浪 漫 飛 行









 脂を染み込ませた絹に大天狗を描いた巨大な気球は、今度こそ清国を目指して天空を渡っていた――――


 蘭学の知恵のありったけを絞ってやれと八丁堀に発奮させられた順之介が、秀と勇次に手伝わせて気球を修理しているあいだ、 加代は旅に必要な品を調達しに、長崎は出島と唐人町でにぎわう市中へと出かけた。 八丁堀はといえば江戸にいるときと変わらず、のほほんとうたた寝などしながら準備が出来るのを待っていただけである。 ただし、同心の恰好で動かれてはかえって悪目立ちする、 そのぶん全員の路銀の一部くらい負担しなと、加代にふんだくられる羽目になったのだが。
 こうして長崎のとある山頂から気球はなんとか無事に飛び立った。 いつもの頼りない受験生の顔を封印して、真剣な表情で順之介が操縦するなか、 他の大人四人は信じられない思いで、眼下に広がる紺碧の海を飽くことなく見下ろしている。
「しっかしアヘンを追ってまさか海の向こうまで行くとはね!生きてりゃ何が起きるかわかんないよ」
 この状況をまるで怖がっていないさすがの加代が興奮冷めやらぬといった口ぶりで言えば、 八丁堀が面倒くさげに応じた。
「しょうがねぇ。仕事料はお春を清国に送り届けてからの後払いってんだからな」
「ふん。そんな冷めたこと言って、八丁堀。あんた内心嬉しいんじゃないのかい?」
「ああ?」
「嫁と婆さんに神隠しに遭ったと思わせて遠くに逃げられたんだからさ。いっそこのまま雲隠れしちゃったらどお?」
 あっけらかんとした加代の言葉に、操縦に集中している順之介は別として、秀も勇次もつい笑ってしまう。 浮き上がる大気球が屋敷の屋根の向こうに姿を現したとき、 せんとりつが腰を抜かさんばかりに驚き、 「天狗にさらわれたぁ〜!!」と泡を食っていた様子を加代の身振り手振り付きの実況で聞かされたのを思い出したのだ。
 八丁堀本人も云われてまんざらでもなかったらしく、にやにやとほくそ笑みつつ懐ろから出した手で顎をさすった。
「まーな。当分神隠しにあったってことにしていりゃ、そう慌てて江戸に戻らなくたっていいってわけだ」
 八丁堀の言うお春というのが、一足先に英国人アヘン商人たちの手によって再び日本から連れ去られたため、 こうして仕事人たちは今回の仕事の依頼人である娘の後を追う格好で、清国へと渡航しようとしていた。


 折からの悪天候により、江戸を発った八丁堀たちの乗った気球が最初にたどり着いたのは日本の南の端、長崎だった。 長崎といえはつい先ごろ、順之介が無理やり両親によって留学に出された地だ。
 その順之介のみならず、その地でナポレオンという異国人と出会った一行は、 紆余曲折を経て仲間たちと奇しくも再会することになる。 錺職人秀とその養女お民、三味線屋のおりくと勇次。そろってナポレオンの船に匿われていたのだ。
 結局、この仕事にまつわる因縁のすべてが一本の線で繋がったのだった。

「ナポレオンのおっさんも、源内のじいちゃんも・・・今ごろ海の底からあたしらの飛んでく先を見送ってるのかしらね・・・」
 珍しく加代がそんな感傷的なことを呟いた。人質としてナポレオンの船に連れ込んだお北の策略により、 酒にアヘンを仕込まれた全員が体の自由を奪われてしまった。そこに追って来たアヘン商人が襲撃を仕掛けてきたのだ。
 仕事人たちは自力でなんとか小舟で脱出をはかったが、 この戦いの立役者でもあるナポレオンと源内は最後まで沈む船から逃げ出そうとせず、 爆破された船もろともに海中の藻屑と消えていった。
「そうだな・・・。言ってることはさっぱり分からず仕舞ぇだったが、あのナポ…とかいう野郎も一本筋が通った男だったな」
 百歳過ぎても死なないどころか叶えたい夢がある、と今回の清国行きを熱望していた変人先生同様、 わけの分からないヤツがまた出て来たと一時は頭を抱えた八丁堀だったが、 夢と共に華々しく散っていったふたりの変人には、なぜか今になって親しみがこみ上げてくる。
「あいつらはじいさんたちの夢も踏みにじった・・・。オレはその仇もとってやりてぇ」
 あまりに現実味を欠いたこれまでの経緯のせいなのか、 金の匂いのする話以外にやる気を見せることのない二本差しの口から「夢」などという言葉が出たことに驚き、 振り向いた勇次が加代とちらっと眼を合わせた。
「あいつらの夢なんかどうでもいい。俺は許せねぇだけだ。お民の命を盾にしようとした連中全員、ぶっ殺してやる―――」
 ひとり皆に背を向けている秀が、突っかかるような口調で背中で言った。 幼い子供を人質にとられたことがどうしても許しがたいらしい。
 アヘンという麻薬のもたらす毒が、お春の一家をはじめこんなにも様々な災いを引き起こした。 一万両という破格の仕事料の魅力以上に、 いまの秀は清国でアヘン商人たちの巣窟を根絶やしにすることに血を滾らせていた。


