猫 の 恋







 正直言って秀は、猫を可愛いと思ったことがなかった。
 むしろ、なぜか怖いと感じる。 たとえばふとした瞬間ジッとこちらに視線を据え、 飼い主と自分たちの為のものであるはずの場所に見慣れない人間がいるのを、 ガラス玉のような表面に映しているときなど。
 もちろん、いま寝間には自分たちふたり以外いない。秀が先にここに入ったときに居た白黒二匹の猫を、 後から入って来た勇次が部屋から出したところだ。
 優しく抱き上げ「よしよし。おやすみ、ミーコ」とヒゲの生えた口元にチュッと音を立てて接吻までする様子は、 見慣れないうちにはギョッとしたものだった。でもそうまでされた猫にしてみれば、 体よく追い出されたことにも気づかないかもしれない。
 勇次の猫好きは相当なもので、三味線屋の看板を出していながら母子そろって猫を可愛がっている。
「勝手なようだがよその猫は仕方なくっても、うちの猫たちはぜったい三味線にはしねぇ」
と大の大人の男が真顔で言うのも、猫に興味のない秀からするとかなり滑稽だった。
 ともあれ、その猫たちを寝所から追い立てても構わないくらいには、 勇次は秀との情事を心待ちにしていたらしい。 表情にさえおくびにも出さないが、そのことは内心秀を満足させていた。
 昼間にちょっと長屋に顔を出した勇次が、 母のおりくが八王子に引き込んだ旧知の隠居の元を急に訪ねることになったとか何とか、 謎をかけていった。いつもならば聞かなかったふりしてそのくせ一人枕を抱いて眠れずにいる秀だが、 今夜ばかりはちょっと気持ちが動いた。 酒屋で一、二杯煽ってからその酔いの勢いを借りてふらりと訪ねていったのだ。 少し前に裏の仕事で勇次が一瞬ひやりとさせられる窮地に陥ったことも、 なにか心理的に作用したのかもしれない。
 あいだに仕事で顔を合わせたとはいえ、 秘密裡に会うのはひさびさなんだからもう少し手加減をしてくれても良さそうなものを、 勇次はおかまいなしに秀を翻弄した。
 あんまり調子に乗るなと抗議しかけたものの、 誘いにのこのこやって来ているのは自分だ。 久しぶりの逢瀬は、正直懇ろすぎると云えるくらいな勇次の手練手管に解かされて、 秀は時のたつのも忘れていた。



 表と違う裏の顔といえば、自分たちの場合そのまま仕事人の顔をそう言っているわけだが、 それとは別に、この男にはもう一つの顔がある、と秀は思っている。 といっても、こうして仕事も他人をも介さない二人だけの時を過ごすようになって、 初めて知ったものではあるが。
 勇次はけっこうな甘えん坊だということ。誰も見ていないとさりげなく肩を抱いたり、 手に触れたりの行為も頻繁である。 それが別段いやらしくもいじましくも映らないのは、この色男のまさに役得と言える。 秀が長居出来るときには、 酒を飲んでいるあいだにふとゴロリと行儀悪く寝そべると膝枕をしてくれとねだってきたりもする。 こうして二人で過ごすのが愉しいのだと。
「バカ云ってんじゃねぇ。やることやらねぇんなら、俺は帰ぇるぜ」
 そうした時間を過ごすのに慣れていない秀が思わず頬を染めて顔を背けるが、 勇次は返事のかわりに秀の蓬髪に指を差し込み、よしよしと手櫛で頭を撫でるのだった。
「俺をなんかと勘違いしてんじゃ・・・」
 猫を日頃じゃらして可愛がっているのと、ほとんど変わらない気がして余計に秀は気に入らない。
「おめぇを猫と一緒にはしちゃいねぇよ、秀。なんならオレを可愛がるかい?」
「ばっ・・・かかおめぇ!?気持ちわりぃこと言うなっっ」
 とにかく勇次にしてみればこうした悪戯や言葉だけのいちゃつきも色事に欠かせぬ愉しみということになる。 しかし秀にはそういったところは、いまだになかなか馴れない。 女であればうっとりとなって、その後の臥所でのやり取りにも濃厚に反映されることだろう。
 が、自分をいったん胸の下に引き込んだ後のこいつの目ときたら。 秀は真っ向から見下ろしてくる切れ長の瞳を睨み上げつつ、肚のなかだけで呟くのだ。
 たった今までの甘ったるい態度はなんだ。オスそのものの目で俺を見てやがる。

