再 会 3









〃さやうなら〃

 レンタルしてきた日本のトーキー映画の字幕を観ていたら、娘がそう言って背を向けた。
「さやうならって?」
 ささやかなワンルームの自室で隣の肩に頭をもたせ掛けたまま秀が問うと、左門は几帳面に返事した。
「さよならってこと。昔の口語体だから、ふつうに言えばいいんだよ」
 そのくらい幾らなんでも知ってるよ、話の流れからも字面からも分からないはずないだろと思ったが、 秀はふぅんと言って左門の精悍な横顔を見上げた。そうやって甘えるのが好きだったのだ。
 左門はジイっとこっちを見つめている秀の目線に最初は気づかないフリをしているのだが、 だんだん落ち着かなくなってくるのは、スポーツマンらしく太いが意外に白い首筋が薄く赤みを帯びてきた色の変化で分かる。
「なんだよ、秀?」
 ついに我慢できずにこっちを見たときには、秀のほうはソファがわりにクッションを背もたれにした壁の反対方向に突っ伏して笑っている。
「何がそんなにおかしいんだ?」
 ゆさゆさと揺すられて、意味もなく秀は笑いが止まらなくなった。
「さやうならって、別れるときにシリアスに言われても、なんか笑っちゃいそうだな」
 揺する手を止めた左門も、ちょっと考えた後では釣られて笑った。
「言われてみたらそうだな」
「なぁ。もし俺を振るときは、さやうならって言ってくれな?その方が恨まずに済むから」
 そんなことがあるはずがない。だから深い意味もなく秀はそう言ったのだ。 しかし左門はその言葉を聞くなり笑いを収め、やけに真剣に後ろから両腕ごと秀のことを抱き締めてきた。
「なんでいきなり?なんでそんなこと言うんだ、秀」
「え?なに?別に。もしもって言っただけ」
 秀は逆に驚いて振り向くが、体ごともたせ掛けるようにして覗き込む左門の表情が、 やけに固く眉根を険しく寄せているのに気づいて戸惑った。
「左門…?」
「冗談でもそんなこと聞きたくない」
「…うん」
 幽かな不安が秀の胸に兆す。しかし同時に、この真面目に哀しい目をしてみせる恋人に対する激しい愛しさと、 そして欲望とがめらめらと燃え上がった。
「左門」
「ん?」
「キスして」
 至近距離で乞われてちょっと照れた目になった後、左門は顔を寄せてきて秀の額と唇に軽く触れる。
「ちがう。ちゃんとしたのがいい。…うんと濃厚なの」
 一歩部屋の外に出れば、愛想無しで必要以外の口は利かずクールビューティーと社内でも陰で言われている秀が、 こんな風な姿を見せるのは、左門ただ1人だけだ。その落差が左門をそして秀自身をも煽り立てる。
「…いまのうちにベッドに行こう。ここじゃ……」
「キスだけじゃ終わらなそう?」
 いつでも颯爽として折り目正しい実直な振る舞いで、会社の上司後輩問わず信頼の厚い男が、 自分の前でだけ見せる雄の表情。情欲を素直に表す目を見交わすだけで、秀のからだの奥がジンと熱く疼く。
「左門のアレが欲しい…。太いのでおかしくなるくらいファックして」
 わざと卑猥な言葉で煽る秀に何も言わずに、腕をつかんでやや乱暴に引き起こすと、 照れくさいのか先に立ってすぐ傍のベッドに向かう。そのとき、ローテーブルに載せていた左門の携帯電話が振動した。
「あ、ケータイ鳴ってるぜ」
 秀は気づいてないのかと左門に呼びかけた。しかし左門は返事もしなければ振り返りもしなかった。
「いいんだ。どうせ仕事のつまらない用事だよ。ほっとけばいい」
 仕事熱心で律儀な左門らしからぬ、投げやりな言いようだった。でもそのときの秀は、 素っ気なく電話を放置した半面で強く腕を掴みなおした指の力に、余計に胸を駆り立てられていた。
 転がるように上がったベッドのうえで左門を手伝って自らシャツを頭から引き抜きながら、 ぜったいにこの人とは離れないとあらためて強く心に誓っていた。
 狂おしくキスを求めあい指を絡めて、ふたり以外他の何者にも介入できない領域の快楽に没頭する。 そのあいだにも、何度か断続して携帯は振動を繰り返したが、邪魔しようとする鈍い音はかえって背徳的な欲を煽る誘発材となった。
 さやうなら、なんて言葉はすでに秀の脳裏から風に千切れる紙のように流れ去っていた。





「……」
 もう一年以上見ていなかった左門の夢から覚めて、秀はしばらく現実と夢の区別がつかずボーッとしていた。
 長い夢のようにも思えたが、それはほんのうたた寝の一幕に過ぎなかったようだ。 秀は風呂上りの缶ビールを半分空けたまま、ソファで寝入ってしまっていたらしい。
 つけっぱなしの灯りのもと、サイドテーブルの上で携帯電話がメール着信の点滅を繰り返しているのに気づいた。 反射的に左門かと思い、その直後、そんなわけないと思いなおす。
 連絡先は互いに訊きもしなかった。秀はあれから番号も変えたし、アパートも移った。 左門は物言いたげな目で最後まで秀を見つめていたが、何かの要求を口に出すことは懸命に抑えているように見えた。 秀もまたその視線に気づかないフリをしていた。  秀は何の気も無しにメールを開いた。




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