聖なる夜に口笛ふいて 1









十歳のクリスマスの夜、教会の中庭で小さな男の子と会った。
いまも時々夢に見る。
左の頬っぺたに涙の粒のような星屑を光らせてた。あれは、遠い記憶の思い違いかも知れない。
はっきり覚えてるのは、まばたきもせずにオレを見つめていた大きな瞳・・・・・



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 瞼のうえに痛いほどの視線を感じてフッと薄目を開くと、あいつの顔がかなりのアップで視界に飛び込んできた。
 今までずっとそんな顔してオレを覗き込んでいたのか。 泣きそうなのを必死でこらえてたらしく、大きな瞳を見開いてまじまじとオレの目を見つめた。 瀕死の男にまだ息があり、かろうじて生きる意志を失くしていないことを確かめるように。
 黒目がちの瞳に反射する街灯りが、寒そうに震えている。 いや、震えてるのはこいつの場合、寒さよりもむしろ不安のせいかもしれない。 臆病で泣き虫のこいつは、オレが居なけりゃ一日だってひとりでやってくことが出来ない、 頭の悪いグズでマヌケな弟分だからだ。
 弟分といっても、オレがこいつを舎弟にしてやると請け合ったわけじゃない。 路地裏で半グレ集団にボコられたあげくに、ツラの可愛さに目を付けられたか犯られかけてるところを、 たまたま界隈の巡廻と店への顔出し(という名のみかじめ料集金)に回っていたオレが見つけて、 返り討ちにしたのが運の尽き。
 ただしこいつにとってはそれが救世主の登場だったわけだ。 『アニキがあのシマを担当してて俺ってラッキーだったね』とのちのち無邪気に言ってこっちの方がげんなりさせられた。 ときに機嫌の悪いオレに八つ当たりで暴力振るわれ、 泣きながら赦してと足にむしゃぶりついてくるヤツが、よく言う。
 あれから三年・・・。
 ひとの事を勝手に『アニキ』と呼び付きまとい、ただのチンピラだと自認しているハンパやくざのオレが、 すごもうが恫喝しようがどこまでも附いてくる。こういう馬鹿には血を見せるに限ると、 容赦なく拳を叩き込んでやったが、なんど追い返されようが顔を腫らし足を引きずりながらもめげずに纏わりついてくる、 捨て犬みたいなこいつのあまりのしつこさに呆れ果て・・・というより消耗したオレの、 最終的には負けだった。
 どこから来たのかと尋ねてもピンと来ない表情で首をかしげたこいつは、 答えの代わりに蕩けそうな人懐こい笑みを浮かべただけだった。 天使みたいな綺麗な顔をしてるから、 オレが何か話しかけてやるだけで嬉しそうな照れ笑いを浮かべ、 低からず高からずの滑らかな声で『そうだねアニキ』と歌うように返されると、 それだけでまぁいいや、って気になっちまうのは、最初のうちは忌々しかったがじきに慣れた。
 頭や精神に問題があるようには思えない。鈍くさいけどいたって普通の会話や日常生活は出来てるわけだから。 が、ときどきこいつは、どこか遠くに飛んでってここに居ないということがある。 心・・・というより魂が脱け出たような感じで、ぽかんと何もない空を見上げてることがある。
 こいつにはひょっとして記憶ってものがほとんどないのかもしれない。 いや、それとも何かあって敢えて忘れたことにしているのか・・・。 いい女が脱ぎ捨てた上物のシルクのドレスみたいに、 思わず触れたくなるほど美しいが肝心の本体がいない虚ろな横顔を眺めて、オレは怪訝に思い始めた。
 他人の嘘はすぐ見抜ける自信のあるオレがどう疑ってみても、 こいつが頭の弱いただの非力なガキなのは確かだった。 どこかの施設から逃げ出してきたのか、そんなことも想像してみた。 隠してるのでなければ、事故か何かによる記憶障害とか喪失だってありうる。
 名を訊くとしばらくして『ヒデ』とだけ答えて、あとは何を訊ねてももうぼんやりとオレの顔を見返すばかり。 どうにか成人はしているらしいこいつの素性を、このオレがどうこう探る必要はどこにもないわけだし、 そのうち相手になるのが面倒になって、一切なにかを訊ねることはしなくなっていた。
 勝手に金魚の糞でついてくるなら、好きにすればいい。 救世主なんかじゃなく、そのうちオレがただのケチなチンピラだと分かったら、 またどこかに消えていくだろう。それも好きにすればいい。はじめから誰も信じていねぇし求めちゃいない。
 その代わり、オレは指一本言葉一つ、 お前にいかなる情もかけてやるつもりはねぇ。そう背中で語って突き放して。

