秋の蝉







「ご隠居。ここでいいですか?」
 大きな土蔵から引き出してきた火鉢を抱えて、縁側から秀が大きな声を掛けると、 奥の座敷から顔を出した老人が、にこやかに頷いた。
「ああ、ああ、そこにお願いします。・・・助かります・・・秀さん」
 秀は片頬に笑みを浮かべると、いくつかの火鉢を部屋に設置する。屋敷にはまだいくつのもの部屋があるが、 主要な居室は二間続きの寝間とこの客間のみ。
 初秋の柔かな陽を受けて惜しみなく身を動かし、手際よく頼まれごとをこなしてゆく半纏姿を、 老いた夫婦は部屋のなかからひっそりと見守っている。


 障子を開け放した縁側には、一仕事終えた錺職人と先ほどの老人とが茶を飲んでいる。 その少し下がったところに、やはり品の好い年老いた婦人が正座して、にこにこと二人を眺めていた。
「ほんとに秀さんのおかげで、今年も冬が迎えられますよ」
 もう同じことを何度繰り返したか分からない。 しかし秀は深々と頭を下げる老人とその妻君とに、慌てて片手を振って同じ返事を繰り返した。
「いや、もうほんとに礼には及びません。力仕事や雑用くらいしか俺にゃ出来ねぇから」
「忙しいのに、毎年私らのために立ち寄ってくれるような親切な庭師さんは、秀さんしかおりませんよ・・・」
「・・・」
 自分で言っておきながら、秀が曖昧な笑みを浮かべているところを見た隠居が、「あぁ」とまた喉から声を絞り出す。
「これはしたり。秀さんは・・・そうでしたな。錺職の方でした」
「・・・えぇ、まあ」
 間違いを訂正されて、こちらが遠慮することは何もないのだが、どこか悲し気に白い眉尻を下げて謝る老人に、 なぜか自分のほうが申し訳ない気になる。
「ご隠居さんには、ずいぶんお孫さまの為に、俺の簪や細工物を買っていただきやした。 駆け出しのころからずっと・・・その御恩は忘れていません」
 あらためて頭を下げて言った言葉に嘘はなかった。
 この夫婦がまだ現役で大店を取り仕切っていた最後の頃、 錺職人として駆け出しの秀は、身の程知らずにも自分の簪を売り込みに出向いたことがあった。 早く金に変えなければ仕事として認められたことにならねぇと焦っていた気持ちもある。
 手練れの番頭たちに一瞥のもとに鼻であしらわれたが、ムッとした顔で広げた簪の包みを掻き寄せた秀のあまりの若さに、 主人が目を留めて声を掛けたのだった。
「"あんたの細工はたしかにまだ拙いが、筋の良さが見て取れる。だから腐らずまた見せに来なさい"と。 あんとき言って頂いたおかげさまで、俺は何とかやって来られやした」
 普段はここまで多弁に自分の話をすることはない秀だ。しかしこの老夫婦の、 見た目は大きいが訪ねてくる客もいない屋敷に来ると、 自分がこの淋しい家を少しでも明るくしてやりたくて、何でもいいからお喋りをすることにしている。 ことに昔の華やかなりし時代の話は、懐かしそうに二人とも目を細めて耳を傾けてくれるので、 秀は自身の経験を引き合いに出して、彼らに礼を言ったのだ。
「・・・あぁ。そんなことも――――あったのかねぇ」
「へい。ですからこんな手伝い、何てことねぇんで。他にも何かご用があれば言ってください」
 それには何も応えず、老人は目の前の秀を通り越して軒の先に潤んだ視線を向けた。 まるでそこに、過去の日々が映し出されているように。掌にのせた湯呑の手が細かく震えている。
 手入れのあまりされていない庭の端に、土蔵の壁が白く光っている。冬支度のために荷出しを終えた後の蔵を、 しばらく開けて風を通すあいだ、こうして秀は一年一度の老夫婦との世間話をして半日ほども一緒に過ごす。 この習慣は、何年も前から続いていた。
 もっとも、秀が江戸を離れているときもあったが、戻ってくると秀は屋敷の様子を伺い、 まだ夫婦が健在と知ると何食わぬ顔で訪ねてゆくのだった。
 もともと大店の分家にあたる店の主だった。息子に代を譲ったあとに本家との仲たがいをし、 それを機に独立した営業を続けてはいたものの、しだいに商売は傾いた。 いまでは古参の番頭とどうにかやっていける程度の規模にまで身代は落ちぶれている。
 しかし全盛期を作った隠居夫婦には、元武家屋敷を手直しした広い屋敷を与えて世話をやく通い女中を雇い入れてはいた。 だが、親戚はおろか息子や孫たちも日々にかまけて足を向けなくなり、夫婦ふたりの寂しい暮らしになってから、久しい。 あれだけ簪だの着物だのと好きなものを与えられて悦んでいた孫娘たちも、嫁いだ後には顧みることもなくなっている。 秀にしてみれば、信じられない不人情さだ。
 そんな身内に不満を言うわけでも誰かを呼び寄せるわけでもないこの老夫婦は、 自らの境遇を静かに受け入れて毎日を送っている様子だ。しかもそれはここ数年、隠居の物忘れが酷くなり、 足の不自由になった老妻の背中が猫のように真ん丸くなってしまうまで、変わらず続いていたのだった。