 夜。
 うまい具合に気流に乗った気球は、安定して外洋を滑るように渡ってゆく。 空のうえはすでに初夏の陽気の地上とは違い、ひどく冷え込んだ。 元々沢山敷き詰めてあった筵と、加代の調達してきた古着を各自配られ、 それぞれが燃料を燃やし続けている支柱の周辺に横になる。
 筵にくるまり古着をひっかぶって横になるなり大鼾をかき始めた八丁堀に眉をしかめつつ、 秀は妙に意識が冴えて寝付けなかった。 抗争のさなか怪我を負ったおりくが、足手まといになるからと清国には行かないと言った。 そのかわりお民を連れて江戸に戻り、皆の帰りを待っていると。
 当たり前のように「民ちゃんはあたしが連れて帰る」と怪我の痛みを堪えつつもはっきりと言ったおりくの言葉に、 秀は清国に行くことを決めた。 それはお民を守って傷ついたおりくに代わって、自分が行かなければという重責に駆られたせいでもある。
「・・・・・」
 今ごろ二人がどこでどうしているのやらと、小さく溜息をついたとき。 スッと背後から伸びて来た誰かの手が腕に軽く触れ、秀はびくっと身を跳ね上がらせた。
(・・・ゆ―――)
いつの間にか勇次が身を寄せて来ていた。シッと耳元でかすかに囁く。
(な、、なにがシッだ。こんなとこで・・・っ)
 秀は焦って身を離そうとしたが、なにぶんそう狭い籠のなかではそう身動きもとれない。 へたに動けば他の連中を起こしてしまうかも知れなかった。
「離れろよっ」
 引きかぶった古着の内側で、秀は小声で毒づいた。八丁堀の鼾で幸いにして声は誤魔化されていた。
「こんな時でもなきゃ、なかなかおめぇとふたりで話が出来ねぇだろ」
 同じくくぐもった低い声で吹き込まれた一言に、秀の居心地悪そうな身じろぎが一瞬止まる。
「は・・・?なんの話だ」
「―――お北のことで、おふくろからおめぇに言付かってる」
「え?」
「お北を怨まないでやって欲しいと・・・」
「―――!」
 秀の動揺が落ち着くまで無言でいた勇次が、やがて押し殺した声で囁いた。
「あの女は若い頃、生んだ娘を色夫(いろ)に殺されたそうだ。自分の手で恨みを晴らすためにこの稼業に入ったらしい」
 秀は闇のなかで目を見開いた。衝撃だった。あの仮面ばかり美しいだけで狡猾そうな女にそんな酷い過去があったとは・・・。
 お民奪還を図って船に乗り込んだときから、秀は何度かお北の命を奪おうとしている。 しかしそのたびに、おりくの懇願する強いまなざしに捉えられ決意を鈍らされた。秀はそのことにいら立ち、 子飼いが悪事に手を染めたらこの手で引導を渡すのが筋だと言っておきながら、 この女を見逃すつもりじゃないのかとおりくを疑いかけていた。
 だがおりくはぎりぎりまで、お北が心の底に隠した悲しみに気づくと信じていたのだ。 爆撃を受けて沈みかけたナポレオンの船のなかで、おりくに「あんたも女なら分かるだろう」と諭されたお北は、 骨の髄まで外道に堕ちてはならぬというおりくの語らずの声を聞き、最終的には口封じの銃弾からお民を守る形で死んだ。
 お北の身から出た錆といえばそれまでだ。 しかし子供の命を守れたことを喜びながら死んでゆくお北を腕のなかに抱えて、絞り出すように名を呼んだおりくの悲痛な声が、 秀の脳裏によみがえる。
「先に・・・言ってくれたら・・・・・」
 幽かな声で呟きつつ、あのどたん場でおりくにそんな機会などあるわけがなかったと秀にも重々分かってはいた。 かばい立てするにはお北の犯してきた様々な所業はあまりにも罪深すぎる。 仕事人個々人どんな言い訳や開き直りをも聞き入れられるはずがない非情な世界だということは、 秀自身が身に沁みている。にも拘わらず、 追い詰められたお北の心情を思うとまるで自分がそうされているかのように、胸が押しつぶされる苦しさで息が詰まった。
 愚かな女だ。よその娘をさらい脅して恐怖に陥れたところで、 同じ目に遭わされた挙句に殺された自分の娘がその手に戻るはずもないのに・・・。
「・・・もういい。お民は無事だったしな」
 渦巻く思いは諸々にあっても、それを口にすることは難しい。 結局秀は分かりきったことを口のなかで呟く以外に、答えようがなかった。 それでも自分の感じているところはどこか一部でも、 この背中を通じて密接している男には伝わるのではないかという気が、何の確証もなくふと胸に浮かんだ。
「最期はあの女も―――、少しは救われたかもしれねぇな」
 風を切る音で聞こえ辛かったが、聞こえていないと思っていた呟きにしばらく間をおいて応えらしきものが返された。 微かな呟きに秀も、最後に見たお北のホッとしたような哀しい微笑を思い出していた。
 一度面倒をみた相手をそこまで信じ、かつ間違いを犯すこともある人間として、 己のしたことのケジメを果たさせようとするおりくの懐の深さは、 秀がこれまで知り合った仕事人たちのなかでも随一のものだ。 いまだにその時の情や怒りによって独りよがりに突っ走ることのある自分には、そんな境地にはとうてい至れまい。
 秀はあくまでも自分ひとりで子供を守るつもりでいた。 が、焦って派手に動けば動くほど、お民の身を危険に晒すことになった。 包帯で吊っていない方の手でお民の手を引き江戸行の船に乗る後姿に、 秀は経験値として未知である母親というものの背中を見た。
 おりくに心からの感謝を抱きつつ、素直に礼すら言い出せず仕舞いでいまに至る。 秀がこれまでずっとふさぎ込んでいた理由が実はそんなところにあることを、 勇次が気づいているはずはないのに。 意地っ張りの秀には、勇次のこのお節介がどこかくすぐったく感情的に拒めない。
 勇次自身は秀を慰めようなどと思っていなくても、母の葛藤と秀のそれとどちらも理解出来る立場だからこそ、 こんな役目を引き受けたのかも知れない。 お民を擁護しそれどころか倅と共に未知の旅路へとあっさり送り出してくれたおりくと、 そのことをごく当然として受け入れている男に、今さらながら叶わないと内心思う秀だった。
「・・・勇」
「ん?」
「もしも・・・、」
「うん」
 背中に触れる体から伝わる熱を感じながら、ずっとひとり気になっていたことを小声で尋ねてみる。
「もしこの気球が、強い風でも喰らって―――海に落ちたとしても」
「・・・」
「おりくさんは、お民を守ってくれるかな・・・?」
 腕に触れていた手が秀の体の前にゆっくりと伸びた。互いの心音が近くなる。
「おふくろはぜんぶ承知のうえさ」
 ぎゅっと抱いてくれるが珍しく冷えきっている勇次の指先を、秀の手がそっと上から掴んだ。



