聖なる夜に口笛ふいて 2
『ここでちょっと待っててくれる?』 あの女はそう言ってオレの頭と頬をさも愛しそうな手つきで撫でた。 『ママ、今から会いに行かなきゃいけない人がいるの。だから・・・ここでしばらくひとりで座っててね』 そこは三段しかない石の階段で、それが付いているのは幼い子供の目から見てもみすぼらしくすすけた、 とある教会の入口だった。オレと女は近くのアパートに住んでいて、 普段からその教会の前を行き来してはいたが、実際に建物の前に立ち止まるのは初めてだった。 『どれくらい・・・ママ?』 オレはにわかに不安を感じ、保育園で覚えた他の子どもたちの真似をして甘えた声で尋ねた。 この女が、二人暮らしの生活のなかでこんなにオレに優しく接することなど滅多にない。 だからその猫なで声は、かえって不自然な気まずさを醸し出していたのだ。 女はオレの疑問にハッと胸を突かれたように沈黙した後で、やけに低い声でゆっくりと答えた。 『・・・そうねぇ。一時間くらい・・・かな。 ママもはっきりとは約束出来ないけど。・・・でも、きよしなら、良い子にしていられるわよね?』 レンタカーをさっきと同じようなスーパーの駐車場で乗り捨て、歩くことにする。 血の付いた座席は外からはすぐには見えないが、教会まで乗り付けてもし、 参列者の目に留まりでもしたら面倒だ。 それでなくても、五十鈴教会は名前だけは立派だが(ばばあの本名を付けただけらしい)、 和洋折衷の古臭い昭和時代の二階建て建築に、みすぼらしい天使の像が一体あるほんの猫の額ほどの中庭がついてるだけの、 じつに小ぢんまりとした教会なのだ。 駐車場など最初から一、二台分しかなく、 いつの間にかそれさえも、近所からやってくる参拝者の自転車やバイク置き場と化している有り様だ。 離合は出来る程度の狭い路上に路駐などすれば、 歳はとっても昔と気概だけは変わらないあのばばあから何を言われるか。 「・・・ねぇアニキ・・、なんで車降りたの?どこ行くの?」 ずっと黙って助手席で息を殺していたヒデが、たまりかねたように小さく尋ねる。 駐車したオレが腹を押さえたままコートの袖を通さず前だけ閉じ、無言で運転席のドアに手を掛けると、 慌てて飛び出して来て外からオレの動きを手伝った。 その後、まるで年寄りの散歩みたいな覚束ない足取りで、ハラハラと寄り添うヒデとふたり、 凍てつく路上を歩いていった。 去年はうっすらと雪が積もりホワイトクリスマスになったが、今年雪が降っていないのはもっけの幸いだ。 直線距離にしてほんの数百メートルの道のりが、果てしなく遠い。オレは立てたコートの襟の内側で鼻をすすり、 息を吐く。鼻の感覚がないくらい冷え切っているのに、驚くほど熱いため息が出た。 アドレナリンはまだ出まくってるな、と変なことを思いつき、ふ、と笑いが漏れた。 「あ、今夜はクリスマス・イブなんだね、アニキ」 突然、ヒデがこの状況すら忘れたように素っ頓狂な明るい声を上げた。 ヒデの指さす方を横目で見やると、赤い日よけが張り出したレストランの入り口に、 きらびやかに飾りつけされた大きなツリーがあった。 ドアのガラスに英語ではない別の言葉で流麗に斜め書きされた白い文字は、 読めないが《Merry Christmas》を意味してるんだろう、たぶん。 木枠の窓ごしに見える店内ではこれまた着飾った客たちが、それぞれグラスを手にパーティの真っ最中だった。 「あの人たち、何をお祝いしてるんだろうね?」 店の前を行き過ぎたあと、不思議そうにヒデはオレの横顔に訊いてきた。 またおかしなことを、と鼻先で笑いかけて、だがオレはふと思った。おかしいのは、あいつらのほうじゃないか。 そんなに愉し気に何を祝ってるつもりだ? クリスマスの主役が誰だか分かってるヤツが果たしてひとりでも、あの中にはいるんだろうか。 あいつらはきっと、クリスマスって名のイベントを祝ってるんだ。 