「笹や笹、笹、笹や笹―――――」 売り声を耳にして、勇次は三味線の糸を張り替える手を止め、格子越しに外を見遣った。 あれこれ忙しくしているうちに夏が過ぎ、もう七夕の節句がやって来る。 江戸市中では、七夕(旧暦の八月九日くらい。当時の季節では八〜十月が秋)が近くなると、笹竹売りや短冊売りが町中を売り歩き、 それはこの時節の風物詩となっていた。 お上が定めた五節句のひとつとして、どの家でもかならず飾り立てた笹竹を物干し台や庭、軒先に立てて、 たった一日限りの祭りを盛大に祝う。 おりくに頼まれていた笹竹を買っておこうと腰をあげながら、勇次はふと思い出した。 去年の七夕に、秀と夜空を見上げたことを。 「しばらく江戸を出る」 なにか決めたことを切り出されるのは、大抵こんな夜を過ごした後だ。 勇次はこちらに向けた筋肉質の痩せた背中にちらと目を遣り、傍らの煙草盆を引き寄せた。まだ夜半過ぎ。外で細く風が鳴る。 「いつ?」 「・・・七夕祭の前には」 「行く先は決めてるのか?」 「・・・さぁな」 これもいつもと同じやりとりで、秀が勇次にはっきりした行き先を言った試しなどない。 まあそれは自分たちのような裏稼業を持つ者であればごく当然のことでもある。 江戸を離れる理由はさまざまだ。仕事人狩りの探索に足をつかせないため、 しばらく江戸を離れほとぼりを冷ますこともあれば、 昔の仲間の依頼がきっかけで旅立つこともある。しかし依頼の大半が広い江戸のなかで引きも切らずにあるということは、 仕事を続ける以上いつかはここに舞い戻ることになる。 ただ、そのいつかが永遠に来ない事態も起こりうる。 仕事人が江戸を出るということはそういうことで、つまり今夜珍しく秀のほうから勇次を誘ってきたのは、別れのためだったわけだ。 「どうせなら七夕祭までいたらどうだ」 「・・・なんでだよ」 「いいじゃねぇか。たまには一緒に天の河でも見ようぜ」 秀が肩越しに振り返り、フッと小ばかにしたような溜息をついた。また勇次の酔狂がはじまったと言いたいらしい。 「おめぇまであんなおとぎ話に」 「まあまあ。急ぐ旅でもねぇだろう」 片肘で頬を支えだらしなく煙管を咥えた勇次が、紫煙に目を細めながら低く笑う。つかず離れずの関係を続けるうえで、 次という約束など決して交わさないということは、すでに暗黙の了解だ。 七夕祭。もともとは大昔の中国で、7月7日に女官たちが裁縫や芸事の上達を願う古式ゆかしい行事に由来する。 本来は機織りの名手の織姫にあやかって諸芸の上達を祈る祭りだが、 昨今では七夕の夜、織女と牽牛の伝説にかこつけ、多くの男女が逢引きをするようになった。 そんな流行りに乗ってみたいわけでもないが・・・。 「しょうがねぇな。・・・ま、おめぇと俺とじゃ、年に一度の逢瀬さえ叶うか知れねぇからな・・・」 勇次の心の声が聞こえたかのように、秀がくぐもった声でぽつりと呟いた。 抱いて抱かれる仲になって数年経つ。その無表情の仮面の下に、寂しい心を隠していることは、 ひそかに秀を愛し続けてきた勇次にはよくわかっている。だが秀は勇次にさえもその寂しさをゆだねようとしない。 秀はいまも、どこかでこの関係を信じきれていないのだろう。勇次が男の自分を抱くのは、酔狂のひとつにすぎないと。 なんど逢瀬を重ねても、秀はいっときの激しい情欲の交感にのみ応えるばかりで、心の裡(うち)を見せようとはしない。 目に見えないものを手に入れることは難しい。秀の見えない心。 それが何を感じているのか知ることが出来れば、秀の胸に巣食う孤独をわずかなりと払ってやれるのに。 自分の心も取り出して、秀に見せてやれたらどんなにいいだろう。 互いに見えない心を探り合って、黙り込む。 目の前からいなくなった後で、大切なことを言いそびれたと思うのだ。