  「―――――」
 ふと降りた沈黙に、秀は一瞬、ここに三人で居ることも分からなくなる。 この、静かな微笑みをたたえた老夫婦は、まるで生きた菩薩か観音のようだ。
 神仏など信じてもいない秀だが、 淋しいとはいえこんなに穏やかな晩年を過ごすことが出来たのは、 この二人がそれに見合うだけの功徳を積んだからだろうと密かに考えていた。 裏の仕事からすでに足抜けする気もなくなった自分とは、生きてきた道も違えば、 その心根の真正直さからして天と地ほどに違うのだと。
 しかし不思議と、それを羨み己の身を呪う気にはならない。秀はただ、一年一度でも自分がここに会いに来て、 老人の手では難しいちょっとした季節の雑用などを、通い女中の代わりにこなしたり話相手になることで、 少しでも心慰められたらと願っているだけだった。
 いつ来てもひっそりと身を寄せ合うように座り、時おり目を合わせて微笑むだけで意思を通じ合わせている。 そんな二人が長く一緒に生きている姿は、己には夢見ることも叶わないひとつの憧れにも映っていた。


「おじいさん。あれ・・・」
 あまりの穏やかな時間の流れに、ふと物思いに沈みかけた秀の意識を、婦人の小さな声が遮った。 顔を上げて見れば、縁側より内側の畳に背を丸めてちんまりと座っていた老妻が、夫である隠居の背に呼びかけていた。
 老人は返事をするわけでもなく、ただぼんやりと空(くう)に視線を放ったままだ。 秀はちょっと困りつつ、代わりに婦人のほうを振り向いた。膝の上にきちんと揃って乗せていた右手をそろそろと上げると、 まっすぐには伸びない人差し指が、どこかを指さした。
「あれ・・・、あそこに、蝉が―――」
 指さす方向に秀が目を向けると、それは戸を開け放したままの蔵の方角だった。 一瞬なんのことを言っているのかと訝り老女と蔵を見比べたが、彼女はじっとそのまま何かを見つめて動かない。
 自分もあらためてよく蔵をみて、気が付いた。蝉が―――と口にしたと思ったが、 よく見れば白壁の上のほうに何かがへばりついている。たしかにそれは蝉だった。二匹の、蝉。
 目の薄くなっているはずの老女によくも見えたな、と失礼なことをふと思い、慌てて内心で謝る秀だ。 しかし西日を受けて照り映える真っ白な壁に張り付いたその二つの黒点は、 たしかにのっぺりとした平面のなかで妙な存在感をもって、浮き上がって見えた。 黒い胴体に薄青い大きな羽がある。二匹の蝉はわずか拳一つ分ほど離れただけで、そこからピクリとも動かず静止している。
「や・・・、ほんとだ。いつ飛んで来たんだろう。ちっとも気づきませんでしたよ」
 隠居の気を引こうと、秀は代わりに大声で相槌を打った。耳の遠い隠居も、薄くなり髷を結うのもやっとの白髪頭をちらと動かして、 秀の指さす方に目をやった。
