秀は長いこと作業机に屈み込んでいる。 コツコツと小さな音をさせながらひたすらに打ち込んでいるそれは、 先日問屋に顔を出した際にお客からの依頼だと特別の注文を頼まれ、二つ返事で引き受けて来たものだ。 最近の秀はこの調子で黙々と仕事をこなしている。どんなに忙しくても入ってくる注文を断ることをしない。 ちょっとした細工の手直しの依頼にも無愛想だが淡々と応じる。 仕事熱心で律儀な態度が問屋からの受けもいい。 今までは腕の良さを買われてきたからこそ、時おりしばらく姿を見せなくなっても、また顔を出せば出したで簪を卸させて貰えていたのだ。 とはいえ、そんな都合の良い得意先がいくつもあるわけではない。 自分の口を養うだけで良かった独り身のときとは話が違う。 いまの秀は二人分の暮らしを立ててゆかなければならない身の上だ。 自らが選んだとは言え、養う者が一人増えるというのは思った以上に食事以外でも何かと物入りなことが多く、小さな子供ひとりくらいと甘く考えていた秀を慌てさせた。 己の手技ひとつが飯のタネである職人にとっては、いま仕事が多いからとそれに胡坐をかいているわけにはいかない。いつ予告もなしに注文が途切れるかも分からないからだ。 頼まれるうちに受けられるだけ仕事を引き受けて、少しでも明日の蓄えを増やしておく必要があった。 秀は刻みだされた細かな花弁をたしかめるため、つまみ上げてすぐ脇の障子ごしに光にかざしてみた。入口以外は壁だった裏長屋と違って、 ここは自然な光が取れるから作業がしやすくて助かっている。 ぽっぴん 外で小さな音がした。薄い金属を爪先で弾いたような、澄んだ不思議な音。 ぽっぴん 少し間をおいてもう一度。壊れないかと心配しながら恐々と吹いてみるその姿が目に浮かぶようだ。 秀は真剣な目元の緊張をフッと緩ませると障子を細く開いてみた。池に渡した短い桟橋のうえで少女がびいどろを吹いているのが目に入る。 丸く紅いほっぺを少し膨らませて熱心に息を吹き込む様子をしばらく眺めていた。その横顔に浮かんでいた微かな笑みは、いつの間にか消えている。 「・・・」 障子を閉じると秀は再び手元に屈み込む。金床のうえの簪は今日中に仕上げるつもりだ。 お民という小さな女の子を引き取った秀は、自分が男手ひとつで育ててゆくことを決意した。 それは父親を何者かに殺され孤児となった少女を見捨てて去れなかった己の葛藤であり、そしてまたお民に対する贖罪でもあった。 川の水を引き込んだ小さなため池のほとりに建つ小屋は、もともと近くの庄屋が釣り好きの老父のために建ててやったものらしい。 父親が死ぬと使う者もなくなったこの隠居小屋の借り手を探しているという話を、 以前長屋で隣同士だった加代がどこかから聞きつけて来たのだ。 伊達になんでも屋の看板を上げてねぇなと加代を持ち上げておいて、早速秀はその日のうちに庄屋を訪ねて話をつけた。 江戸で暮らす以上いつまでも木賃宿に泊まっているわけにはいかない。 しかし以前のように裏の仕事仲間と同じ長屋に住むつもりはなかった。 理由は加代にお民のことで色々と詮索されたくなかったということもある。 半年あまり江戸を離れていた秀が戻って来たとき、再会した仕事人仲間たちの前で秀は仕事を抜けると宣言した。自分はある事情で小さな女の子を育てることになったからと。 仲間たちの反応はそれぞれだった。八丁堀は目を剥いて絶句し、加代はぽかんとあっけにとられて、その思いつめた顔を凝視した。 順之介はいつものごとく大人たちの反応を心配そうに固唾を呑んで見守っている。 そこに集まった仲間五人に告げたわけだが、ちらと白い瞼をあげて一瞬鋭く秀を見つめた三味線屋のおりくと、その傍らに立つ勇次の顔を見ることはとても出来なかった。 「・・・・・ま、そりゃ・・・。そぅいうことなら仕方ねぇよな」 沈黙を破ったのはさすがに八丁堀だった。腕組みをし、あえて秀の顔を見ないようにしながらその子供はいったいおめぇの何なんだと問う。 「・・・・・・。それは訊かねぇでくれ」 案の定、秀は低くそうとだけ言って皆の視線を避けて顔を背けた。