いつも。 今日七夕祭。江戸の町は無数の笹竹が、わずか一夜のために一斉に物干し台や庭に立てられる。 空を覆わんばかりに揺れる笹の葉の先には、色とりどりの五色の短冊やひょうたんやスイカ、大福帳、 吹き流しなどの飾り物が枝がしなうほどに取り付けられていた。 勇次もおりくと慌てて二人がかりで飾りつけをしたが、そのとき五色の短冊を手にした母から何か勇さんもお書きよと言われた。 「おっかさんは何て書いたんだい?」 見れば無病息災、商売繁盛といった月並みな言葉ばかりが流麗な母の筆で書かれている。おりくが笑って肩をすくめた。 「ふふ。いまさら特別な願い事なんか浮かばないからね」 「オレもこれといってなにもねぇが―――」 言いかけた勇次は、ふと沈黙した。 「?なんだえ、勇さん」 「そういや・・・秀が江戸を出るって言ってたぜ。おりくさんも達者でと」 おりくがちらと息子の白皙の横顔を見上げた。 「・・・そうかい」 「・・・・・」 「勇さん」 「ん?」 「短冊・・・ここに置いておくから、あとで勇さんも書いて飾っておくれ」 おりくが七夕祭には欠かせないそうめんや瓜など供え物の準備のため台所に去ったあと、 勇次は一枚だけ残っていた短冊を手にした。しばし遠くに目をやり、何かを想うように逡巡する。 「―――・・・」 やがて小筆で何事かをさらさらと書き付け、じっとそれに目を当てると、 短冊を笹の一番上のほうに取りつけるのだった。 ふたりは永代橋のうえから、たなびく無数の笹竹の壮観な眺めに見入っていた。澄んだ空の先にはさっきまで富士のお山も見えていた。 日が暮れたとはいえまだまだ暑く、日が落ちたばかりの夜空は明るい。夕涼みがてら大勢の人が連れ立って見物にそぞろ歩く。 「来て良かったろ」 「まぁな」 秀は夕風に無造作な髪を嬲らせながら小さく返事した。あまり目を合わせようとしないのは、感情を押し隠すためか。 明日の朝に発つと秀はさっき勇次に告げたばかりだった。 欄干から落ちそうな格好で、舟遊びに興じる連中を見下ろしている秀の横顔を、勇次は見つめた。短冊を書いたとき思ったのだ。 後悔はしたくないと。 「秀・・・。おめぇに言っておきてぇことがある」 秀が怪訝そうに隣で欄干に凭れた男を見上げる。 「なんでぇ、あらたまって」 「オレは、おめぇが戻ると信じて待つことにするぜ」 秀が目を瞠って勇次を見た。 「・・・。勇―――」 「年に一度の逢瀬でも構わねぇ。だからきっと、オレんとこに戻って来な・・・」 勇次に言える、秀の孤独に寄り添う精一杯の言葉だった。 なぜ秀・・・この孤独な魂を抱く男に強く惹かれるのか。理由は訊かないで欲しい。出来れば秀自身にも。 大切なことには、理由がないのだ。出会いからそうだった。理由は言いようがない。 自分でも分からない想いに身を焼かれるまで、この男に心を吸い寄せられたのだから。 「そうだ、秀」 「・・・ん?」 「どこにいても晴れた夜には空を見上げなよ」 秀がかすかに身じろぎをした。 「オレもそうする・・・」 「・・・あぁ。きっと―――そうする」 もう数日で七夕祭の夜が来る。一夜限りですっぱりとすべてを河川に流してしまう笹竹の、 今年も一番高く目立つところに飾り付けた青色の短冊が、天の神の目に留まるだろうかと勇次は思う。 秀がそのとき、願い通りに自分の元に戻って来ているかはまだ分からない。 それでも、勇次の心は穏やかに晴れていた。 どこにいても晴れた夜には、きっと秀が同じ空を見上げている。七夕の夜に紛れて手と手を握り、最後に見交わした秀の瞳は、 いつになく優しく、静かな情熱を湛えて勇次を映していた。 了
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