勇次、お祓いを頼む









 おぼろ月夜の春の宵だった。なんでも屋の加代は手ぬぐいを被せた大き目のどんぶりを手に、 仕事先の煮売り屋から長屋に帰ってきた。
 首をのばして隣の戸をちらと確かめれば、障子戸越しに薄ぼんやりと灯りが点いている。 加代の大きな目が何を思いついたのかきらりと輝いた。 一度自宅に入り、貰った煮物を半分ばかり、箸も使わず無造作に器にあける。
 滅多にないことだが、売れ残るたびに煮返しては出し続けてきた五目煮が、 そろそろしょっぱくなりすぎて売り物にならなくなった頃、持って帰りなということになる。が、加代にはそれが少々苦痛だった。 毎日のように店に出て煮炊きする匂いばかり嗅いで働いていると、自分も醤油に煮しめられているような物悲しい くさくさした気分になってくる。 元来料理などマメにするほうではないし、節約のため渋々飯と汁くらいは準備するものの、金が入れば鮨や揚げたての天ぷらを自分に奢って パッと派手にやりたい加代なのであった。
 だから一食二食分のお菜の足しになるのはたしかにありがたいが、正直加代は、五目煮などもう見るのもうんざりだった。 やれやれと戻ってきたところに秀の家に点る灯りを見つけ、閃いた。自分と同じく隣の独り者ならば、文句も言わず受け取るはずだ。 ただで貰ったものをちょっと恩を売っておくのに使えば、この半厄介な煮物にも活かしどころがあるというものだ。
(さっすが加代さん、賢いんだから…)
 さっそく外に飛び出て、
「ねーぇ、秀さぁん、夕飯まだだろ?あんたのためにわざわざ煮物貰ってきてやったよぉ」
返事もなにも確かめもせずガラリと戸を開けると、
「あれ?秀さん?いないの?!」
 ついさっきまで点いていた灯りが消えて、中はもぬけの空だった。行燈の油の匂いがかすかに漂っているから、吹き消したばかりと いうのが分かる。ほんの僅かの間に秀はどこかに出かけてしまったようだ。相変わらず猫みたいに、物音を立てない男である。
「…ちぇっ、なんだい」
 こんな時間に出ていくということは、飯は外で済ますつもりなのだろう。 無人の暗い部屋に悪態をついて背中で戸をぴしゃりと閉めた加代だが、自宅に入る直前、ん?と何か考えるように薄墨色の夜空を 見上げて首を傾げた。
「…読めた。最近ちっともあの女を見かけないと思ったけど…。さてはあいつ、どこかで逢引きか…?」






 八丁堀は、廻船問屋で積み荷の高さに文句をつけているところだった。今月懐具合が厳しいので、袖の下の値をつり上げる必要に 迫られている。
「このくらいの高さなら…、うーん、やっぱり積みなおしかなぁ。ん?……お?そうか、…仕方がねぇなァ」
 目一杯とまではいかなかったが、なんとか通常よりか多めの額をせしめて、背を向けかけたとき。 へぇ恐れ入りやすと口先だけの挨拶をしながらへこへこする 番頭の頭の向こうに、見覚えのある男が通りを横切ってゆくのが見えた。いかにも出稽古の帰りと見せかけていながら、 切れ長の涼しい目がちらとこちらを捉えたのが分かった。
「ま、次から気をつけな…」
 一声かけ、ゆらりと番頭の脇をすり抜けて歩き出す。それほど行かぬうちにチッと舌打ちの音と薄汚ぇ平同心がという悪態が 背後から聞こえたが、この二本差しには春風に頬をなぶられる程度にも堪えていない。そのまま両手を懐手にしてぶらぶらと その場から離れたが、通りの辻を曲がったあたりからやや急ぎ足になった。三味線の包みを手に先を行く粋な着流しの後姿を 雑踏の先に見据えていた。

 ほどなく。勇次と八丁堀は、ひとけのない半壊した小屋で会っていた。
「…珍しいじゃねえか。おめぇがオレに用とはな」
 早速の皮肉を、勇次は目も合わさず薄い笑みで受け流す。ふたりの相性は、お世辞にもいいとは言えない。それぞれの性格、性情がまるで 水と油のごとく噛み合わないことに加え、あることを挟んで八丁堀と勇次のあいだには、はっきりとした冷ややかで不穏な空気が流れるように なっていた。
「仕事ならやってやるぜ。今月は金が要るんでな」
 八丁堀が単刀直入にそう云えば、
「…悪ぃがそっちの話じゃねぇ……秀のことだ」
