聖なる夜に口笛ふいて 3
オレにあてがわれた二階の小部屋からは、ちょうど窓の下に狭い中庭が見下ろせた。 建物の北西側に位置するそこは、通りの裏側にあたる。 隣家の屋敷のうっそうと茂る背の高い庭木に圧されて日当たりも良いとは言えないが、 一応庭らしく雨ざらしの鉄製のベンチがひとつ置いてあった。 それを見下ろすほぼ庭の真ん中に、外国の庭園にでもあるような大理石の足の附いた水盤が設置されている。 水盤の中央にはせり上がる波のような模様の刻まれた石のうえで、一体の天使の像が天を仰ぐポーズで立っていた。 今まで居なかった子供がある日突然、窓から顔を覗かせたのだから、 天使もアレ?と思ったんじゃないか。日ごろ使われている様子はないのに、小さな机とベッドと本棚だけがあり、 整然と掃除されたその部屋にひとり残されたオレは、とりあえずの居場所を得られた安心からか、 かえって今まで抑え込んでいた心細さが一気にこみ上げてくるのを感じた。 耐えがたくて部屋で一か所しかない窓に駆け寄り、深緑色のカーテンを開けた。 そのとき夕暮れの風景のなかで、同じようにひとりでポツンと立っている天使を見たのだ。 以来窓から中庭を見れば、いつだってその天使と目が合うことになった。 天使の目はもちろん目玉のない白抜きだ。それでも両手を自分の小さな体に巻き付け腰を捩じらせ、 何かを求めるように天を仰ぐそいつの大きな虚空の瞳が、まっすぐにこっちを捉えてるようにも見える。 さらによく見れば、左の頬のあたりに星みたいな痣が点々と付いていた。 鳥の糞とか何かのシミがたまたま落ちなくなったのか。偶然だとしても、その丸みのある頬についたシミは、 星屑か涙の粒を天使が散らしているように、しっくりとその可愛い貌に馴染んでいた。 最初、オレはほんの数日のつもりでここに居た。 オレの前に立った時からニコリともせず、小さな子供に対する態度にしては冷たすぎるとも言える口調で、 静かに話しかけてきたシスターが、今日はここで休みなさいと部屋に案内してくれた時にも、そう信じていた。 ママが・・・明日になったら迎えに来る。明日が無理でも、きっとあさってか、その次の日にはきっと。 それが一週間になり十日になり、三か月になり半年を過ぎ・・・。 あいかわらず天使と顔を見合わせるのが習慣になっていたが、オレは一度も中庭に出てみようとはしなかった。 この敷地内でまだ行ったことのない場所を持つことで、 あくまでもいまが仮住まいに過ぎない、と自分自身に信じ込ませたかったせいもある。 だいたい、あの場所に行ってベンチに座り天使を見上げてみたところで、 置かれている状況に変わりはない。むしろオレがここに囚われていることを知っていながら、 罪のない無垢な貌でそこに立って見上げてるだけの天使の像に、ちょっとした憎らしささえ感じた。 生んだ母親から置き去りにされ、明日はひょっとしてシスターからも見放されて、 突然ここを出て行きなさいと言われるかもしれない。 内心びくびくしながらその日その日を何とか過ごしているこの状況に、 良い意味での変化が起きるなんてことはありえない。こいつみたいに、ただの石の像だったら、 不安だったり悲しかったり寒さに震えたり腹が減ったりすることもない。 何も困らないから、そんな綺麗な顔して澄ましていられるんだ。 仮住まいのままの暮らしは数年にも及び、教会から小学校へと通った。 クラスメイトに知られるのがイヤで、オレは普通の家の子供のふりして嘘を吐いた。 学校ではガキ大将のように振る舞いながら、放課後は誰とも一緒に下校せず、遊びにも行かなかった。 すでに待ちくたびれ待つことそのものを放棄し、 まさかの奇跡を信じることも何かに期待することも、もうしなかった。