再 会 4
“ おまえがすきだ ” ただ一言、その短い文面だけが液晶画面に浮かび上がった。 寝起きの秀に、肌寒さのそれとは明らかに異なる泡立つような皮膚感覚がよみがえる。 初めて左門に呼び止められたとき。好きだと言われたとき。 自分にも説明がつかない、内側から波が押し寄せるような甘美な衝撃に、秀は両腕から首筋にまで鳥肌を立ててしまった。 勇次からのメッセージは、その記憶と重なり合う。 「……」 液晶画面の文字を何度も細かく震える指先でなぞってみる。その言葉が刻まれた証しを確かめるように。 これが送られてきたのは、ほんの10分前くらいだった。秀がチケットのことで勇次に電話してから、もう4時間以上の時が経っている。 真夜中、勇次はどこから、どんな表情でこのメールを打ち送信したのだろう。 秀は無意識にTシャツから出た自分のむき出しの腕をさすっていた。 「…ゆうじ…」 ニヒルな感じのする笑い方や口ぶり、冴えた横顔の冷たさの印象だけでは、自分たちのことにも無関心に見えていた。 だからチケットの件ではかなり動揺したのだ。 秀がたまたま再会した昔の恋人のことで、自分でも戻れるとも思っていない過去のことで心を揺らしていたとき。 勇次はこれから先のことを見ていた。ふたりの、これからを。 日曜の朝、目覚めてカーテンを開け外を見たら、街中が灰色に濡れそぼっていた。 風のない五月の休日、音もなくまっすぐに降る静かな銀色の雨を、秀はしばらく見つめ続けた。 傍らの携帯電話を手に取る。一度目を放し、何かを思いめぐらすように宙に視線を迷わせたあと。 秀はどこかの番号に向けて発信し、電話を耳元にあてた。 このコールを受けてくれたなら。俺はやっと、長かったトンネルの外に出られるかもしれない。 耳元に鳴り響く低いコール音を聞きながら、目を閉じていた。 「どうしたんだ?仕事中だろ」 不意に途切れたコール音と同時に、勇次が挨拶もなしにいきなり訊ねる。 秀はクスッと笑ってしまう。 「そう決めつけるなよ。仕事中でもお前に電話したいからしたんだよ」 「……」 「勇次。あのエキシビションだけど…」 「…あぁ」 「今日、もし予定が空いてたら、一緒に行かないか…と思って」 言葉がだんだん先細りになるのが分かる。ラインの向こうで、勇次の沈黙が怖いほど伝わってきたからだった。 「…今さらもういいなら、俺ひとりで行くけど」 「……。今日は行けないんじゃなかったのか?」 押し殺すような声が、いつもの勇次とは違っている。 秀はまた動悸が激しくなるのを感じながら、半分泣き笑いのような掠れた声になって、答えた。 「予定がなくなった。ていうか、キャンセルしたんだ。お前とその、出かけるほうが大事だと思ったから……」 しばらく双方が電話口で黙り込んだ。ほんの数秒が、秀にとっては果てしなく長く感じられた。 「秀。お前の都合がいいならオレはいつでも出られる」 少しぶっきらぼうに聞こえる言い方で、勇次が一本調子に呟いた。 勇次のあの特徴ある切れ長の目に、電話越しの自分はいったいどんな顔してるように見えているんだろう。 伝わるのではないかと思うほどに熱くなった耳を少し電話から遠ざけると、 「じゃ、だいたい一時間後に会おう」 会場に向かうにちょうどいい、互いの部屋から中間地点の待ち合わせ場所の相談を始めた。 もうすぐ午後の三時を回る頃だ。 会場を出て雨の上がった濡れた路上を歩き出しながら、秀はあの珈琲店でひとり待つ男のことを想像する。 約束どおり、というかきっと少し早い時間に、左門ならば店に先に来て待っていたことだろう。 最初の十分は何も思わない。二十分を過ぎるころには少し苛立ち、同時に何かあったのではと心配になってくる。 先に頼んでおいたコーヒーは手つかずのままだったが、それに落ち着かない手をつける。 ぬるいコーヒーを口にしながら、左門は今日こうして会おうとした自分自身をはじめて顧みているかもしれない。 生まれたばかりの赤ん坊とその母親に何らかの用事をこじつけて嘘をついてまで、 かつての恋人に会うために家を出て来た自分の行動を。そこでようやくハタと思いつく。 秀は、来るつもりはない。あるいは来るのを躊躇したのではないかと。 三十分、四十分…。 時が経ち、もうすっかり見慣れてしまった入口のドアにかかったドライフラワーのリースを、ぼんやりと見つめる。 もしいまドアが開いておもむろに待ち合わせの相手が入って来たとしても、 すでに左門のなかでは再び踏み込んではならない領域に、 足を踏み入れようとしていた自身の軽率さや妻への罪悪感のほうが大きくなっている。 そして激しく惹かれた日々を束の間蘇らせた元恋人への思慕は、やはり間違っていたと、 もう一度会うことを願った自分を恥じ、秀に対しても悪かったと考えることだろう。 三時になれば、もう待ち合わせの相手が来ないことに確信と諦めがつく。 左門はそこでひとり俯いて小さく笑い、席を立つに違いない。 恨みはない。これで良かった、会わずにいてくれてよかった。 胸のなかで言い聞かせ、今まで奥底に残っていた痛みをほろ苦さをこれが最後だと揉み消し、コーヒー代のレシートと共に店に捨てて出る。 そして何事もなかったような顔で家族のもとに戻ってゆくのだ。留守番の償いにケーキの小箱を携えて。 「秀?」 いつの間にか足が止まっていた秀を、少し先を行った勇次が気づき振り返った。 「どうし…」 どこも見ていない大きな黒目がちの瞳は見開かれていた。頬にひと筋ふた筋の光る跡を見出した勇次は、足早に戻ってくる。 「秀」 「勇次。…すきだ」 顔を覗き込んだ勇次がそのまま固まった。通りすがりの人に聞こえたかもしれない。 秀はそのくらい出し抜けに、はっきりと口にしたのだった。 「俺を…離さないでくれ」 表情は抜け落ちてるのに、涙だけははらはらと零しながら秀は絞り出すように囁いた。最初面食らってその顔を凝視した勇次だったが、 「約束する」 人目もはばからず秀の肩を抱くと、そのまま歩き出した。秀は勇次のなすがままに泣きながら連れられてゆく。 「もう、どこにも寄らずに帰ろうな。一秒でも早くお前を抱きたいよ、秀」 視界はぼやけていたが、温かな勇次の声が耳元で聞こえた。
了
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