雨音が抱きしめる 1










 手探りで、お民の用意して行ってくれた膳で早々と夕食を済ませると、あとはすることがなくなった。 久しぶりに一人きりの夜だ。
 たまにお民がおりくの元に泊まる時には、手元を照らす灯明の油が尽きるまで細工仕事に没頭しているのが常だが、 今日はそんなわけにもいかない。裏の仕事で傷つけた目は、包帯のとれた今でもまだ開くことは出来なかった。
 目の見えない秀の手足になろうと、お民は家事に取り組み精一杯のことをしてくれている。 いつの間にこんなにもしっかりした子に成長していたのだろう。そう長い期間一緒にいるわけでもないのに、 気づかぬうちにお民は、江戸の町で地に足のついた生活力を身につけようとしていた。
 自分と共にいるせいで、一時的に養女をまた危険な目に遭わせてしまったという負い目と、 幼い彼女が今やかけがえない家族になってしまったという実感と。 お民が巻き込まれかけた事件も最悪の事態は回避出来たし、 秀自身も不利な形勢に追い込まれながら、自らの手で敵を仕留めるに至った。
 が、いつまたこんな事が起きるとも限らない。 ささやかな日常の平穏は、見えない危険と常に紙一重だ。 裏の仕事をしながらお民を育てる両立が今のところまずまず継続出来ているため、 このままずっと続くかのような錯覚すら覚えていた。 それだけに、今回の一件は秀の目だけでなく心にも傷を残した。

 シンと静まりかえった部屋のなかで、子供のように両膝を抱いている。 ひとり暮らしの時にはよくそうしていた。お民の前ではさすがにしないが、 考え事をするときにはそうやって身を縮ませて我れとわが身を抱く格好が、昔から一番落ち着くのだった。
 座っている以外にすることがなく手持ち無沙汰の状態だが、お民がいまここに居ないというのは、 そんな己の胸に渦巻くあれこれの想いに身を委ねるのには、ありがたい機会ともいえた。
 今日の昼間、加代がふいに住まいを訪ねて来たのだ。 おりくさんに頼まれてお民を迎えに来たと云う。 このところ家のことを頑張っている民ちゃんのご褒美に、芝居見物に連れて行こうということらしい。
『ご飯もうちで食べて泊まらせるから、秀さんは1人でおとなしく留守番をおしよ―――だってさ』
 お民に便乗する格好で自分もお相伴に預かるつもりらしい加代が、突然の招きに驚いて立ちすくんでしまったお民よりも、 はしゃいだ声で秀に伝言を告げた。
『でも・・・。お兄ちゃんが心配だもの』
 秀が何か言う前に、小さな声が耳に届いた。加代がグッと言葉に詰まり、お民を振り返ったのが気配で伝わった。
『馬鹿だな。お民、こっちに来いよ』
 すかさず秀は呼びかけていた。目の見えない自分に鈴のお守りを手渡してくれた、あの小さな手が自分の手にそっと触れると、 温かく包み込みながら、出来るだけ何でもないような明るい声を出した。 自分の愉しみを後回しにしても秀の傍を離れることを躊躇する、年齢に合わないお民の大人びた判断が、 喉をつかえさせるような哀しみと愛おしさを心に芽生えさせていたが。
『俺のことは、もう心配要らねぇ。一晩くらい一人で平気だから、おりくおばちゃんと遊びに行って来てくれよ』
『・・・。でも・・・』
『頼むよ、な、お民?あんちゃんもお民に俺の世話ばっかりじゃなくて息抜きして欲しい。芝居見物はじめてだろ?ん?』
 秀の問いかけに応えはなかったが、代わりにやがて掌のなかの温もりが、クッと拳を握り込む感触があった。
『・・・・・。秀にいちゃん・・・。ホントにお民が居なくても大丈夫・・・?』
『大丈夫に決まってるだろ。けど細工仕事は出来ねぇから、たまには昼間っからごろごろして怠けてたっていいよな?』
 秀のおどけた物言いに、ようやくお民が張り詰めていた吐息を漏らすように、ホッと小さく笑う。
『そうそう、心配要らないわよ、お民ちゃん!あんちゃんの目はあとはもう日にち薬だけが必要なんだからさ』
 加代も明るく請け合った。お民の健気さは、がめついが根は気のいい加代の胸にも響くものがあったとみえ、 私が責任もってお供してくるから!と秀に向って頼もしい声で言う。
『おめぇが一番張り切ってんじゃねえか』
 いつもの癖でつい揚げ足を取った秀も、年は違えど女同士?すっかり気脈が通じ合っている加代に、 お民を任せることには何の不安も抱いてはいない。
 食事の支度をきちんとしてくれたお民が、
『じゃあ、行ってきます!』
とワクワクを隠せない声で挨拶したときには、裏の仕事仲間の女ふたりの気遣いに内心深く感じ入るものがありながら、 ゆっくり愉しんで来いよとだけ言って、閉じた瞼を声のする方に向けて送り出した。




