再 会 1









 地下鉄を降りたばかりの雑踏で、軽く肩を叩かれた気がした。
 誰かにたまたまぶつかっただけかと思いつつもチラッと振り向いた秀は、スーツ姿のその男を見て一瞬息を止めた。
「……」
「ごめん。あんまり驚いて思わず」
 自分から呼び止めておいて、男のほうでも無意識の自らの行動に戸惑っているようだ。 わざわざ謝るその律儀さと、隠せない実直さが相変わらずの左門だった。
「…元気だったか?」
 見ればわかりそうなことを訊ねながら、上から下までちらと左門の視線が秀の全身を奔る。 最後に別れた直前には、精神的にボロボロになっていた秀はいまよりもさらに数キロ痩せ細っていた。 砕け散った炎の日々が束の間よみがえるのが同時だったのか、ふたりは人波の流れを阻害していることも忘れ、無言のまま見つめ合った。
「…あんたも。元気そうだ」
 やっとのことで絞り出した声は、自分で思うよりもごく平静に秀自身の耳にも届いた。
 二年前よりセンスのいいネクタイを締めて、そして記憶よりかは少し肉付きが良くなっていた。 互いに逆の方向に行こうとしていたにも関わらず、左門が足先を秀のゆく方角へと転じたことに気が付いた。 しかし何を思うまもなく、自然にふたりの歩調が合う。
 二年前に決裂するまで、十九歳になったばかりの専門大学生だった秀は、 生活費を稼ぐためのアルバイト先で出会った会社社員の左門と、約三年間抜き差しならぬ関係を続けていた。 五つ上の左門にはゆくゆくは結婚する約束をした女性がいたにも拘わらず。
「よかったら、少し話せないか。その、どこかでお茶でも」
「あんた、仕事は」
 必要なこと以外には口が重い秀さえもが時としてじれったく感じたほどの口下手な左門が、 こうして自分を誘ってくれるのを、今では動揺せず落ち着いた気持ちで聞ける心の余裕が出来たことに、秀はホッとしていた。 それだけ時が経ったのだ。
 一時期は、もしどこかでバッタリ見かけたり会ったりしたらどうしようと強迫観念に駆られていた。 実際にそんなことなどこの二年のあいだに一度としてなく、秀もいつしかそう思っていた時期のことなど忘れて生活していたのだが。
 遮られた誘いを、しかし拒まれていないと分かったらしく、左門は男らしい眉の下の意外なほど優しい目元をホッと緩ませたあとで、 手首の腕時計をちらと確認する。秀がかつて贈ったそれとは、もちろん違っていた。
「一時間くらいなら大丈夫だ」

