雨音が抱きしめる 2
ある考えがふと秀の頭をよぎった。 (もしこのまま俺の目が戻らねぇとしたら――――?) 2度とこの男の顔を、姿を見ることは出来ないのだ。その事実に思い当たり、秀はいまさら呆然とした。 もちろん見られないのは勇次だけではないが。 お民の可憐な笑顔も仲間たちも、他のありとあらゆるものも・・・。 数日前、八丁堀が寄越した医者からは、毒が完全に抜けるのを待つしかないと言われた。 いずれ見えるとも見えないとも、どちらともはっきりとは言わなかった。 しかしお民の心配をよそに、なるようにしかならねぇと、そのときの秀の心情は不思議と落ち着いていたのだ。 それよりも今、勇次の顔を思い出そうとしてうまくいかなかったことが、我ながら意外でそして腹立たしかった。 最後に勇次と逢瀬を持った日のことすら、遠い過去に紛れてしまっている。 (もっと良く見てりゃ良かった。忘れたくても忘れられねぇくらい・・・記憶に刻み込んでれば―――) 「秀?どうした?」 酒を満たした湯呑を手に触れさせたのに掴もうともしない秀に、勇次が怪訝そうに訊く。 「・・・いや、何でもねぇ。ちょっとぼんやりしてた」 笑ってごまかし秀は湯呑を掴み上げた。おもむろに口を付けると、 流れ込む酒の味はふだんよりも甘みが強く感じられた。 酒屋を変えたのかと訊くといつもと同じ店の同じ酒だと答えが返る。 「そうか・・・」 もしかして記憶というのは、思う以上に当てにならないものなのかもしれない。 目で見えないだけで、同じ酒の味すら違って感じられるとは。 外から呼びかける勇次の声を聞いたときにも、最初は知らない誰かだと思ったが、 こうして接すると、これはたしかに勇次以外の声には聞こえない。 それだけふだんは無意識の思い込みだけで生活しているということだろうか。 記憶はその思い込みに一役買っているだけで、 条件や環境が変れば別のものに、あんがい簡単にすり替わってしまうのかもしれない。 そのうちいつか思い込みで覚えているつもりでいた部分までもが、 時と共に自分のなかから薄れてゆくのではないか・・・。 「何か気になるのか、秀?」 訊かれて秀は、物思いから覚めた。もっと良く見ていればという己の悔恨は伏せて、 記憶について思ったことは勇次にも話した。 口下手なわりに、内面では人が深く突き詰めて考えないようなことを考えている秀の話に、 勇次は黙々と耳を傾ける。おめぇはものの視方は面白ぇなと微笑み、 そんなところもオレは好きだと甘く締めくくる。ホントに聞いてたのか、と秀に突っ込まれるのが常だった。 「・・・そうかも知れねぇ」 不自然に長い沈黙を経て、今夜の勇次は自分に呟くような相槌を打った。 他愛ない話にしてはいつもと異なる、重い憂いを含んだその声を秀は不思議に思い首をかしげる。 「見慣れたと思ってたものが、いざ見れなくなっちまうと――――」 珍しく自分の意見を言いかけておいて、なぜか言いよどんだ。 「・・・勇次?」 返事のかわりに、コト、と湯呑が床に置かれる小さな音がした。秀がその方向に顔を向けていると、 長い指が頬にそっと触れてくるのを感じた。勇次にしては冷たい指先だった。 「・・・?」 「なんでもっと良く見てなかったのか・・・」 やがて囁くように言葉が続き、秀の表情に軽い動揺がはしる。指先が瞼に繊細に触れた。 「誰よりも良く、おめぇを見てるつもりでいたのにな・・・。おめぇの綺麗な目を」 「勇…」 「オレもいつか・・・思い出せなくなるのかな・・・」 「――――」 何を答えたらいいのか分からず、顔に触れている勇次の大きな手に、自分のを重ねた。 「・・・すまねぇな。勇次」 「?なんでおめぇがオレに謝る・・・?」 「分からねぇ、でも・・・」 「・・・・・」 「俺も・・・、おめぇの顔を思い出せなくなるかもと思うと―――。一生見えねぇより、俺はそれが・・・」 辛い、という最後の言葉は喉の奥に呑み込み、秀は勇次の手を振り払うと、 両手を手探りで向かい合う着物の肩に這わせてゆき、今度は自分のほうが勇次の顔を包み込んだ。 「秀・・・」 「ちょっと触らせろ。おめぇの顔なんて触るの、どのくらい久しぶりかな・・・」 明るく言いながら額から頬骨、顎の下まで降りて行き、輪郭を辿る。勇次は動かずにされるままになっていた。 続いて指先で眉に触れ、中央のスッと伸びた鼻筋をなぞって、唇にたどり着く。 綺麗だ、と心の中で呟いた。 どの場所にもきっと、今までは目で触れていた。今度は自分の指で触れて、その場所を美しさを確かめている。 このまま見えないで、目が覚えている記憶がいつか薄れていったとしても・・・・・ 「勇次」 「・・・あぁ」 「こうすれば何度でも思い出せる」 「・・・あぁ」 「だからおめぇも俺の目は忘れていいから、・・・他のことは全部、すみずみまで・・・覚えててくれよ」 見えない男の腕が秀の背に回る。秀は両手を勇次の体に回して引き寄せた。 ジッと身を寄せ合うだけで甘美な痺れが、胸が痛いほど切ない歓喜が沸き上がる。 やがてゆっくりと押し倒してくる体の重みを、全身で受け止めた。 「心配するんじゃねぇよ、勇次。俺はこのとおりだ。何も変わらねぇ」 「・・・」 「おめぇがらしくもねぇツラしてるとこ、この目で見なくて済んで良かったぜ」 わざと煽るように突っぱねると、ようやく勇次が重い口を開いた。 「・・・・・。秀、すまねぇ。謝るのはオレだ・・・。おめぇに慰められるなんざ・・あべこべだ」 「・・・」 「情けねぇよ。おめぇはここに、オレの前に居るのに。目が開いても開かなくっても・・・」 秀は勇次の首の後ろに手をかけ引き寄せ、唇で遮った。 己の弱さを吐露した勇次の言葉を聞けて、秀は内心では嬉しかった。 でももう何も言い合う必要はない。この男がここに、目の前に居る。自分とってもそれだけで充分だから。 秀が負傷したあの夜からふたりきりで会話することはおろか、 近づく機会もなかった。お互いの生身に触れ、心の欲するままに求めあう。 溶け合う体温に、匂いに、声に溺れ・・・。立場も取り巻く環境も守るべき存在のことも、 今はすべて忘れた。秀と勇次という名の人間同士が恋を燃やし尽くし、ひと時の交歓に没頭するだけ。 「・・・いぃ・・・ゆぅじ・・ゆ――――」 「あぁ・・オレもだ・・・秀・・・ひで――――・・・」 ふたりは際限なく絡み合い、夜の底で身体と心に記憶を刻み続けた。 続
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