「あぁ」
 ふいに隣の隠居が声を上げたので驚いた。顔を見ると、老人は何かに激しく胸打たれた様子でじっと蝉を見つめている。 そしてゆっくりした口調で呟いた。
「そろそろかなぁ」
 何がそろそろなんだ?秀はきょとんとして、その皺だらけの横顔を見守るばかりだ。 夏はとっくに過ぎてしまったというのに、どこからか現れた蝉の姿はいかにも場違いな印象を与える。 庭には大木も植わっているが、幹に取りつかず白壁にとまり、ただ陽ざしを浴びて鳴きもせずにじっとしている。 ずいぶん弱っているんだろうか。
 蝉という虫が不可思議な一生を送ることは、本草学に詳しい学者崩れの浪人からの受け売りで、漠然と知っている。 幼虫時からずっと地中で育ち、夏前に土の中から這い出てきて、木や大きな葉などにしがみつくと脱皮する。 羽のある成虫の姿になってからは、わずか十日も生きずに命を終えるのだそうだ。 ちなみにあの喧しく鳴きたてるのは、雄の方らしい。
 いったいなんの為に生まれてくるのか、とその説明を聞いたときに思った。 その問いに対して、学者崩れの男は一言『子孫を残すためだ』と答えた。その時はそうかと一応納得したものの、 こうして季節外れの蝉を目の当たりにしてみると、説明のつかない哀しさがふと秀の胸をよぎった。
 真暗の土のなかで育ち、やっと外界の陽光を浴びたと思えば雌を求めて鳴き続け、 そして生殖の目的を果たしたのちには子を見ることもなく、ただ死ぬ。そういえば長屋の子にせがまれて蝉を捕ってやった時、 生きた蝉の挟んだ指のあいだで細かく羽を動かす力は強く、小さな胴体の内側に詰まった命の脈がじかに伝わってきた。
 だが数日後、あっけなく死んでしまったと蝉を見せに来たとき、掌に乗せた蝉は重さなど微塵も感じられない、 ただの虚ろな骸になっていたのだ。
『案ずるな。虫は意思をもたん。ただ本能でそうしているだけだ。お前は感傷的なやつだな、秀』
 笑われてムッとして、それきり口にすることはなかった疑問が、いまこうして、雌雄すら不明の二匹の蝉に向けられている。 十日間の命の蝉にとっての一日が、自分たち人間にとっての一日と同じだと、とても思えない・・・。
 秀も老妻も何も答えないでいるうちに、もう一度、老人がしみじみと言った。
「そろそろかなぁ。―――ばあさんや」
 思わず婦人を見かえると、指さした手を下ろしていた彼の妻は、今度はその呼びかけに鈴の鳴るように答えた。
「もうそろそろですねぇ」
 秀には二人がなんの事を話しているのか、皆目分からなかった。 が、「そろそろかなぁ」「もうそろそろですねぇ」という完全に呼吸(いき)の合ったやりとりが、 まるで木霊のように、屋敷を辞したあとも長く秀の耳の奥底と胸深くに沈み込んでいた。