いや、しないと心に決めた。 すべてに諦めをもってしまえば、シスター同様に何があっても平静でいられる。 実際には誰にも言えない理不尽なことへの怒りや抱え込んだ孤独が行き場を失くして、 どこかにぶつけなければ苦しくて堪らなかった。 天使はその当時、オレ自身の心の鏡の役割を果たしていたのだ。 こんなオレのことをシスターよりも誰よりも知ってるだろう天使を、捌け口にすることにした。 オレはもう窓辺に近づくことをやめた。窓を、カーテンを開けても庭を覗いてみることもしなくなった。 命を持たないただの石の像相手に冷たくするなんて、後から思い出してもつくづく滑稽だし馬鹿げてる。 でもその頃のオレにはそうするより他にすべはなく、日々をやり過ごしてゆくための救いをそこに見つけていた。 天使のことを意識して無視するうち、なかば本当に忘れかけていた十歳の年のクリスマス・イブの夜、 初めて足を踏み入れた中庭で、オレはあいつと出逢った。 「・・・何年ぶりかしらね」 ミサが終わり、参列した信者たちを戸口に立ってひとりひとり見送った後。 静かに閉じたドアを背にして振り返ったばばあは、独り言みたいに呟いた。 ほとんど音を立てずに、一番後ろの席に並んで座っていたオレたちふたりの脇にやって来ると、 最初にヒデに目を向け、そしてオレを見て口にした。 「おかえりなさい、きよしさん」 「・・・きよしさん?」 思った通りヒデが不思議そうな声を出し、ムッとしたオレの顔とばばあとを交互に見た。 「アニキってホントはきよしさんって・・・」 「うるせぇな。オレはいま勇次っていうんだよ。何べん言わせりゃ分かるんだ、このクソばばあ」 苦しい息を抑えつけてオレが唸るように遮るが、ヒデはオレの秘密を偶然に知って嬉しいらしい。 「ダメだよ、クソばばあなんて言ったら。ね、おばさん?」 ニコッと笑ってばばあを見上げて首を傾げた。そんな大きな子供みたいなヒデを、 ばばあも一瞬怪訝そうに見返すが、 「そうですね。いまはどんな名前を名乗っていようと、ここに帰れば私はきよしさんと呼びますよ」 相変わらずの口調でふたりに対して返事をした。 まったく。オレが中学に入ってからだんだんと不良仲間と付き合うようになり、 シスターと呼ばずにばばあと言い始めてからも、 オレの呼び方と子供に対しても丁寧な言葉を遣うところは一貫して変らなかった。 始めっから、オレにはどうあっても適わない相手だ。 「・・・勝手にしろよ」 ぶすっと呟いたオレをかえり見て、ヒデがホントに珍しいと目を丸くしている。 そりゃそうだ。オレのほうが引くしかない相手なんて、このばばあをおいて他、ほぼ存在しない。 あとは、こいつ。自分ではちっとも分かってないみたいだが。 「・・・?この方はどなたです」 ばばあが尋ねた。オレはコートの立てた襟に口元を埋めたまま、小さく頷く。 妙に寒くなってきた。 全身黒ずくめだから、染みている血が薄暗い照明のなかでばばあの目に留まる可能性は少ないが、 体はそろそろ限界を越えつつある。 震えをどうにか抑え込み、オレはヒデに持たせていた書類ケースをばばあに渡すよう命じた。 「・・・その前に・・・あんたに渡すものがある・・・」 「・・・」 目に疑問符を浮かべてオレの顔から手元に渡ったケースを見下ろしたばばあは、 眉根をやや寄せたまま口を真横に引き結んで厳しい顔をしていた。 何かを察したのか中身を開けて見てみようとしない。何となくそれが想像どおりと言おうか、 ばばあとオレの以心伝心を目の当たりにしたようで、オレは意識せず笑みを浮かべていた。 「いい。いま見なくても、いいぜ。中身はあんたが考えてる通りだ」 「きよ・・」 ハッと顔を上げて言いかける声を、首を一度大きく横に振って制する。