私が子供の頃、おっかさんはあんまりうちに帰らない女(ひと)だったのね。 料理屋で働いて、お金はなんとか入れてくれてたから良かったけど。 毎晩のようにお客と出歩いて、まともにうちに帰って来た日はほとんど無かった。 帰って来ても、酔ってせっかく寝た弟たちを無理矢理起こして泣かせちゃったりね。 その頃、短い間だけどおっかさんは、すごく若い男と付き合ってた。 普通の大人の男たちのように髪を結ってもいなくて、切りっぱなしの癖のある黒髪が、額や頬に纏い付いてた。 無口なほうで喋り方も態度もぶっきらぼうだったけど、 なぜかその人は毎晩ちゃんとうちに帰って来て、私たちの面倒を見てくれたの。 私も弟たちも、いまこうして道を踏み外さないで、貧しくてもお天道様に顔向けが出来る暮らしが出来てるのは、 あの頃あの人が側にいてくれたおかげ。 後になって、夜遊びがたたって病になったおっかさんの口から、もうとっくに、あの人とは切れていたと聞いた。 あの人は、別れた女のうちの子供たちが気になって、ああしていつもうちに帰って来てくれていたんだ。 今夜の涼しい風みたい。 どうやって稼いだのか三枚の小判だけを置いていつしか、気まぐれな風に吹かれるように居なくなっていた。 あの背の高い痩せた、黒い大きな瞳が優しかったお兄さん。 笑った時の顔の幼さと低いけど良く通る澄んだ声を、辛いときにはフッと思い出して背筋を伸ばす。 いまどこで、どうしているんだろう。 もしもいつか会えたとしたら。夢の中ででもいい、 「ありがとう。秀さん」 って、おっかさんの分もお礼を言いたい。 秀さんはきれいなまばたきをして照れたように、そして少し淋しそうに笑うんだろう。 了
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