雨音が抱きしめる 3










 伏し目になった表情からふと白い瞼をあげこちらを見返したまなざしは、 男の自分ですらゾクッとするほどの艶を湛えている。 凄みのある底の見えない深い瞳の色。危険だと直感的に感じながらも、まっすぐな視線から目が離せなかった。
 あんなに白目の綺麗な人殺しには遇ったことがない。 後になって秀は、最初に感じた印象を勇次については、繰り返し思い出すことになる。 それは秀の強固な人間不信を少しずつぐらつかせる力すら持っていた。
 汚れた血にまみれて生きるさだめを負う身でありながら、自分と同じ人殺しの、しかも男に、 抗いようのない引力で惹きつけられてしまった愚かな自分。 引き寄せられるように体を重ねる関係に陥ったが、傷の舐めあいではなく、 その恋着には情と呼べそうな心の通い合いが、いつの間にか出来ていた。
 悩みながらもこの裏稼業から脱け出せない理由のひとつには、勇次と出会ってしまったということがある。 勿論それは、こんな風に自分に逢うために夜の雨のなか訪ねてきた男にも、 決して告げるつもりはない秀だけの真実だった。

「・・・秀、おい・・・秀?大丈夫か?」
 気遣うような声に起こされる前に、強まる雨音が遠のいていた意識を呼び戻した。 少し昔の夢を見ていたらしい。
「・・・・・。ぅ・・・」
 無意識に薄く目を開けかけるが、ムリに開けようとすると鋭い痛みがはしり、ああそうだったと思い出す。
「―――――・・・。俺・・・?」
「立て続けにイったんで気絶したんだよ、・・・久しぶりで溜まってたんだな」
 汗ばんだ額に張り付く秀の髪を掻き上げながら、色っぽい声で身もふたもないことを囁かれ、 全身がまた熱くなるほどの恥ずかしさがこみ上げる。 耳元にまだ、勇次の荒い息遣いと名を呼ぶ掠れた声が残っている。 いつもなら懇ろに愛し合っても冷静さを失わない勇次の、珍しいほどの余裕のなさに、 自分も我を忘れてしがみつき声を上げていた。
「おっ・・・おめぇが見境なく無茶苦茶したのが悪ぃんだっ!!」
「そのわりにはおめぇだってけっこう・・・いててててて!」
 鼻唄でも飛び出しそうな調子で余計なことを言いかけた勇次の尻を、手探りで思い切りつねってやった。
「いいから水飲ませろよ。喉渇いた」
「はいはい」
「それから、酒の続き」
「はいよ」
 密着していた熱い肌が離れ、脱ぎ散らかした着物を肩にはおる衣擦れがしていたが、 ほどなく土間に降りて水瓶の蓋を取る音がした。さすがに喉が渇いていたらしい。 自分でも立て続けに飲み干すと、あらたに汲んだ水を寝転がって待つ秀の元に運ぶ。
 半身起こしてそれを受け取った秀は、息もつかず一気に飲み干した。 冷たい水が体に入ると、ようやくこれまでの熱が鎮まってきた。 勇次も同じなのか、秀の隣にごろりと横になり、フゥと満ちたりたため息を吐く。
「なんだそりゃ。幸せそうに」
 溜まってたんだろ、と自分も寝転がりながら秀がからかうと、
「幸せだからな。おめぇとこうしていられるのが」
何のてらいもなく口にするので、さっきの仕返しのつもりだった秀のほうが何も言えなくなった。