ばばあがオレの気迫に圧されたのか、 珍しく黙った。 「心配するんじゃねぇよ・・・。オレが自分の手で稼いで貯めた、まっとうな金だから」 まっとうな、という点では正直後ろ暗い。オレが手にするまで、裏社会を渡り歩いてきた金だから。 が、そこはどうしようもない代えられない事実としても、手段としては奪い取って得たものじゃない。 組に入っても若頭なんかを目指せるタマでもなく、 見てくれの良さと状況を見切る素早さと喧嘩の腕だけでなんとか生き残ってきた。 そんなオレが出来たのは、運び屋やってこつこつ金をため込むことと、 もう一つ、この土地の現地主の元を定期的に訪ねて行っては、 シスターに家を遺した家主は裏社会の人間だったと吹き込んだこと。 お宅のご先祖さんには告げないままだったが、教会を失くさせるような事が起きればどんな手を使ってもやめさせるようにと。 自分がさもその筋から頼まれたようにやんわりと圧力をかけ続け、 普通のかたぎである地主を信じ込ませた。 結果、三年前に提示された土地代はびた一文上げないという誓願書まで書かせた上に、 この事は他言無用、一言でも外に漏らせば・・・とそのときばかりは暴力に訴え脅さないわけにはいかなかった。 ばばあにはとても聞かせるわけにはいかない裏事情だが・・・。 まぁ、おかげで地主は口を噤んだままでいるだろう。 オレに知れたら最後、殺られると思い込んでるわけだから。 あとは・・・。すでに依頼しておいた法律事務所から、そのうち教会に人が来ることになっている。 そいつにケースごと渡して任せておけばいい。教会は土地ごと、ばばあに遺される。 オレが来年、イブに顔を見せなくても。 しばらくの間、誰も何も言わなかった。ばばあはオレの言葉を深く考え込んでいる様子だったし、 ヒデもただオレに寄り添い、コートの腕に頬を寄せてジッと目を見開いていた。 ヒデがオレに寄りかかることで自分の体重をのせ、 一瞬でも気を抜けば崩れ落ちそうなオレの体が倒れないようにしてるのだと、 少し後で気づいた。オレはヒデのほうに体をもたせ掛ける。 それだけで限界と思ったはずの体からまた力が湧き出てきた。 こいつが愛おしい、と腹の底から唐突にこみ上げた、激しい叫びにも嘆きにも似た感情に突き上げられた。 オレは今の今までただの一度だって、それをオレ自身にさえ認めてやったことはなかったが。 この三年もの間、全身でオレへの想いを露わにし、 片時も離れずこうして寄り添ってきた相手に、大切だとも言わず。 ましてや優しく抱いてやることもなく。 もうそれをしてやることは無理だとしても、まだぎりぎり何とか、オレにも出来ることがある。 「・・・これはとりあえず預かっておきます」 「・・・そりゃあ良かった・・・。来た甲斐があったぜ」 浅く息を吐きながらオレが笑いに誤魔化すと、ばばあは何か危ぶむようにオレをジッと見据えながら言った。 「このために・・・。このためだけに帰ってきたのですか、きよしさん・・・?」 その声には、いつにない微かな震えと感情の昂ぶりが含まれていた。 「・・・いや、それだけじゃねぇ。・・・あんたに、オレのほうも頼みがあって・・・帰って・・来たんだ」 帰って来たという言葉を初めてオレの口から聞いて、 聡いばばあの方でも、これが最後の別れではないのかと感じたようだった。 「頼み・・・?何ですかそれは?」 声に湿り気を出さないように努めながら、 低く訊ねたばばあの顔をまっすぐに見上げてオレは唯一つの願いを口にした。 「こいつ・・・。ヒデ、を・・・あんたに預けたい」 分館topに戻る
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