クリスマスを祝う自分たちを祝うために、ああして集っている。 でなければ、乾杯なんてするわけがない。 オレがこれから行こうとするあの場所では、今ごろ毎年恒例のミサが行われているはずだ。 誰も嬌声あげて祝杯の音頭を取ったりしないし、参列者同士が目と口元だけで微笑み合うことはあっても、 おおっぴらな笑い声や着飾った女や、ハイヒールの踵が起てる挑発的な靴音もない。 あるのはただ、ばばあの低いが朗々と響く聖句を読み上げ説教する声と、 アーメンと共に唱和する参列者の粛然とした声、 長年の埃をかぶったように眠たげに響く、シンプルなオルガンの音色。 去年のイブ、その前の年も、オレはあそこには戻らなかった。 そうだ。考えてみればこいつと会った年のイブから行ってない。 というのもまず一つ目の理由は単に、こいつにオレの素性をあれこれ知られたくなかったからだ。 トイレと風呂と寝床以外はどこでも一緒にくっついてくるヒデが、 ひとりイブの晩に部屋で留守番しろと言っても聞くわけがない。 女を抱きに行くときでさえ、 『・・・俺はソレはいいけど・・。近くで待っててもいい?アニキ』ともじもじしながら上目遣いで訴えかけられると、 なぜか自分でも分からないがダメだと言えず、託児所よろしくソープの待合室で女の子に話相手をさせていたくらいだ。 そして、行かなかった二つ目の理由。こっちの方が理由としてははるかに重い。 三年前のイブ最後に行ったとき、ばばあはここを飛び出して以来、 年に一度この夜だけは顔を出してやるオレを迎えて、静かに切り出した。オレを引き取った当時とまるで変わらない、 落ち着いた口調で。 『この教会も、もう終わりかもしれません』 電車の沿線から少し離れているせいか閑静で、アーケード商店街では細々と商いを続けている小売店が現存し、 昔ながらの下町の風景が残る。古くは戦後まもない頃から住み着いた住人の民家が密集するこの界隈一帯の地価が、 数年前からじわりと上がって来たのは、オレも中堅不動産屋の知り合いの話で聞いて知っていた。 速やかに立ち退きをすれば、老朽化して本来ならば価値のない家屋にも色をつけて、 土地の値に上乗せして買い上げてやるという、不動産屋が仕向けた地上げ屋の口上に乗せられ、 古い家を売って出てゆく者もいるらしい。 子供が家を出て老夫婦だけの暮らしだとか、連れ合いに先立たれた心細い年寄りひとりの世帯には、 土地を売ってどこかの新しいマンションにでも移るほうが、 自分にとっても良い機会だと捉える向きだってあるだろう。 そんな中でもこの土地に愛着を持ち、一生ここを離れないという決意を揺るがさない者たちももちろんいた。 ばばあもその一人で、もっと信者が集められるような賑わい目立つ場所に移ったらどうですかと、 訪ねて来ては甘言を操る業者に対して、歯牙にもかけない毅然とした姿勢を見せて来た。 若かりし頃、信者として出会ったある独居老人から、 いつか自分が死んだら家を住居兼祈りの場として使うように遺志を残された、 当時40になるかならないかの一人のシスターが、住み着いて教会を開いて以来、 ちっぽけな五十鈴教会は地域のコミュニティのなかにあって、もう無くてはならない場所になっている。 オレは五歳の時にこの教会の前に置き去りにされ、そのシスターに拾われた。 たびたび家出を繰り返しながら18で完全にここに戻らなくなるまで、 気の強いひねくれもの同士、ガキと修道女がふたり互いにぶつかり合いながら十数年を過ごした場所でもある。 元々この土地には地主がいて、半永久的な借地としてその上に家が建っていたのだが、 戦後まもない混乱のなかでの、戦線を生き延びて還ってきた同胞同士のあいだで交わされた口約束は、 本人たちが死んだあとにはその子孫によって不当だと受け止められた。 地上げ屋の入れ知恵で欲をかいた現地主によって、提示されたそのちっぽけな教会の土地代が、三千万だ。 