 行灯の油が尽きるまで、言葉もほとんど交わすことなく残りの酒を飲んだ。 いまは勇次が敷いた夜具に横たわり並んで黙ったまま、 止むことのない雨の音と静かな互いの呼吸に身を委ねている二人だった。
「・・・寝たかな・・・」
 しばらく経ったあとで、秀がぽつりと呟く。ゆるりと回った酔いが心地いい。
「・・・ん?あぁ、お民ちゃんか」
「・・・」
「もぅ寝ただろ・・・。それか布団でおふくろがお伽話でも聞かせてる頃かな」
「・・・おりくさん、うまいんだってな」
 もう何度か泊まりに行っているお民が、帰るたびに楽し気に語って聞かせるので、 おりくの語り上手は秀にも伝わっている。ふと思いついて、訊いてみた。
「おめぇも小さい頃には、枕元で聞いて育ったのか?」
 ひそやかな思い出し笑いが闇を伝わった。
「まぁな。でもオレはどっちかってぇと、男と女の艶事のほうが面白かったけどな」
 いかにもこの男が言い出しそうなことだ。おりくの表の仕事柄、華やかな場所にも呼ばれてゆくことも多かっただろう。 子どもひとり置いておけず連れて行った現場で、子供なりに勇次は肌でその秘め事の空気を感じ取り、 大人たちの時に卑猥な隠語やあけすけな会話を耳にして、勝手に色々なことを吸収していったようだ。
「おめぇが死ぬまで治らねぇビョーキ持ちだってことは、今のでよーく分かったよ」
 秀と深く関係しながら、女遊びは一向に止む気配のない勇次に腹立ち半分、諦め半分に突き放すと、
「拗ねるなよ。おめぇが訊いたから正直に答えただけだぜ」
くすくす笑って悪びれもせずに言う。それでもちょっとは取り繕おうというのか、話を元に戻してきた。
「おふくろは女の子も育ててみたかったと言ってたからな。 お民ちゃんに着物の仕立てとか髪結いだとか、知ってることは教えてやりたいと張り切ってるよ」
 意外なことを聞いた気がした。堅気の人間ですら拾い子を育てるのは大変なのに、 おりくは危険な裏の世界に身を置いたままで、勇次の子育てを愉しんでいたというのか。
 勇次と血の繋がらないおりくの関係は知っているが、 止むにやまれぬ事情によって拾った勇次を育て上げたのは、贖罪の意味が大きいのではないかと、 秀は今の今までずっとそう思ってきた。掟破りをした仕事人の父を粛清した張本人であるおりくを、 実の母以上に慕っている勇次に言うことではなかったが。 お民を似た状況下で引き取った秀自身、育てる喜びよりもまだ義務感のほうが勝っていることは、否定できない本音だった。
「・・・勇次。ひとつ、訊いてもいいか」
 勇次と自分にいまの信頼があるならば、おりく本人には訊けないことでも勇次には話してみたい。そんな思いがふと、 秀の中に芽生えていた。それはきっと、今回の一件でまたぞろ浮上して来た答えの出ない迷いが元になっている。
「あぁ。何でも言えよ、秀」
 秀の固い声に何かを察したのか、勇次が静かに答える。
「・・・おりくさんは、おめぇを育ててるあいだ、裏の仕事を辞めようとしたこと―――あったのかな」
 しばらく雨音だけがふたりの間を埋めていた。訊ねた側の秀が沈黙に耐えかね息苦しさを感じてきたころ、
「・・・どうだろうな。―――なぜいまさらそんなことを訊く?」
それを口にした勇次の声音には、どこか気のすすまなそうな間延びした感じがあった。
 やはり言わなきゃよかったと秀は後悔した。 お民を引き取った直後、ひとりで訪ねて来た勇次が秀に頼んでいった言葉は、今でも秀の耳から離れない。
『お民ちゃんとおめぇのことは、おふくろには伏せておいてやってくれ』
 おりくはもう、お民と自分の関係を薄々は感づいている気がする。 それはお民にも何一つ、秀と連れ立つまでの前のことを尋ねようとしないところからも察しがつく。 あるいはおりくは、勇次が母の心情を気遣って秀に口止めをしたこととは裏腹に、 秀の口からお民について、何かを打ち明けられるのを待っているのかもしれない。 そう思わせる素振りは、これまでも何度となくあったからだ。 しかし秀は、勇次との約束を守って何一つおりくに話すことはなかった。
「怒ったのか、勇次?」
 勇次はしばらく何も答えなかった。秀を責めているわけではないのだろう。だが自分の感じていることを、 どう伝えようかと考えている様子だった。
「・・・別に怒っちゃいねぇよ、そんなことで。ただ・・・」
「・・・ただ、何だ?」
「おふくろはおふくろ、おめぇはおめぇだ、秀。あの女(ひと)はオレを育てるために裏の渡世を生きたのさ。 死に物狂いで・・・」
 命を奪った相手の遺児を引き取り育てる。 幼い勇次を見たときのおりくと、同じ選択をした自分。だが、真逆のことを今まで考えてきた秀の想像は覆された。 お民を引き取った時点で、自分は裏の仕事を抜けると再会した仲間の前で宣言したこともあったのに。
「―――おめぇのため?」
「そうさ。足抜けすることだって、一度や二度じゃなく考えたかもしれねぇ。・・・けどな、 おめぇも知ってのとおりこの稼業は・・・一度踏み入れたらそうやすやすとは脱け出せねぇ蟻地獄だ」
「・・・」
「どこに行っても業はついて回る。いつ何時、昔の仲間や過去を知る者に見つけられるかも分からねぇ。 だから逃げも隠れもせずにこの世界に身を置いて、オレを育てることにしたんだ。 いつ母子そろって共倒れするか・・・危険は覚悟のうえでな」
 静かな声が語る内容の壮絶さに、秀は言葉もなく耳を傾けていた。


