節 分
師走も押し迫ったある晴れた日の午後。 秀がいつものように、お民が通っている順之介"先生"の手習い所の迎えに長屋へ行くと、 「ねぇ秀さん、ちょっとちょっと」 何でも屋が障子戸の隙間から手招きしていた。 「何だよ」 目の前にやって来た秀の擦り切れた半纏の袖を中に引っ張り込むと、 隣接する順之介の部屋を気にしつつ加代は声をひそめて言った。 「あのさ、お民ちゃんのことだけど」 「え?」 養女の名がここで出ると思わなかったので、秀の声は反射的に尖った。 「お民に何かあったのか!?」 急に殺気立って出て行こうとするのを慌てて押しとどめる加代。 「違う違う、そうじゃないって」 「だったらなんだよ?」 「もう、なんですぐそうむきになんのよ!ちょっと気になっただけで・・・」 「だからそれが何なんだって!」 はぁ、やれやれと首を振りながら、加代は唐突に思いもよらぬことを口にした。 「節分よ。もうすぐ節分でしょ」 「・・・。は?」 「お民ちゃん、節分を知らなかったの。あたしそれが気になって」 秀は眉間に皺を刻んだまま、しかし言葉の意味を図りかねて首を捻った。 「それが・・・どうかしたのか?」 「ふぅ。あんたね、あの子六つくらいにはなってると思うけど」 「・・・」 「その歳で節分って何か知らないって、どう思う?え?」 「ど・・・どうって・・・」 話がいまだ見えず拍子抜けしている秀に焦れたのか、加代がぐいと胸元をついて迫った。 「あの子、"豆まき"も知らないって言ったんだよ?ってことは、 いままで周りの大人にそういうのを教えて貰えてなかったってことだよ、ね?」 ようやく秀にも言わんとすることがおぼろに分かってきた。 お民を引き取った経緯については何も訊いてこない加代も、 日頃接する機会が増えるほどに、お民の育った環境を憶測してしまうのは仕方ない。 しかし秀でさえも、詳しい背景は知らないのだ。 ・・・あの夜、仕事の的が子どもと寝ていたのは誤算中の誤算だった。血も涙もないはずの男がなぜ。 てておやの傍らでぐっすり寝入っている幼い娘を、どうしても始末出来ずに連れだした。一晩で二重の大罪を犯した。 悪夢のような記憶を無理やり遮断すると、つとめて平静に訊ねた。 「・・・どこからそんな話になったんだ?」 「別に。もうすぐお正月だねーとか、近所の子らといつもどおり話してて、誰かが節分の豆まきがーとか言い出したら、 ずっときょとんとしてるからおかしいなと思って、後で訊いてみたの」 さすがは加代というべきか。想像すらしなかったところを突かれて、秀はしばし呆然としてしまう。 これまで、お民に過去を思い出させるような話題には一切触れずにいた。 旅の話でさえ禁忌だと秀自身が固く封じてきた。 お民と交わされる会話は、現在の生活に関することのみでほぼ成り立っていた。 ふだんのお民がそう口数の多い子どもではないのも、秀にとっては好都合だった。 「お民はなんて?」 余計なことを訊きやがってと、本来なら女といえど容赦なく締め上げるところだ。 だが怒りよりも、周囲の会話についていけずにその場にいたお民の様子が気になった。 加代もそこが不憫に思えたのだろう。 「知らない、よく分からないって。何も気にしてなかった・・・不思議そうに笑ってたよ、あの子」 「それで・・・。俺にそんな話を聞かせてどうしろって?」 責められるのかと身構えながら低い声を出すと、加代は意外にもヘラッと相好を崩して明るく言った。 「やーね、そんな恐い声出さなくても、あの子に節分を教えてやったらいいじゃないのさ」 今度は秀がきょとんとする番だった。 「節分を教える?・・・俺が?」 「あったりまえでしょーが。あんたが養ってんだから、そーゆうことを教える義務ってもんがあんのよ、分かる?」 「・・・」 言われてみればその通りかも知れない。育ての責任というやつだ。しかし。 そもそも秀自身が、世の習いとされるしきたりや行事、祝い事うんぬんから一切の距離を置いてきた。 運や縁起を担いで何か不確定なものに守ってもらうという考えが、肌に合わなかった。 頼れるものは己のみと思って生きている方が期待するよりもまだいい。 「それにさ、子どもってアレ好きなのよね〜」 秀の沈黙の意味を知る由もない加代が、何か投げるふりをしながら楽し気に言う。 「アレ?」 「鬼は外〜、福は内〜ってやつよ。あたしも親父さんが鬼の役を張りきってさぁ。幸せだったなぁあの頃は・・・」 聞いたことない過去を振り返りひとり感傷にふけり出した加代は放っておくとして、 秀は何もして来なかったことに若干焦りを感じ始めた。 加代のような家族の思い出を持たない自分には、四季折々の年中行事も蚊帳の外というくらいの認識だった。 すでに大人になった自分がこの先も『興味ない』で済ませたって何も困りはしない。 だがこれから育ってゆく子どもはそれでいいのか。 加代が懸念したように、この先淋しい思いをするのはお民だ。 今までの考え方を変えることがお民のためになるのならば、変わらねばならない。 「分かった。やるよ」 加代を安心させるようきっぱりと答えておいて、その日は何も聞いてないふりでお民を連れて帰った。 翌日大急ぎで対策に走った。こういう時、頼れる先はひとつだけだ。 すっかり霜枯れた葦の茂みに隠れるように建つ漁師小屋には、春の終わりの頃に移り住んだ。 