相手はどうせ払えるわけがないと足元を見た上で言って来ている。 ばばあもそれは元より承知していたらしく、 ついに来るものが来た、というようなどこか諦めを越えたさばさばとした表情で淡々とオレに経緯を語った。 『来年にはもう更地になって、中庭のあの天使ごとなくなっているかもしれませんよ。 最後に会えて良かったわ』 ばばあのそういう自分のほうから突き放すようなところが、昔ッからオレはほんとにムカついていた。 いや、もう三十近いいい大人の今、その言い方が正しくないということは自分で分かってる。 そうじゃない。つまり・・・、水臭いってことだ。 『・・・要はその金が払えればいいんだろ』 不機嫌に押し殺した声で確認したオレの顔を見上げて、ばばあはチラッと一瞬白い顔に不可解な笑みを浮かべたが、 すぐに真顔に戻り、オレの考えを先回りして制するように言った。 『すべては神の導きによって決まることよ。ここを出たあなたが気にすることではありません』 一年一度顔を出すごとに、身なりや立ち居振る舞いが変ってゆくオレがいまどんな世界に生きているのか、 一言も尋ねたり口にすることはなかったが、ばばあの言外に言わんとしたことは分かっていた。 危険な真似をするな、罪を重ねてはいけない、と。 ほとんど喧嘩ばかりに明け暮れた高校を中退して、 そういう行き場のない不良たちを、強引な立ち退きをさせる場合の兵隊として雇い入れてる土建屋の住み込みになった。 日ごろはスタンド勤務や中古車のパーツ解体なんかをやらされながら、 いざという時には頑固な地主を追い込むための嫌がらせに行かされる。 そんなことをやってるうちに、オレに目をつけた一人の男から、 『こんなチンケな仕事辞めてうちに来い』と声を掛けられた。 オレがヤクザの世界に足を踏み入れたのは、それがきっかけだ。 結果として、オレは他のやつを追い落とし裏社会で頭角を現してゆく生き方が自分で向いてないと、 途中から嫌気がさすほど後悔することになる。が、十代で踏み外した道を軌道修正してゆくには、 もうオレはこの世界にどっぷり首の上まで浸かり切ってた・・・。 『オレがどうしようとあんたには関係ねぇことだ』 それだけ言い返して、オレは背を向けた。無言でオレの背中を見送るばばあの視線がはじめて痛いと感じた。 金が作れるまで、ここの階段を上らないとあの時決めた。 ばばあの為だけにそんな無謀なことを思いついたんじゃない。 オレにはオレの、この場所を勝手に人手に渡すわけにはいかない理由があった。ばばあにも言ったことは一度もないが。 土建屋の兵隊からスタートしたキャリア?が図らずも役に立つ日が来るとは、思ってもみなかった。 オレは自分の属する組の名を最大限に活用することにして、ひそかにこの土地の買収に携わっている土建屋に手を回すと、 五十鈴教会への立ち退きに関する脅迫行為の時間を引き延ばすように、圧力と脅しをかけた。 他にも有益でもっと金になる土地はいくらでもあるのだ。 とにかく何の理由あってかは知らないが、 オレが五十鈴教会への手出しを本気で牽制しようとしていることは伝わったとみえ、 あの場所はしばらくの間、触れずに後回しにされる措置が取られることになった。 オレは内心で胸を撫で下ろし、その一方で自分のいまある手持ちに加えて、三千万を用立てる算段を開始した。 結局、丸三年の月日がそれには必要になった。 というのも、ばばあの最後の声、最後の視線がどうにもオレの邪魔をして、 手っ取り早い方法での集金に走ることを、ぎりぎりすんでの部分で押しとどめてしまっていたからだ。 オレのやって来たことは、確かに犯罪には間違いない。だがこれでも精一杯、なんとか最後の線は踏みとどまって来たつもりだ。 オレは暴力に訴えて他人から金を奪ったことは一度もない。それだけは本当だ。 