勇次も即座に応じた。八丁堀がじろりとねめつける目つきで、この勘の良すぎる男がなにを察したのかが伝わった。
「おめぇが抱き殺しかけてるあの大馬鹿野郎がどうかしたか、色男」
「……秀があんたにそう云ったのかい?」
「あいつがんなことを自分で云うわけがねぇ。だがあのやつれよう見れば…てめぇの仕業としか思い浮かばねぇだろうが」
 押し殺した声音に勇次が声を出さず嗤った。裏の仕事の用がなくとも、八丁堀は秀に会いに行っているのだ。ただ会うという目的を持って。
「そういうんなら。オレもちょっとばかりやつれたとは思わねぇかい?」
 ちらともう一度勇次に目をやった八丁堀も、会ったときから内心そうは思っていたのだった。
「…へっ。てめぇのは自業自得だろうが」
「・・・」
「と、云いてぇとこだが。てめぇの絶倫と、このオレと何の関係があるってんだ、え?」
「…秀が自分じゃうまく説明出来ねぇてんで頼まれた。あんたに訊いてみてくれと言うんでね」
「あん?何を?」
 ピリリとした亀裂がふたりが向き合う埃っぽい空気を切り裂く。八丁堀は勇次に対する敵意をすでに隠そうともしない。 他のことではまるで鈍重に構えて動じないこの男が、こと秀に関してだけは異なる反応を示す。前々から感じていたことながら、 勇次はあらためて、自分の知りえないふたりの過去の関わりにひりつく様な嫉妬を覚えたが、今日は秀に頼まれてこの男に会っている のだ。秀とともに自分までもが見舞われている厄難を払うため、背に腹は代えられない。
「あんたの知り合いに、按摩はいるかい?目はもちろん見えねぇが、見てもねぇのに不思議なことをいう按摩がいたと話していた…」
 意外な話が出てきたせいか、勇次に据えられた八丁堀の険しい眼光がいささか拍子抜けして鋭さを欠いた。
「按摩?不思議な……?…」
頭をひねって割れた屋根から見える空を睨んだが、腕組みしていた手をハタと叩いた。
「ああ…?!ひょっとして行雲坊のことか…?」
「オレは知らねえが。それで折り入ってあんたに頼みがあるんだ。その按摩に会わせてくれねぇか?頼む…八丁堀」
八丁堀は今やぽかんとして下げたくもない頭を潔く下げている勇次を眺めている。
「秀が…あんたとつき合いの長ぇあの変わった按摩だったら、憑きものを落とせるかもしれねぇと、そう言ってる…」
「…つき?ものを落とす…?……おい勇次、てめぇ、さっきから一体ぇなんの話をしてやがる?」
 答え方次第によっては、伝わる前に本気で切り捨てられそうだと、勇次は苦笑して肩を竦めた。 こんな話を信じて貰えるように説明出来る者などいるだろうか。勇次自身、秀から話だけ聞かされていても信じられなかっただろう。 あまりに秀らしからぬ振る舞いに接したことと、自分に寄せてくれていた秀の真心を知ったおかげで、どうにか信じられたものの。
「正直言って、オレもあんたに何からどう説明していいか迷うところだが…」
「もったいぶらずさっさと話しやがれ。オレも暇じゃぁねぇんだ」
 このいけ好かない二本差しの良いところは、話が早いという点だ。そこで勇次は、これまでの経緯をかいつまんで話し始めた。 秀のもとに女が目撃されていたこと、女が訪ねてきたこと、そして自分のもとに憑りつかれた状態で秀がやって来たこと…。 加代の口車にまんまとのせられた自分の過ちや、秀が女に言われた言葉など、八丁堀の耳に入れると下手に逆鱗に触れそうな 部分は大幅に端折った。とにかくこのままでは秀が女に憑り殺されそうな危険があるということだけ、伝わればいい。
「それで?あいつが憑っつかれてやせ細っていくのは分かったが、…てめぇが面やつれする理由(わけ)は何だ」
 鋭い。勇次はグッと詰まって目を宙に泳がせた。
「そ…。そいつはその、秀が女に憑りつかれてるときは、色々と執着がすごくて…」
「…。ふーん。いちいち相手になるたぁおめぇも案外律儀なやつだ。あいつが女なら、今ごろおめぇの子を孕んでるだろな。 ええ?色男さんよ」
 藪をつついて蛇を出してしまった。いつの間にか訪れている秀の発する淫気に中(あ)てられて、自分も操られたように睦み合う日が ここ頻繁に続いている。霊のせいにするのもどうかと思ったのであえて伏せておいたのだったが、この男に隠し事などしても無駄ということか。 誰よりもこの男には見せたくなかった正直な動揺を示す赤い顔を、八丁堀は面白くもなさそうに 一瞥すると、ぷいと背を向けおもむろに口を開いた。