「お民が大事なんだろう?」
 長い沈黙を経て、やがてぽつりと勇次が訊ねた。
「・・・・・。あぁ」
「お民のほうでも、おめぇと一緒に居たがってるんだろ?」
「・・・・・。たぶん・・・」
 お兄ちゃんと小さな体をぶつけるようにしてしがみついてきたお民の、驚くほどの強い力を思い出しながら、 秀は小さく答えた。たぶん、いや、きっと―――。
「だったらおめぇは、死に物狂いであの子を育てろよ。オレやおふくろや加代はそれを見守る。 ・・・オレたちに出来るのは、ただそれだけじゃねぇのか・・・」



 どうしたらあの子を守ってやれるか。どうすることが一番いいのか。 何か起きるたびに、堂々巡りの自問自答を繰り返してきた。
 自分ひとりでお民を幸せにしてやらなければと張り詰めていた心が、 『オレたち』とわざわざ付け加えてくれた勇次の声に解けてゆき、言葉が慈雨(じう)のように染み込んでいく。 いつしか久しぶりの深く静かな眠りについていた。
 翌朝、目が覚めたら寝床の隣はもう空になっていた。寝返りをうって初めて、秀はそれに気づく。
「・・・勇次・・・」
 手探りで夜具のくぼんだ辺りに触れれば、今しがた抜け出したばかりの温もりがまだ残っていた。 おそらくゆうべの酒盛りの跡もきれいに片して、誰か来たという痕跡をすべて消し去り出て行ったことだろう。 何食わぬ風情で、朝帰りしてきたその顔を泊まりに来ていたお民にも見せて、 おはようと涼しく笑いかけるだろうか。 お民は1人で留守番をしているあんちゃんを気にして、朝食もそこそこに帰ってくるはずだから。
 体をその温もりと匂いのうえに移動させうつぶせ寝をして、いましばらくの余韻に沈み込む。 外からは見えなくても、秀の身にも心にもあの男の痕跡はまたあらたに刻み込まれた。
 古い記憶はいつか抜け落ちていくかもしれない・・・。それを恐れて悲しむよりも、 会うたびごとに記憶を塗り変えていけばいい。
(見えなくなったことで見えるようになったこともあるんだ。おめぇはイヤがるだろうから言わねぇけど・・・)
 あべこべに慰められて広い肩を丸めていた勇次を思い出し、ひとり笑いを零す。 ゆうべ触れた愛おしい輪郭を、秀の指先は新しく記憶していた。




小説部屋topに戻る