 それから半月ほども経たぬ頃。
 秀がちょっとした手土産を持ってふたたび隠居夫婦の元を訪ねてみると、 表戸は板が打ち付けられ開かなくなっているのに驚いた。
 慌てて裏に回る。勝手口の木戸は普通に開いていたが、台所の土間から声を掛けて出て来たのは、通いの女中だけだった。
「ご隠居さま方なら、もういませんよ」
 働き者だと隠居たちは誉めていたが、元からあまり愛想のよくないその中年女は、秀の顔を見るなり一言言った。 まるでそれ以上は何も言う事ないと言わんばかりだ。切って捨てるような物言いに、それが通いとはいえ仕えてきた者の態度かと、 秀はムッとして詰め寄った。
「もういない?どういうことだよ?ふたりとも居ないのか?どっかに引っ越したのか!?」
「だから、いなくなったんですよ!ふたりして」
 押し返すように声を荒げた女の目に、スッと自然に湧き出た涙に気付いてハッとした時には、女は泣き出していた。
「旦那さまと奥さま―――。こっ…こないだのお月見の次の日の晩に、私が帰ったあとで・・・ここを脱け出していたんです」
「ど――、どういうことだよ・・・」
「知る・・・知るもんですか私が・・・!次の日の朝早く、私が来たときには表戸が開いたまんまになってて・・・」
 しゃくりあげる女から何とか聞きだしたその後の夫婦の足取りは、愕然とするものだった。 足もおぼつかない老人が、互いに手と手を取り合い向かったのは、川のほとりだったのだ。
「おふたりは紐とか帯とかで身を繋いでいたわけでもないのに―――、 見つかったときには不思議なことに、仲良く寄り添うように打ち上げられていたそうなんですよ」
 事件を知り、駆け付けてきた身内たちが大騒ぎして家内を探し回ったが、遺書や書き置きのたぐいは一切見つからなかったそうだ。 ただ、身体も頭もおぼつかなくなっていた老夫婦が己の老いを憂うるあまり、 衝動的に手に手をとっての入水を選んでしまった―――。
 町方への身内からの説明も、また取りあえずは聴き取りをした町方同心の下した結論も、 自死の理由としてはそれ以外に考えられず、隠居夫婦の死は生前と同じくひっそりと忘れ去られることとなった。



 秀はいま、彼らの菩提寺を訪れ墓の前に手を合わせている。 すぐ後ろには、来る途中で誘った三味線屋の姿もあった。 生前、一度だけだったが、秀の依頼で勇次は屋敷で小唄を披露したことがある。
「・・・ご隠居さんの言ってた"そろそろかなぁ"ってのは、時を図ってたって事じゃねぇのか・・・」
「・・・」
 勇次の言葉を背中で聞き、秀は口の中でため息を噛み殺すと、再度深く頭を下げた。 自分も道すがらその事を考えていたのだ。そしてその意志を、前々から夫婦で語り合っていたのかもしれない。
『そろそろかなぁ、―――ばあさんや』
『もうそろそろですねぇ』
 木霊のようなやりとりを思い返すたびに、 あの場所にいてふたりの静かな覚悟を肌で感じていた筈の自分こそが、何か言うべきではなかったのか、と慙愧の念が湧いてくる。
 しかし勇次にだけはそのことを漏らしたとき、
「いや。それがふたりの望みだったんだろう」
淡々と答えた。秀の感傷を慰めるためのような言い方ではなく。
「長年連れ添っても、いずれどっちかが先に逝く。逝くのも辛いが・・・残すのも辛い。 それよりもずっと一緒にいられるようにと――互いに願ったのかもしれねぇ」

 役目を果たして儚く散る時期を逃した二匹の蝉の姿を見て、老いた夫婦の胸に去来したもの。 本当の理由は二人にしか分からない。その選択の幸不幸は、誰にも何も決めつけられない。
 分かっていることが一つだけある。自分たちは彼らのような道を選べはしない。 ただ、こうしてふたり肩を並べて歩いているたった今のこの瞬間に、命を燃やす以外には。
「・・・どっちなんだろうな」
 秀が目を向けると、切れ長の瞳がやはりこちらを捉えていた。しばらく無言で見つめ合う。
「・・・何が?」
 世に飛び出して十日たらずの命しかない蝉にとっては、昨日すらはるか遠い。 老夫婦の残された穏やかな日々と、蝉たちの烈しく短い生は、どちらが永いのだろう。




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