!!?」 二の句も継げぬ間に、抜刀して飛び出してきた侍たちがふたりを包囲してしまっていた。 さすがの仕事人でも罠に嵌められたことに気づくのが遅すぎた。二人の体が恐怖と怒りに八丁堀の目にも分かるほど硬直し、そして激しく震えはじめる。 奇声をあげて退路を確保しようと身構える前に殺到してきた白刃に圧し包まれ、瞬く間にふたりは膾斬りにされて床に沈んでいた。 (くっっっ!くそ・・・!!) 目の前に繰り広げられたあまりに酸鼻を極めた血みどろの私刑に慄然とした八丁堀は、我に返るなり素早く身を翻すとその場から駆けだした。 「あそこだっ!逃げたぞ!追えっっっ!!」 (畜生め) 何とか最初の攻撃はかわして逃げおおせたものの、隠れた路地裏から果たして出られるか。全身に厭な汗が伝う。 そのとき。どこからか一音、この切迫した闇には不似合いな雅な弦の音が八丁堀の耳朶を打った。 「!!」 空耳かと疑う前に、もう一音。あたかもこちらに存在を知らせるように。 (お・・りく・・・?) 目を凝らせば交差する路地の別方向から、何者かの陰が近づいてくる。 身を隠したまま隙間から覗くと、手ぬぐいの端を口に咥えた角付けが幽鬼のように音もなく佇んで、こちらの気配を読んでいる。 (・・・なんで・・・) なぜおりくがここにいるのか分からないまま、しかしいまや風前の灯火だった己の命がなんとか息を吹き返した心地だった。 腰を落としたままにじり寄れば、果たしていつもの風体に戻ったおりくが黙って頷き、先にたって歩き出した。 辻に出て三味線を弾くおりくの歩調に合わせて、八丁堀も顔を開いた扇子で隠し、風雅な酔客を装って人けの途絶えた通りをそぞろ歩く。 向こうから先ほどの侍たちが急ぎ足で駆けてきた。一瞬ふたりの前で足を止めかけたが、おりくのまるで動じない姿に気おされたのだろう、 無粋な足音を潜めるようにして脇を擦り抜けて駆け去った。 隙の無い男たちの足音を背後に聞きながら、八丁堀の背を再度冷たい汗が流れ落ちた。 「まだ江戸に居たのかい」 安全な場所に身を置いた後で、八丁堀が低く尋ねるが、おりくはそれには答えず黙って二人の前に置かれた銚子を取り上げた。 「危ないところでしたね、旦那・・・」 「ああ。命拾いさせて貰ったぜ。あんたが居なけりゃ、今ごろは胴と首が別々の方角向いて寝てたかも知れねぇな」 冷や酒が乾いた喉に沁みる。八丁堀は手ずから空の盃を再び満たすと一息に煽り、太い息をついた。 「オレはどうやら嵌められたようだぜ」 「ええ。あたしなりに探ってみたんですがね・・・。どうも最初の依頼のときとは事情が変わったみたいですよ」 「ってぇと、老中殺しの必要がなくなったってことかい?」 おりくが頷く前に、八丁堀の頭のなかでひとつの筋書きが閃くように降りてきた。 自分と組んだ仕事人と妾宅で鉢合わせした別の男もまた、罠に嵌められてあの場所に忍び込むよう依頼されていたのだろう。 何も知らない双方が無人の妾宅で顔を合わせ、そこを狙い撃ちされた。言うまでもなくそれは仕事人の存在が邪魔になったためだ。 「仕事人が要らなくなったってことぁ、敵だった老中同士が裏で手を組んだとも考えられる・・・」 「それなんですけどね、旦那」 おりくが八丁堀の頭のなかが透けて見えているように次の言葉を継いだ。 「その老中双方から、金を貰って尻ぬぐいを引き受けたのが例の御目付役だったとしたら・・・?」 「!まさか長坂の野郎が両方から仕事人の始末を請け負ったってのか?!」 「そのまさかでしょう。旦那を探し回っていた侍衆の会話から、御目付役の名が一度出ました」 淡々とおりくは説明したが、そこまでを探るのにいったいこの女はいつから自分に張り付いていたのだろうかと、 今さらながらまったく気取らせなかったおりくの手練手管に、空恐ろしい気持ちにもなる八丁堀だった。 