 一夜明けた気球の上では、ちょっとしたひと悶着が起きていた。
「ちょいと?ここのおふたりさんは一体何なの?秀さんにピッタリ張り付いて寝てるだなんて節操ないね」
「おい加代。勇次に節操なんてなぁ上等なもんあるわけねぇだろうが」
 八丁堀が茶々を入れるが、勇次は悪びれもせずしらを切る。
「寒かったんだよ。だいたいオレはふだんから独り寝に慣れていねぇもんでね」
「はぁ〜?聞いてないわよ、誰もそんなこと」
 かつて勇次に盛大に色目を使っていたときもある加代だから、自分を湯たんぽがわりにして貰えなかったのが少々悔しいらしい。 古着を頭から引っかぶって寝たふりをしていた秀の足を下駄の先で突いた。
「ちょっと秀さん!あんたもいつまでもだらだら寝てんじゃないわよっ」
「・・・・・。うるせぇや・・・」
 秀が消え入りたそうな顔をぐずぐずと覗かせるまで、さらに時間がかかった。
「だいたいさ、物見遊山に行くんじゃないんだよ?頑張ってるのは坊や一人! 気球に乗ったからって、これはれっきとした鬼退治なの、みんな分かってる?!」
「おめぇやけに張り切ってんな」
「あったりまえじゃないか。だって一万両だよ?命張る甲斐もあるってもんさ」
 いつもせいぜい小判一枚程度の仕事料。五両も貰えれば俄然やる気が出るところを、今回は仕掛けも報酬も桁外れにでかい。 この危険な冒険にどこかわくわくしたものを感じているのは、皆同じだった。 無事に清国に行って帰って来られるか、まずはこの気球次第でもある。 そのうえ何が待ち受けているかは誰にも予想がつかない。 出たとこ勝負だと、口に出さないまでもそれぞれが覚悟を決めているからこそ、普通の会話が出来るのだ。
「よし。それじゃ今のうちに、着いてからの段取りを決めておくとするか」
 仕切り役の加代に替わってまとめ役の八丁堀が切り出したそのとき、 会話に加わらずずっと遠眼鏡を覗いていた順之介の、素っ頓狂な声が上がった。
「あっ!見えたっ!やったああああああああ!しっっ島影が見えましたよ!!」
「今度こそ清国なのか?ぼうや」
 これまで幾度かあった勘違いをふまえた勇次のからかい口調にも、順之介の確信は揺るぎなかった。 秀がばさりと筵を撥ね退けると、一瞬の動きで立ち上がりその脇に寄ってゆく。 子供みたいに横から取り上げた遠眼鏡を覗き込む秀の隣で、誇らしげに若者は嬉々として宣言するのだった。
「間違いないです。もう一刻もすれば到着ですよ、皆さん!」