 ふたりは表通りを避けて、左門好みな昔ながらの雰囲気の残る静かな珈琲店に入ると、そこでひとときの時間を過ごした。
 とくに話が弾んだわけでもない。左門はあの女性と結婚し、去年の冬に女の子が生まれたそうだ。 恋人が男のバイト生と激しい恋に堕ちていると知り、別れなければ死ぬと自殺まで図ったあの芯の強い女性は、 紆余曲折を経て妻となったが、話を聞く限りではすでに心の平静と夫への信頼を取り戻している様子だ。 それはもちろん、左門の献身的で懸命の償いの日々のたまものだろう。
 俺を好きだと言って抱いたのはあんたなのに、死ぬと言われたからってこうやって俺を捨てるのかと組み付いて、 左門を殴り偽善者と痛罵したのは自分だった。女のように自殺を仄めかす真似をしてまで脅すことは出来なかった。 それが出来ればいまごろは……。しかしそれをすれば、この男が誰よりも苦しむことになるのは目に見えていた。 だから秀は止めたのだ。左門のことを本気で愛していたから。彼女に負けず劣らずの心で。
「…秀、いまは?」
 昔は吸っていた煙草をやめた代わりに少し甘いものを取るようになってしまった、 と苦笑した男がシュガーポットに手を伸ばしながら秀に訊く。今年で二十五歳になる秀に、 ちゃんとまともな仕事に就いてるかと心配して訊いているわけでもあるまい。 秀はただ笑って首を横に振った。
「変わりないよ」
「……そう、か」
 ひとりでいると気を持たせたつもりはない。が、左門は意外そうな声を出したあと、 上目遣いでカップ越しにこっちを見ている秀の黒目がちの瞳とかち合うと、分かりやすいほどに赤面して、目を逸らしてしまった。
 そうだ。こんなところにも自分は惹かれていたのだと秀は思い、それからふたりは黙ってコーヒーを啜っていた。
 帰り際、まとめて会計をしてくれた左門が先に踵を返した秀を路上で呼び止めた。 今度の日曜、もう一度だけ会えないだろうかと。 秀は一瞬の逡巡ののち、深く考える前に小さく頷いてしまっていた。
 途中で千切れた形で終わった恋を、いまさらどうも思っていない。ふたりの人生が今後再び交わるだろうとも、そんなつもりも。 けれど今日、左門が地下鉄で自分を見出してやり過ごさずに声を掛けてきたことに、秀はまず驚いた。 これといった話もせず、ただ左門と向かい合って過ごす時間を懐かしく、楽しいとさえ感じていた。
 と同時に、こうやって穏やかな表情でふつうに話せるようになったことが、どこか哀しかったのだ。 あんなに愛し憎んで涙して燃やしてきた情熱は、いったいどこに消えてしまったのだろう、と。
「…じゃ、来週の二時にここで」
 自分の方から時間を口にすると秀は返事も待たずに背中を向けた。 左門がジッと視線をあてていることを意識はしていた。自分が即座に断っていれば、あの男は分かったとそこで黙ったのだろうか。





「日曜、予定入れたのか」
 週末だけ会える忙しい男が、秀が都合が悪いと電話で伝えると、それだけ言って黙ってしまった。
「仕方ねぇだろ。その日しかダメだってことなんだから」
 仕事の客かと訊かれ、そうだと秀は応えていた。 秀は女性誌向けカメラマンの助手をしながら、自分では好きな自然の風景の写真を撮っている。 近頃は知り合った登山家に付いて、低山トレッキングの楽しさを中高年雑誌に紹介する仕事もたまに入り始めた。
 いまでは好きな相手がいるのだと、なぜあのとき言えなかったのか。 勇次とは週末に会うようになって、 まだ半年が過ぎた程度だからだろうか。
 営業マンという自分とはまるで畑違いの勇次と出会ったのは、友達の友達が連れて来た会社の同僚という、遠い偶然がきっかけだった。 最初はみんなで飲みに行ったり遊んだりしていたのが、どちらからともなく二人きりで会うようになってある日、 別れ際に自然な流れでキスしてあれよあれよという間にこうなっていた。
 左門のときほど恋という感じがなく、 気楽に付き合える友達のようなセフレのような、それでいて自然と一緒にいる時間をわざわざ作っているような、 どうともとれるあやふやな関係だ。
 ここ最近では一応、週末会えるかを互いに打診することなく定着化してきた。 が、これを恋人と明言出来るかともし誰かに訊かれたら、秀にはいま一つの確信が持てない。 左門のときと違ってマメに連絡をとったり、ましてや別々に住むより一緒に暮らしたいと望んでもいない自分自身の気持ちにも、 そして勇次がこのつき合いをどう考えているのかも。
「勇次?怒ったか?」
 どちらにも不可解なウソをついている気がして、秀が不安になり電話の向こうの相手に呼びかけると、勇次の笑い声がした。
「怒るわけねぇだろ、それくらいで」
 ただ、お前が興味ありそうな写真展がその日までだったから。 左門とはまるで違って、如才ない同い年の男は大して残念そうな様子もなくサラリと付け足した。
「ま。また次の機会もあるだろ」




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