しばらく使われておらず相当荒れ果てていたのを、壊れていた箇所の修理や水場の整備など少しずつ手を入れてゆき、 いまではささやかながら家らしい構えに落ち着いている。 大晦日の前の日の朝。外からの冷気にお民が目を覚ますと、 戸口を開け放した土間で秀が不思議なものを作っているところだった。 焼いた鰯の頭を串に挿したものと、濃い緑色して鋭いギザギザの葉を茂らせた柊の枝を、 束ねて固く巻いた藁の棒に何本も突き刺しているのだ。 「おはよう。何をしてるの?」 起きてきて寝ぼけ眼で問うが、今度は外に出て戸口の横の柱に釘を打ち始める秀。 興味津々見ていると、その釘に例の不思議なものを引っ掛けて、うんとひとり頷いた。 「よし、こんなもんか」 「ねぇお兄ちゃん、これなぁに?」 じれったくなって半纏を引っ張ると、振り返った兄はちょっと得意そうに答えた。 「節分の魔除けだよ。こいつを戸口にかざると、災難や悪い病が中に入って来ねぇんだとさ」 「せつぶん?・・・あ」 最初の言葉でピンときたように瞬きをする。 初めてふたりで迎える正月を前にして、嘘の口実で説得し江戸に連れて来たこの娘が、 生まれてわずか五、六年の人生のなかでどんな暮らしを送ってきたか。加代の言ったとおり、 自分はこの子のことを何も知らない。 「聞いたことあるか?」 「うん。こないだみんなが言ってた。あと"豆まき"も」 無邪気にニコニコと答える。秀は少女の目の高さにまで腰を落とし、ゆっくりと説明した。 「そうか。えーと節分ってのは、新しい年が来る前にする年越しの行事なんだ。 こういう魔除けを立てたり豆まきしたりするのは、 悪さをする鬼をうちから追い出して福の神を呼びこむためなんだ。・・・分かるか?」 お民はこくんと頷いた。 三味線屋で教わった受け売りをそのままお民に伝えたが、 はじめて魔除けのかざりを自作してみて口にすると、自分の言葉にもちょっぴり説得力を感じる。 「夕方から勇次が来るって。そしたらみんなで豆まきしような、お民」 きらきらと瞳を輝かせるお民に笑いかけながら、これで良かったと秀は思った。 厄を払い災いを除いて新春を迎える節目として、一年を締めくくる年中行事。 せめてお民の厄だけでも払い落せるものならば、すべての災いはこの身に残ってもかまわない。 「あー!おじちゃあん!」 雪をかぶった灌木のあいだに長身の黒い人影を見つけたお民は、声を上げて飛び上がった。 外の七輪で大豆を炒っていた秀も、歓声を耳にして顔をあげた。勇次がお民にひらひら手を振っている。 節分の準備のことを三味線屋に訊ねに行った時点で、「豆まきしようぜ」と先を越されて言われたのを思い出し、 思わず口元がほころんだ。 理由も告げず自分が勝手に始めた子育てを、仲間たちが黙って遠巻きに見守っていることは、 余計に関わって来ない彼らの態度からして秀にも伝わっていた。今回の加代の助言は踏み込みすぎな程だが、 おかげでお民は初めての節句を迎えることが出来た。簪のひとつも作ってやっていいかも知れない。 一度は皆の前で仕事人を抜けると宣言していながら、結局は両立して続けている。 危なっかしいことこの上ないが、しかし今のところ慎重派の八丁堀も何も言って来ない。 だからこそ八丁堀に隠れて子育ての相談をしに来るようになったことを、 母のおりくが「良いことじゃないか」と言って秀の変化を喜んでいると、少し前に勇次から聞かされたばかりだ。 「早いな」 秀が言うと、長外套の腰にお民をしがみつかせたままで勇次が笑った。 「早く行けってさ」 片手に掲げてみせた風呂敷包みの中身が、ご馳走を詰めたお重であるのは一目瞭然だ。 「いつも貰うばっかりで悪いな。もう気持ちだけで充分だからおりくさんに伝えてくれ」 「おふくろの愉しみを奪ってくれるなよ。人に食べさせたいひとだからな」 「私、おりくおばちゃんの卵焼き大好き!」 お民がおませに口を挟む。勇次が来るとお民はふだんより明るくおしゃべりになるのだ。 「沢山入ってるぞ。餅もあるから楽しみにしてな」 「ほんと!うん!」 「その前に豆まきしよう、お民」 勇次は本当に引き込むのがうまい。普通に話しているだけでもなにか浮き立つ雰囲気になる。 実を言うと、お民とふたりきりでいることに少し苦しさを感じていた。勇次が来てくれたことは、 いまの秀には心からの救いだった。 とりあえず寝食の不自由はさせないと誓って、以前にも増して錺職に精を出しているつもりだが、 養育とはそれだけを意味するものではないことを、身に染みて感じてきたこの頃だ。 お民とていつもいい子でいられない。時にわがままを言ったり大したこともないのに拗ねて返事もしなかったり。 そういう時にどう接したらいいのか、小さいとはいえ異性の女の子の扱いには気を遣う。 そしてこんな時、血の繋がった親にならば素直に心を開いただろうにと無意識に考えて、 次の瞬間にはその幸せをお民から永久に奪い去ったのは他ならぬ自分である、という事実に打ちのめされる。 ふたりで暮らし始めて楽しい時間も増えたが、この小さな存在をかけがえないものと思えば思うほどに、 隠した真実の陰惨さはより深く秀の心に切り刻まれる。毎日はその繰り返しだ。 (自分で人さらいまがいに連れ去っておきながら・・・) 胸の苦汁を飲み下し、秀は場の空気に乗り遅れまいと明るく声を張った。 「よぉし。俺が鬼だ」 続
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