そのはずが・・・・・



「アニキ、大丈夫?」
「・・・なわけねェだろ馬鹿・・。腹・・・穴が開いてんだぞ」
 あえて人の出入りの多い道沿いの24時間大型スーパーの駐車場に入り、 隅の方に車を停めてほとぼりを冷ましている。取り引きの現場からはかなり遠く離れはしたし、 現場そのものが周辺に人家の灯の見えない鉄道の高架下だった。しかし発砲があったからには、 音を聞きつけた誰かが通報しないとも限らない。
 今回もオレは運ぶだけの役だった。それだけでいつもの倍近いかなりの報酬を約束されたときには、 提示された額にざわりと舞い上がる頭の裏側で、直感という危険信号が黄点滅を始めたことを感じてはいた。 が、オレはその役を請けた。どうしても今年中にまとまったカネが欲しかったからだ。
 今まで貯めてきた金は三千万近くに達していたが、あの土地が来春頭に買収される前に、 買いとる金をどうあっても揃えなければならない。 報酬の先払いをもぎ取ると、どうにか目標額に届いたことを頭のなかで換算し、 晴れ晴れした気分になった。金さえ手に入れば、もう後は思い残すことなど何もない。 不思議だが、そのくらい自分の人生が終わったような静かな気持ちだった。 いま思えば虫の知らせだったかもしれない。
 ヒデを助手席に乗せたレンタカーを暗がりに停め、 取り引き現場に時間をずらしてやって来た中国人の男に、持ってきた黒いアタッシュケースを渡した。 ほんの一瞬の接触だったのに、狙いすましたようにどこかに潜伏していたらしいバイクのヘッドライトが、 突然ザンと光った。
 やはりネタは漏れていた・・・というよりも内部に敵がいたわけだ。 どこか冷静に状況を見ていた。ただの運び屋に過ぎないオレに高額の報酬を先払いしても惜しくないほど、 そのケースを手に入れどこかに横流し出来さえすれば、 組で捌くより巨額のカネと見返りが自分たちの懐に転がり込む、確かな勝算があったのだろう。
 ブツを強奪しようと乱入した二人乗りしたバイクの後ろのやつが、いきなり発砲した。 黒い革ジャンの袖口から滑り出た細い銃口を見た瞬間、とっさにすぐオレの肩口の辺りに立つヒデを庇っていた。
 ・・・オレはバカだ。なんならこいつの方をむしろオレの盾にすれば良かったのに。
 かいがいしくオレの身の回りの世話はするが、怖がりで喧嘩なんかからっきしで、 弟分といいながらシノギのための仕事にはものの役にもたたないこいつなんか、 代わりに撃たれちまえばよかったんだ。 そしたらオレはきっと身寄りのないこいつ1人残してこの場を去って行けたのに・・・。
 一発目は逸れたが、ヒデのうえから素早く身を起こし銃を掴む前に、 もう一発はあっさりオレの脇腹を貫いていった。 感じたことのない重い衝撃が一瞬で過ぎ去ったあと、 これまた感じたことのない全身の血が逆流してその一点に集約されてゆくのが分かった。
 逃げてゆく中国人たちのほうを、バイクは慌てて急回転して追ってゆく。 とどめに向けられたもう一発は近くの地面を撃っただけで終わったが、 フルフェイスのヘルメットで顔など見えない分、油断したのだろう。 結果的にはその詰めの甘さと、そして銃が小型のものだったおかげでオレは命拾いした。 といっても、ほんの数時間のあいだってことだろうが。

 厚いロングコートの下、血濡れのシャツの張り付く固く巻いた晒しの上から、 ヒデがスーパーで買って来た何枚ものタオルでがっちり押さえ込んでいる。 が、少しでも力を緩めれば出血がまた始まってしまう。
 オレはなるべく静かに呼吸することにして、助手席から身を乗り出すように見ているヒデに薄く笑って突っ込んだ。
「・・・近ぇぞ顔・・・。誰か見たら変に思われる・・・離れろ」
「だっ・・・だってアニキ・・・」
 すでに半べそをかき始めているヒデは、おろおろと両手でオレの腕にすがる。
「痛ッッッ!・・・ばっか・・揺す・・るな!」
「あっ!!ごめんっアニキっっ」
慌てて手を放したが、はずみでボロボロッと涙が溢れた。
「俺・・・俺を庇ってくれたんだよねアニキ・・・!だっ・・だからぁ」
「・・・うるせぇなぁ、、、傷・・響くから喋んな・・」
 痛みは・・・。じつを言えば不思議なことに割り合い遠くにあった。 今夜はこの冬一番というくらい冷える夜だから、寒さのおかげで感覚がおかしくなっているのも幸いしてるのかも知れない。 ま、出血も酷いから貧血も手伝ってるってとこだろう。
 この先のオレ自身の体のことは、ほとんど先が見えてるが、苦しみがそれほど酷くならない今のうちに、 なんとか運転してたどり着かなきゃならない場所がある。 金の工面が出来たことを、そこに言って話さなきゃならない。
 それともう一つ、・・・意には添わねぇが、ばばあに頼み事を。


「アニキ・・・?どうしたの?まさか、これから運転するの?!・・・病院?」
 なんとか気合で倒したシートを起こし、ハンドルにしがみついたオレに驚いたヒデが訊ねる。
「・・・」
 もういちいち返事をする余裕もなくて、オレは横目で睨み、無言でヒデを黙らせるとゆっくりと車を発進させた。




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