 男が雨を呼び込んだようだった。
 ジッと膝を抱いて部屋のなかにうずくまっているうちに、いつしか静かな雨音がしていることにも、 秀は気が付かなかった。ただ、火の気のない室内でふと肌寒さを感じて項垂れていた顔を上げたとき、 視覚が利かないぶん研ぎ澄まされた聴覚が、家に近づく何者かの立てるかすかな音を聞きつけたのだ。
「!?・・・・」
 何を思う間もなく俊敏に秀の体が動き、床にひたと当てた手で退路を探りながら、 音を立てずに中腰で移動していた。 同時に胸に仕込んだ簪を空いた手は掴んでいる。トクントクンと高まる鼓動が自分の耳で聴こえていた。 自分にふくみ針を放った悪徳仕事人は、仲間の三味線屋が放った糸によって即座に吊り殺された。 すべての始末はつけたと思っていたが、まだそれに連なる残党がいたのだろうか・・・。
(お民―――)
 あの子が居なくて良かった。と秀はこの期に及んでその偶然のほうを喜んだ。これで思い切り暴れられる。 暗中模索の闘いはすでに経験済だ。ここで敵と死闘を演じたとしても、ただで殺られるつもりは毛頭なかった。
 取り出した簪の切っ先をそっと唇に咥えようとしたそのとき、秀の張り詰めた緊張の糸は前触れなく断ち切られた。 パラパラと番傘に落ちる雨音のみが近づいていたのだが、 わざと気を引き付けるための罠かも知れないと警戒していたその音が、入口の外で止んだかと思うと、
「秀。オレだ」
自分の名を呼ぶ低い男の声が鼓膜を震わせたからだ。一瞬、誰だとたじろいだが、 それがたったいま脳裏に思い描いたばかりの男のものだと、少しの間をおいて頭が認識する。
「ゆぅ・・・?」
 想像もしていなかったから、まぬけな声が出てしまった。 外ではばさばさと番傘の水滴をふるって閉じ、外壁に立て掛ける音がする。 襲撃でないと予期させるためわざと物音を立てているように感じた。 そうしておいて、
「居るんだろ、秀?入ぇるぜ」
もう一声かかって戸障子が開かれた。その音に慌てて秀は立ち上がる。
 暗い室内に簪を掴んで仁王立ちしている自分を見ても、 あの涼しい目は驚きもせず無感動に捉えているだけだろう。こちらの行動など先刻承知していると言わんばかりに。 沈黙の気配でそう感じた。
「・・・勇次か?」
「あぁ」
「何の用だ」
 簪を懐に戻しながら前置きなしに訊けば、フッと苦笑交じりのため息が聞こえる。 そのあとに続く言葉を待ち構えていたが、木で鼻を括るような秀の態度をからかういつもの当て擦りは、 今日に限って出てこなかった。かわりに低く艶のある例の声が淡々と来訪の目的を告げる。
「おめぇが今夜ひとりきりらしいから、会いに来たのさ」
「――――」
 秀が拍子抜けしている間に、勇次は無造作に草履を脱ぎ上がりかまちに足を乗せたらしく、 古い床板がきしみ音を立てた。さっきとは違う胸の動悸が高まる。焦りと照れを隠すために慌てて口を挟んだ。
「おい、お民は」
「オレと入れ違いにおふくろたちと帰って来たぜ。芝居がすごく楽しかったんだと。興奮して加代と二人で大はしゃぎさ」
 そのときの様子を思い出したのか、勇次が笑いを含んだ声で付け足す。
「何を観たんだ?」
「さぁ?キツネが姫君に化けてとか何とか言ってたが・・・、口を挟む暇もねぇくらいさ。明日戻ってきたら訊いてみなよ」
 そう言いながらも、「暗いな、灯りはどこだ」と薄闇のなかをうろついている。 良かった。お民は楽しい1日を過ごしているらしい。 はしゃぐ様子を想像して頬を緩めているうちに、火打石の音がした。 閉じた瞼の表面にボウと光を感じたら、灯りを必要としない自分以外の人間がここに居るという実感が湧いた。
「勝手に上がり込みやがって。いきなり何なんだよ・・・」
 云うべき言葉が見つからずぶっきらぼうに口走るが、勇次の気配の向かい側に、結局は自分もドサリと腰を下ろす。 この荒っぽい言動が額面通りの心を示すものではないことなど、すでにこの男にはばれている。 だからこそきっと、いま声に出さないだけでニヤニヤと人が悪そうに笑っていることだろう。 秀は自分がどんな表情をしてるのかと急に恥ずかしくなり、顔をぷいと横に背けた。
 勇次は、無聊を慰めるための円滑剤もしっかり持参して来てくれたらしい。
「まぁまぁ。そう迷惑がるな。見えなくってもこっちの方はイケるだろ?」
 二人のあいだに重たい酒徳利が置かれた。続いて懐を探り包みを取り出す音。 何かつまむものまで調達してきたようだ。こちらの気を引いておいたうえで、勇次は気安く立って流しに湯呑を取りに行った。 トントンと並べて床に置かれた湯呑に酒を満たす旨そうな音がして、秀は無意識に喉を鳴らしてしまう。
「・・・先にそれを言えって。そういうことならつきあってやるよ」
 照れ隠しにへへっと狡そうに笑うと、こういうちゃっかり者だと言う勇次の声も笑っていた。 目の前にいるはずの色男の貌を瞼の裏に再現しようとしたが、目とか口許とか白い頬に落ちた鬢の毛とか、 それぞれ一部分ごとは思い浮かぶのに、なぜか全体の輪郭はぼやけていた。 身近にあれだけ見てきたものなのに・・・。




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