 くたびれ果てて眠り込んでいたはずが、未明に不気味な声に起こされた。
 中庭の隅に面した障子ごしにグルグルと喉を鳴らす声がずっと聞こえている。 この時期はまだ雨戸を立ててあるが、その地を這うようなくぐもった唸り声はやけに長く続き、 秀の眠りを覚ましてしまった。
(猫まで発情してやがる・・・)
 自然に思ったところで、自分たちのやらかした一部始終がからだの重怠さと同時に脳裏によみがえり、 秀は暗闇でひとり赤面した。
 あれでほんとに相手を呼んでいるつもりかと訝るほど、不穏な猫の唸り声。 かと思えば唐突にその声は一変して切ない鳴声へと変った。 闇のなか、光る眼には視えているだろう相手に訴えかけるような。
 その呼び声は高く低く、夜に吸い込まれながらもやけに長々と続けられた。 とうとう背後の男までも起こしてしまったらしい。ん…というくぐもった低い吐息が漏れたと思ったら、 裸の肩に後ろからさっそく手がかかった。
「・・・今日はまた一段とさかってるみてぇだな」
 背中に口づけながらお前が言うかと秀は身を離そうとする。 寝ぼけていてもそういう勘だけは働くのか、腰に回った勇次の腕にグッと力が入った。
「―――おい。おめぇいい加減にしろ」
 猫のように鳴きはしないが、このオス猫は全身で訴えかけてくる。 秀の背中を悦びとも喜びともつかぬ甘美な痺れが奔り、文句を言う気丈な声がうわずりかけた。
「猫の恋」
 唇を秀の肩口につけたまま、勇次が呟いた。
「え?」
「猫の恋ってのは、春先だけじゃなくて年中起きるんだよ」
「・・・」
 猫の恋と言えばよほど耳に美しく聞こえはするが、結局は発情期だ。 互いに欲が高まったときに調子を合わせて手合いをする。子孫を残すために。
「猫とてめぇを一緒にすんな。メス猫は子を孕むために鳴いてるんだぞ」
 人間の、しかも男同士の自分たちにその目的はないから、いっそう始末に負えない。 でも互いの発情が惹きつけ合う。自分たちの関係とはそういうものだ。 恋という言葉すら、秀にとっては禁句であった。勇次と寝ているからと、恋と単純に繋げてはならない。
「秀」
「なんだよ」
「おめぇは猫が嫌ぇだからよく知らねぇんだな」
 その声には笑いが含まれていた。ムッとして秀は自分を抱き寄せる腕に手をかけ振り向こうとする。
「俺が・・・なにを知らねぇって?」
 暗がりで猫のように光る艶やかな目と至近距離でぶつかった。
「いま鳴いてるのはオスのほうだぜ」
「なに?」
「だからな。オスが恋しがってああして呼ぶのに、メスが応えてるんだよ」
 外では一度は止んだと思った鳴き声が、 今度はにゃあにゃあというやけに甘えた声に変じている。秀はゾッとした。これだから猫は恐いのだ。
「オスもこんな声で鳴くのか?」
「だな。切なく鳴いて呼んだかと思えば脅すように低く鳴きもする。 ―――もうすぐ恋が叶うらしいな、この調子じゃ」
 秀は胡散臭いというか薄気味悪い目つきで勇次を見やった。
「おめぇ、まるで猫の気持ちが読めるみてぇだ」
 ふふ、と勇次が笑い、逃げるのを諦めたらしい秀を自分のほうに向き直らせる。
「いや、読めねぇよ。ただ人も猫もおんなじだなと思って聞いてただけさ」
 秀は勇次がまた自分を相手に、女にするようないちゃつきを持ち掛けているのだと思ったが、 不思議なことにいまはそう居心地悪いとは感じなくなっていた。
「メスが気の毒だな。ああまでしつこく口説かれちゃ」
「大丈夫。先にメスが焦らして気を引いてやがるのさ」
 勇次が秀を本格的に抱き込むと、秀は無意識に喉をそらして降りて来た唇を受け止めた。 外ではやおら屋根を走る二匹の獣の鋭い物音が聞こえたかと思ったら、ピタリと静まりかえった。

 恋が叶ったらしい、
秀は胸のなかで呟いた。