八丁堀がそれ以上の言葉を発さなかったので、他の者は秀に何かを問いかけることはしなかった。 この二本差しが余計な口を利かないときには、それなりの考えがあるのだろうと全員がどこかで思っているふしがある。 それは八丁堀がやはりこの集団をまとめ上げているという意識が根底にあるからだろう。 珍しく軽口も無しの八丁堀にホッとしつつも、もっとも長い付き合いである秀自身が誰よりもその沈黙の重さを受け止めていた。 誰もその場から動こうとしない。加代も順之介も戸惑った表情で秀から目を逸らして俯いているだけだった。 「・・・。じゃぁな」 秀は居たたまれずにぶっきらぼうに挨拶すると後も見ずにそこを離れた。 「新しいうちは気に入ったかい?」 やって来た三味線屋は秀の顔を見るまえにすぐ膝を折り、先に少女に話しかけた。 初めて見る見知らぬ大人の男に怯えるかと思いきや、恥かしそうではあるが興味のほうが勝るのか秀の腕に掴まったまま、じっと勇次のことを見つめている。 浅黒い顔に大きな目が利発そうな可愛い少女だが、まだ六歳にもなってはいまい。 「なんて名だい?」 「おたみ」 「お民ちゃんか・・・。おじちゃんは勇次ってんだ。よろしくな、お民ちゃん」 気さくに笑いかけられて、お民はつられてこくんと頷いた。秀は柔らかい勇次の物腰とやりとりをどこか落ち着かない様子で見ていたが、 お民に手を引っ張られてハッと我に返った。 「な、なんだ?お民」 「お兄ちゃん、あっちで遊んで来ていい?」 「あ・・・、あぁ。気をつけるんだぞ」 お民が水辺で秀に教わったばかりの笹舟を浮かべているのを、ふたりはしばらく黙って眺めていた。 「・・・可愛い子だな」 「・・・・・」 勇次の言葉が皮肉ではないことは秀にも分かっていた。お民の面差しが秀に似ていないという以前に、 仲間たちの誰一人として秀の血を分けた子供だとは思っていないことも。 それは最初に秀が加代の暮らす長屋にお民を連れて行ったときにも感じたことだった。加代が子供好きなどと、 これまで聞いたこともなければ長屋のガキどもを可愛がる姿も一度として見たことがない。 それでも加代は秀が無言でお民の背を軽く押し出すと、勇次と同じくすかさず膝を折って少女に目線を合わせてくれた。 「あらっ、こんちは!おねぇさんにわざわざ会いに来てくれたのぉ?」 勉学に集中するという名目で、長屋のよりにもよって加代の隣室に下宿することになった蘭方医の西順庵の一人息子順之介も、呼ばれてのっそりと姿を現した。 お民と秀とをちらちらと見比べたあと、屈託ない爽やかな笑顔で話しかける。 「あ。こんにちは。名前は?お民ちゃんっていうの。僕は西順之介。この元気なおばさんに何でも頼むといいよ」 「ちょいと!おばさんじゃなくっておねぇさんだって、あんた何べん言わせたら分かんのよ?」 「まあまあまあ。いいじゃないですか。こんな幼い女の子からすれば僕だって大人の男なんだから。ねっお民ちゃん」 ぽんぽんと次から次に飛び出す言葉の応酬を目を丸くして見上げていたお民が、やがてクスッと小さく笑った。 意味はよく分からなくても、いつも秀と二人きりだからこんな賑やかさに触れるのははじめてだったのだ。 「…まあいいわ。よし、お民ちゃん、このお兄ちゃんがいそがしいときはうちにおいで。あたしが遊んだげる」 にっと笑って秀にも流し目をくれたその目つきから、順之介の場合と同じくお世話係として料金を取ろうと目論んでいることはあきらかだった。 秀は肩を竦めながらも、この時ほど裏の仕事仲間の存在を内心ありがたく感じたことはなかった。 「八丁堀にはあれから会ったか?」 秀が小声で問いかける。勇次はお民を見たまま無言で首を横に振った。 「そうか・・・」 「何かあいつのことで気にかかるのか?」 「いや、」 あらためてそう問われると、秀自身も返事に窮した。宣言したとおり、裏稼業から身を引いたからにはもう八丁堀のことなど気にする必要はない。 にも関わらず秀は後々になって、あのときの八丁堀の態度が少しおかしかったと思い返すようになっていたのだ。 