「おう。行雲坊はそういう得体の知れねぇものをよく祓う按摩だ。やつに頼めばおそらく憑いたものを落とせるだろう…。 居そうな場所はおめぇに教えてやる。ただし、ひとつ交換条件といこうぜ」
 広い背中からはもう殺気は感じられない。しかしそれ以上に厭な予感を勇次は抱いた。
「交換条件?……」
「憑いたものを祓って元に戻れたら……。あいつから離れろ、勇次」
 秀との関わり方については、時おり気に障ることを吹き込まれてきたから、いつかまた何かを言われるだろうとは思っていた。 しかしここまでこの男に明言されるとは。最初の驚きが過ぎると次に沸き上がったのは、八丁堀に対する嫌悪だった。 こいつの言っていることは、まるで筋の通らない脅迫にしか聞こえない。
「八丁堀。オレは心底困ってあんたを拝んでるんだぜ。それを条件付きで取り引きたぁ、ちょぃと質(たち)が悪すぎねぇか」
「……」
「わざわざ誰にことわる必要もねぇと思ったから今まで言わずにいたが、オレはたしかに秀と番(つが)ってる。 が、なんであんたにそれを揶揄されたうえに止められなきゃいけねぇ。しかも交換条件だと…?笑っちまうぜ」
 言いはじめたら、これまでの不信感、不満が堰を切ったように口をついて出てきた。秀のいないところで、 なぜこの男が秀の意志を無視して進退を決める?なぜ自分たちふたりの間に立ちふさがる?
「裏の仕事に支障は出さねぇ。そいつは誓って守る。あんたが心配なのはそこなんだろ、八丁堀?」
 勇次が不快感を声に出さぬように低く尋ねると、背中で男がハッと嗤った。
「若ぇわりには物の分かったふうで、さすがはおりくの仕込みだと思ってたが。やっぱりおめぇはまだ青二才だなぁ」
 煽り文句に乗るまいと、勇次は辛うじて踏みとどまる。半眼開いた目はまったく笑っていないが口元だけ薄く引き上げ振り向いた 男に、静かに応えた。
「……あんたに、オレのなにが分かる…」
「だったら訊こうか。…おめぇに秀のなにが分かる?」
 一瞬瞬きをしたあと、勇次は下から掬うようにその視線をねめつけた。不覚にも声が出てこなかった。 勇次がなにを言えばいいのか言葉の見つからぬうちに、八丁堀が先に言葉を繋ぐ。
「あいつはな。誰かに惚れちゃいけねぇんだ。それがあいつのためなのさ…。会うんなら肌を合わせるだけにしておいてやりな」
 目の前の男は酷く冷たい目をしているにも拘わらず、意外なことを聞いた気がして、勇次の怒りがいったん緩む。煙管を取り出しかけて、 ここが密会の場であることを思い出したらしい男が、苦笑して顎を撫でた。
「…なぜだ?あいつだって血の通った人間だ。抱かれて、惚れて、なにが悪い」
 ぐらつきかけた己を立て直したつもりで、これだけ言うのが精一杯だった。なぜか八丁堀の言葉が異様な説得力をもって勇次のなかに 刻み付けられたためだ。あんたこそ秀のなにが分かるのかと逆に問い返してやるつもりだった。しかしそうすることの 虚しさに突如として気が付いた。それは直感…。
「一度云いてぇと思ってた…。八丁堀、あんたこそ…あいつを抱きたいんだろ。ほんとはこのオレにも渡したくねぇはずだ……」
 この男は、秀を誰よりも理解し、そしておそらく…愛している。実際に秀を手にしている勇次より、あるいは八丁堀自身よりも。 胸裏にぽっと鬼火のように浮かんで消えたその直感が、勇次に自らの禁忌へと踏み込ませていた。
「…オレもおめぇも、いつか死ぬだろ。あいつにはそれが分からねぇんだ。理屈じゃ分かってても、心がな」
 返す刀が勇次の胸を深くえぐった。秀を抱いたことを、浅はかな優しさに過ぎないと諭しているようだった。 表情を失くして立ち尽くす勇次を横目に見て、八丁堀がじゃあ、と踵を返す。
「行雲坊だが、いまの時期だと佃島の漁師小屋に仮住まいしてるはずだ。野郎、魚に目がねぇからな…。酒徳利も 持ってってやると張り切って仕事するだろうぜ」






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