Bon voyage...




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おまけ。ピクログ掲載したショート・ショート。実にくだらないです。


↓ ↓ ↓ ↓ ↓


 悪人共を一掃し、風のなかでひとり哀切な声で歌い続けるお春をおいて、 ひっそりと現場を後にした仕事人一味。

「さぁて。おれ達も帰ぇるとするか」

 晴れ晴れ(&大金も手に入れてホクホク)とした八丁堀の一言に、あ、と言って足を止めた簪屋。

「俺、ひとつ忘れてたこと思い出した」
「なんだ?」

 一行の最後尾にいた秀は、振り返る一向に向けて傲然と言い放つ。 

「" 舟饅頭 "、俺も喰ってくる!」 ←もちろん三味線屋へのあてつけ


八・三・順 「それはだめぇっっ!!!!!!!」

「・・・(-_-メ)。なんでだよ?こいつ(と顎で勇次を指す)はいいのに、なんで俺だとダメなんだよっ。ええっ!?」


八 「客で行ったはずがあべこべに客を取らされたらどうすんだ!!そのくれぇ分かれっっ」

順 「そうですよ秀さん!僕の専門は西洋医学ですが―――。色んな整形をこの国は千年以上前からやってますからね、宦●とか」

三 「ふたりのいう通りだ。そうなったらオレが買うぞ。買って日本に連れて帰ぇってやる・・・!(真顔)」


 一連の会話を白目を剥いて聴き取ったあとで、震える秀からそっと目を逸らし先にその場を後にする加代。


「てっ・・・・てめぇらとは一万両手に入れたらぜっっって―――――縁切ってやっから!!!! 覚えてやがれ―――――――っっっ(# ゚Д゚)!!!!」


 だがしかし。

 一万両は江戸に着くなり再び飛び立った熱気球によってびた一文、秀の懐には入らず(もちろん全員同じ)。 養女持ちの貧しい秀はこうして暮らしのために、それからも仕事人仲間たちと幸せに?? おつとめを果たすことになりましたとさ。


 めでたしめでたしm(__)m


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「枕は変わってもヤルこたぁどこの国でも同じさ」と言わんばかり、 コトを済ませて舟から岸に飛び移る三味線屋さんの余裕綽々な風情に萌えましたw
あとから秀にどうやって機嫌とったのかが気になって仕方ないです(笑顔)





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