夏送り
「わぁ!父上、見て下さい!向こう岸にもうあんなにたくさん―――」 「おお、綺麗だなぁ。この辺りから流せば合流出来そうだ。どうだ、美鈴?」 水草のあいだを漂う赤と黒の金魚柄の浴衣に、ふんわりと羽衣のように柔かい翡翠(かわせみ)色の帯を蝶結びにした愛娘が、 無垢な笑顔で左門を振り返る。 「ここにしましょう、父上!」 こちらの岸の川上に澱みのせいで集まっていた灯篭が、川を渡る風の向きが変わったのかようやく本流に乗ったらしく、 ゆるゆると移動を始めている。真暗の水のうえに一夜限り出現する動く光の島を、灯篭を手にしたまましばらく父子は見つめていた。 「―――さ、そろそろ流そうか」 「はい、父上」 水の際まで近づいてゆく黒塗りの地に赤い鼻緒の新しい下駄は、夏祭りのときに浴衣と合わせてあつらえたものだ。 記憶を失くした娘を伴い流れ着いた見知らぬ土地。そこで開いたおでん屋がどうにか軌道に乗って、 ようやく二度目の盂蘭盆会を迎える畷左門にとって、ささやかとは言えそれなりの出費であった。 それでもやっと笑ったり無邪気に今日あったことを話すなど、 江戸に親子三人で暮らしていた時代に近い反応を見せるようになった娘のためならば、 たとえ己が食うや食わずの日があったとしても、いかほどの苦労でもない。 仕事を終えた後、眠気をこらえて竹ひごから削ってこしらえた灯篭に火を入れた。 ここに来るまでは左門が持っていたものを、美鈴が受け取ると水の上にそっと浮かべた。 金魚の型を切り抜いた色紙を張ったのは、美鈴だった。内側からの灯りを受けて、 金魚は幻想的にゆらゆらと優しい光のなかで泳ぐように見えた。 「わぁ、綺麗・・・。父上がお願いした朝顔も綺麗ですね」 「ホントだな。お前は手先が器用だから、すぐに教えたことを出来るようになると吉じいも感心していたぞ」 長屋で一番の古株である吉助爺に切り紙を習った美鈴は、天性のものがあったのかその遊びに心底入れ込んでしまった。 このままゆけば身を立てる立派な芸の一つになると舌を巻かせる素質は、 仕立ての注文が引きも切らないほどの裁縫の達人だった、亡き妻の才能を受け継いだものだろうか。 灯篭を切り紙で飾りたいという娘に尋ねられ、 長屋で育てていたこともあった朝顔の花がよぎり、思わず口にしていた。 隣人の若い男が、お嬢さんにとある夏の日に一鉢届けてくれたのだ。その錺職人にとても懐いていた美鈴は大喜びで、 母とふたり毎朝新しく増える花の蕾を数えては、開いた花や伸びゆく蔓の動きまでもしげしげと観察していた。 朝顔を描いた何枚もの絵は、妻亡き後、思い出すことのあまりの辛さに燃やしてしまった。 今になってその衝動を深く後悔している左門だった。 わずか二年ほど前までは、このまま続いてゆくだろうと思っていた日常。それは己ひとりの都合のよい幻想にすぎなかった。 ひとには言えぬ仕事で妻子との暮らしを支えて幸せを得ようとしていた代償に、もっとも大事なものを左門から奪い去った。 これまでの過ちも長い苦労も、何もかもを承知で受けいれ赦してくれた、この世でただひとりしかいない女を。 不意に突き上げた感情に息が出来なくなり、娘の背後で気づかれぬよう口を開けて空気を取り込む。 最期まで心(しん)からの安心を与えてやることが出来ず、愛する我が子とこれ以上ない酷い形で永久に引き離してしまった。 その悲劇を引き寄せた自分のほうがこうしておめおめと生きていることへの慙愧に耐えかね、奥歯を噛んで硬く目を閉じる。 瞼の裏で、あの頃の様々な出来事が良いことも悪いことも含めて、走馬燈の早回しのように流れていった。 着流しの内側で軽く汗ばんでいたはずの肌がぴりぴりと泡立つ。 こんな日には一睡も出来ず、妻の位牌を前に朝まで黙祷する日々をいまも送っている。 過去へと引き戻されかけた昏い心を、やがて娘の唄うような声が引き戻した。 「ねぇ父上」 「―――なんだい?」 「なぜ美鈴は、何もお手本がないのに、朝顔を切る事が出来たのでしょうね・・・? 吉じいは、それはうんと昔のきおくじゃないかいって言ってました」 「―――・・・」 なにも言葉が出ず、ただ娘のか細い肩を微かに震える手で抱き寄せるしかなかった。老人には美鈴にこれ以前の記憶がないことは話してある。 美鈴を実の孫のように可愛がっている吉じいも、明らかに剣を捨て町人になったと分かる左門の事情を詮索などせず、 隣人としてふつうに接してくれている。 その心遣いに深い感謝を抱きつつも、己の背中や表情に深々と刻まれた罪の呵責を見抜かれているかも知れぬと思うと、 左門はつい伏し目がちになり、周囲とも他人行儀な挨拶で終わってしまう。 このままではいけない。妻のように良い意味での距離を保ちながら、気さくに誰とでも打ち解けられるようにならなければ。 聡明な妻が聞いたならば、クスッと笑って振り返りこう言うだろう。 『あなたはそのままでよろしいんですよ。分かる人には分かります―――あなたのお優しさが』 結局、無言のままに腰を折って隣にしゃがみ込む。横顔をちらと見上げる視線を頬に感じたが、 暗い水面を漂うおびただしい魂送りの灯に、左門はひたすら視線を当て続けていた。 美鈴もそれ以上何か言うこともなく、長屋でも寡黙で通っている父娘ふたりは、 揺れながら無数の光の群れへとゆっくりと近づいてゆく灯篭を並んで見守った。 大事だった存在がもう向こうにいるから、死が怖いと思うことはもう無くなってしまったな。 自分に何も無かったら、さっさと行ってしまってもいいんだが、さすがにこの子を残して死ねないからなぁ。 いっそこの子を連れてお前の後をすぐに追いかけ、親子三人また一緒になろうかとも考えたのだが―――、 そんなことをしたら今度こそ許しては貰えまい。 だから、生きると決めたからには、せめて何かを残そうとは思っているんだ。涼。 それが出来たなら少なくとも、残された私が無駄に死んだと言われないだろう。 次に会える時にお前の顔を真っすぐに見られるよう、一生をかけて為さねばならぬ。 この子がこの先もずっと幸せであることが、お前の生きた証しにもなるだろうから。 こんなことを頼む資格はないかも知れないが、どうか美鈴を護ってやってくれ。時々立ち止まりかける私を・・・遠くから叱って欲しい。 手を繋いで家に帰る間際。年齢よりも幼い頃のまま時を止めた娘が、海へと流れて行く光の船に向けて無邪気に手を振った。 了
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