運び屋という仕事を中心にこれまで動いてきたのは、そのせいだった。 どんな危険な取り引き現場にも、オレは躊躇なく出向いていった。 もちろんその場で今日あったような銃撃や肉弾戦がおっぱじまる時もある。が、不思議とその時には怖さを感じなかった。 恐怖もなければ、自分が死ぬという気もしていなかったというのは、今思えばおかしな話だ。 何をそんなに確信していたんだろう。 あの教会を必ずオレの手で守る。あの場所を残してみせる。 他のことは何も見ない、考えない。生まれて初めて感じる激しい熱に浮かされたようなその意志だけが、 この三年ものあいだ、オレを突き動かし続けた原動力だった。 ひょっとすると、ただの一度も撃たれることも流れ弾に当たることさえなく今の今まで生き延びてこられたのは、 それだけ最凶の悪運をオレ自身が呼び寄せたせいかもしれない。 そして誓願どおり金が作れたとき、悪運がツケをまとめて取り立てに来た。こうして命と引き換えに。 たぶん、そんなところだ。 ようやく教会の前につくと、信者が飾り付けてくれたのか、 ささやかな電飾と共に手製らしきリースが粗末な木製のドアにかけてあった。 掌ほどしかないステンドグラスの小窓から中の光がわずかに漏れ、ドア越しに讃美歌の歌声が聴こえた。 オレが階段の前に立ち止まり、ほんの数秒、胸に押し迫る何かの感情をやり過ごすために静止するあいだ、 ヒデがぽつりとため息のような声を漏らして、教会を見上げた。 「・・・あぁ」 何で教会なの、とかてっきりもっと別の反応をするものと思っていたから、 まるで懐かしい場所に着いたような声を出したこいつに、違和感を覚えた。 「・・・お前、まさか来たことあるのか・・・?」 こいつと暮らしはじめてしばらくは、記憶喪失を疑っていたことをいまさら思い出してオレが訊ねると、 ううん、とヒデは首を横に振って、そのくせ嬉し気にオレを見て言った。 「中に入るの、初めてだよ」 中に?その答えにまた訊き返そうとして、オレは言葉のかわりにヒデの顔の一点にふと目が吸い寄せられた。 左の頬に一瞬キラキラと、星屑のようなものを見た気がしたのだ。 「・・・お前・・・!」 歩くのと息するのに精いっぱいで、顔を見るのはおろかほとんど口も利かなかったオレの発した鋭い一声に、 ヒデがビクッと肩を揺らして固まった。 何を怒られたのか分からないのとそれでも条件反射で怯えた表情を浮かべ、おずおずと口を開く。 「・・・なに、アニキ・・?俺、なんかした?」 「・・・・・」 あらためてまじまじと見つめてみたが、 たったいま見えたと思ったものは、ヒデの寒さに硬直した頬のうえから跡形もなく消えていた。 ふう、とオレは返事の代わりに息を吐く。 あまりにずっと気にしていたから、朦朧としつつある意識のなか、この期に及んで幻を見ちまったのかも知れない。 それとも、ついにちらつき出した粉雪のせいだろうか。 「アニ・・」 「もういい。・・・入るぞ、ヒデ」 「うん・・・」 ヒデに先に上がらせてドアをそっと開けさせると、いつもの小さな軋んだ音を立てて開いた。 讃美歌はちょうど終わるところだ。歌声に合わせてオルガンの最後の一音を長く伸ばしたばばあが、 目だけで入口を見たところとちょうど視線がかち合った。 ばばあはまばたき一つせずすぐに手元に目を戻すと、落ち着いて静かに伴奏を止める。 記憶している限り人前で一度として脱いだところを見たことがない黒いベールの下で瞑目し、 オルガンの前に座ったまま軽く頭を垂れている。 オレとヒデは信者たちの邪魔をしないよう、入口に一番近いベンチの隅にそろそろと腰を落ち着けた。 きりりと真横に引き結んだ唇の内側で祈りを捧げている懐かしい光景を、 オレは夢の欠片を眺めるように、ぼんやりと見つめた。 分館topに戻る
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