肚の中になにか隠しているような、何かを言うつもりでいたが秀の話を聞かされて止めてしまったという不自然な沈黙。 「・・・まぁいいや。そりゃそうと、勇次」 「ん」 「おめぇたちも・・・。抜けるって話だったな」 今日会ってはじめて、勇次が切れ長の目を秀に向けた。 「江戸、出る、のか」 目が合えば少しずつ胸のなかで苦しさが甦る。秀は自分を捉えて離さない水鏡の瞳から目を逸らすと、ほとんど口のなかで訊ねた。 半年以上の時を経ても、こうして会えばいまだに密かに持て余しくすぶり続けていた感情を意識せざるを得ない。 「おふくろが巡礼に出たいと言い出してな」 「巡礼?」 かえりみた勇次の白い頬が微苦笑を刻んでいるのを秀は認めた。 「こないだのおりくさんの恰好はそういうことだったのか」 「・・・。おめぇが江戸を離れてるあいだに、だんだんおつとめが辛くなってきたとね」 能面のごとくにいっさいの内面を垣間見せないあのおりくの口からそんな言葉が出たとは、と秀にも意外な思いがした。 江戸を出る前からもう巡礼姿に身をやつすほどに。勇次もそれは同じと見えて、苦い笑いを浮かべていたのだろう。 「オレはおふくろがそこまで思い詰めていたとは思わずにいた・・・」 「・・・・・」 「だから黙って、おふくろのしたいことに付き添おうと決めたのさ」 それは、ここまで生活も仕事も共にしてきた母の心の相克に気づかなかった己に対する自責にも聞こえた。 秀はなにも言えずに立ちすくむ。事情は違っていても、自分でなければ引き受けられない役目をそれぞれが負うときが来たのだと思った。 そのために真っ先に諦めなければならないのは…。 「秀」 珍しいほどに感情を抑えつけているのが分かる声で、勇次が名を呼ぶ。その一言だけで秀の胸は掻き毟られるような痛みを覚える。 およそ半年前に最後の逢瀬を交わし分かれたときには、こんな日が来るとは想像だにしなかった。ずっと一緒にいられるとははじめから考えていない。 望みはただ、つかず離れずの距離でもいいから互いを必要としていられたらと、それだけを願っていたが。 「・・・お民のてておやは、俺が殺った」 上体をもたせ掛けていた土塀のスサ(壁土に混ぜ込む藁屑)をむしるフリをしながら、秀はぽつりと口にした。 「あの子と俺は・・・」 「・・・・・」 「おめぇとおりくさんと・・・同じ身の上だ」 勇次は何も言わなかった。わずかな動揺もない気配から、秀はその事実をすでに勇次が想像していたのだと悟った。 八丁堀にも誰にも言わないでおこうと決めていたことを、この男にだけは懺悔したくなった。 「・・・ある依頼を受けて男を追ってた。的(まと)の寝間に忍び込んだとき・・・。布団をめくってみたら、子供が横に寝ていた・・・」 少し離れた場所で、そのときの子供は笹舟流しに夢中になっている。水面の照り返しが秀の黒目がちの瞳に反射して揺らぐのを、勇次は見つめていた。 「・・・どうしようもなかった。迷ってるいとまは無ぇ。俺は」 勇次の手が肩にかかるのを秀は身を引いて避けようとしたが、その手の力は強く秀の肩口を掴んでいた。 「それが掟だ」 一瞬大きく震えた肩が、秀がいましも泣くのではないかと勇次に思わせた。 が、その硬質に整った横顔は江戸を出る前によく見知っていたものとは違う、ある種の仮面を纏ったように見える。 「・・・・・秀」 痩せた肩からそっと手を退けると、勇次は酷だと知りつつも口にするしかなかった。 「そのことは・・・。おふくろの耳には入れないでやってくれ」 「・・・。分かった」 「八丁堀のことは、こっちのほうでもそれとなく気をつけておくぜ」 「・・・俺にはもう、関係のねぇことだ」 俯く秀の正面につと回り込んだ勇次は、口で言うほどには割り切れていない傷ついたまなざしと目線を合わせた。 「オレが江戸に居るあいだは。・・・おめぇとは切れねぇ」 軽く瞠目してこちらを見つめる秀に、またなと一言言い置いて勇次は背を向けた。これ以上いま顔を合わせていれば、なにを口走るか分からない。 背後でほとんど苦しい息を吐くように秀が喘ぐのが聞こえたが、呼び止めはしなかった。 続
小説部屋topに戻る
|