いかな自分が、追い詰められた立場のせいで余裕がなくなり周囲への警戒が甘くなっていたとはいえ。 「畜生め、長坂のやつ・・・」 名前すら知らないままだった、年齢としては中堅どころに見えた二人の仕事人たちの悲惨な最期が、いまになって胸にこたえてきた。 晴らせぬ恨みを晴らしてやるどころか、あの者たちは上つ方の醜い勢力争いの駒として利用され、挙句の果てには口封じのため闇から闇に存在ごと抹消されてしまったのだ。 「旦那・・・」 「ん?」 「長坂をやるしかないんでしょう?」 八丁堀はおりくの静かな、しかし鋭い視線と見交わした。 「しかし・・・」 「旦那はあの男に素性を知られてしまっている。こちらから仕掛けるほかないじゃないですか」 「そうは言ってもなぁ。オレひとりじゃさすがに手は出せねぇ」 「・・・・・。なぜ、旦那ひとりだと思うんです?」 「・・・。え・・・?」 おりくはまったくの表情を変えず、驚く八丁堀を諭すような口調で囁いた。 「あたしも、それに勇次もいますよ。・・・そして加代ちゃんや順之介さんも」 「いや、そいつはいけねぇだろ」 「何故?」 八丁堀は首の後ろに手をやって繰り返した。 「そいつはいけねぇよ、おりくさん。あんたはもう仕事を抜けて巡礼に出る身だろうが?」 「・・・・・」 「あんたの気持ちは嬉しいぜ。けどな・・・、いつかはてめぇでてめぇの帳尻を合わせなきゃいけねぇ時が来る」 「・・・」 「オレはオレでそれを果たすしかねぇ。あんたもいま巡礼に出なきゃ、きっとその時ってやつを逃しちまうぜ」 おりくは一度かすかに頷いたかに見えた。白い貌を暗がりのほうに向けて、しばらく黙って何かを言いあぐねている様子だったが、 「・・・違うんです、旦那」 「違う?」 「気が済まないって、分かっちまったんですよ。このままでは終われないって」 「え?」 おりくはあらためて八丁堀に向き直ると、薄く微笑みを浮かべて紅い口を開いた。 「ずっと、悩んでたんですよ。あたしの後生は結局・・・、殺しの・・・この仕事のなかにしかないんじゃないかとね」 「・・・・・」 八丁堀は何も言うべき言葉が見つからなかった。無言で両腕を袖のなかで組みなおす。 「・・・あんたはそこから逃げたいと思ったんじゃねぇのか、おりく」 しばしの沈黙のあとで唸るように呟くと、おりくが目の前の盃を見つめたまま、さあと首をかしげて小さく笑った。 「水臭いじゃないですか、旦那。仕事人は複数で組んで的を狩るのが常。旦那の腕がいかに立とうと、独りじゃ仕事になりませんよ」 「おりく・・・」 「頼んで下さいよ、旦那。勇次を・・・あの子を見ていて、あたしは気持ちが変わったんです」 「勇次を?」 「・・・ええ。あたしはちょぃと思い違いをしてた・・・。その思い違いのために、あの子の幸せも諦めさせるところだったと」 「待ってくれ。言ってる意味が分からねぇ」 戸惑った八丁堀の声に、すみません、とおりくは苦笑して首を横に振った。 「分からなくていいんです。ただ・・・死ぬまでに一度口に出しておきたくてね」 「・・・・・あぁ」 「巡礼に出るのはやめました。それよりもあたしに出来ることをさせて貰いますよ」 先ほどとは異なる何か最後の迷いを断ち切ったような物言いに、おりくの覚悟を八丁堀は聞き取っていた。 「・・・それもあんたが決めたことだ。オレはもう何も訊かねぇよ」 「ええ。あたしももう、何も言いません」 続
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