r
|
月の船
次の満月の夜はあいにくの雨だった。 秀はひとり、あの丘に来ていた。丘といっても、町外れに広がる原野の中ですこしばかり隆起している草の茂みだ。 角兵衛獅子のこどもたちが毎晩のように香具師の小屋を脱け出して、並んで空を見上げていたその場所に、 一夜限りの興行のために設けられた小さな祭壇がそのまま残っている。 供え物を載せていた三方や瓶子などの小道具も蹴散らされて一面に転がり、冷たい冬の雨に打たれていた。 江戸を逃げ出す予定でいた悪党どもはよほど慌てていたのだろうが、 金さえ掴めればまた調達すればいいという目論みが見るも明らかで、秀は奥歯を強く噛み締める。 小道具の残骸のように、こどもたちも用済みとしてドサ回りの軽業一座や人買いにそれぞれ売り飛ばされた。 辛い毎日を健気に助け合って生きてきた、ひとりひとりの顔や声が思い浮かぶ。 興行は初めから茶番に過ぎなかった。 少年たちに脅し文句で言うことを聞かせ、 彼らが心の拠り所として慕うお照を月の船を呼ぶかぐや姫に仕立てあげたのは、 子どもたちの純粋な夢が見せ物になりそうだと当て込んだからだ。 見物人から事前に金を集めてしまえばこっちのもの。失敗は全てかぐや姫のせいにすればいい。 瓦版屋の口上に乗せられて奇跡をひと目見ようと押し寄せてきた群衆の怒声は、 年端もゆかない壇上の子どもたちに容赦なく浴びせられた。 誰かの一途な夢を喰いものにして踏みにじる。 それだけでも許しがたい所業であるのに、お役御免となったお照を、長次らは女郎屋に叩き売る前提で穢した。 一番年長とはいえ、まだ十二くらいの無垢な少女を。 それを止めようと男たちに向かっていった勘太もろとも、しまいには惨殺されてしまったのだ。 逃亡する前にひとり残らず外道を仕事にかけた後も、いまだに目の前が怒りと悲しみで昏くなる。 独りぼっちにならぬよう手を繋いでこと切れていた二人の死に顔のあどけなさが、 目の奥にこびりついて離れない。 角兵衛獅子の少女が落とした簪を拾ったことをきっかけに、秀はお照たちと知り合った。 ある晩目撃したのは、彼らが夜な夜な丘の上で行っている秘密の儀式だ。 香具師の親方に、奴隷のようにこき使われ虐げられる苦しい身の上から逃れるため、 お照は空想の世界で月から船が助けに来ると信じていた。そんなお照に導かれ、 他の子どもたちもまた月に向けて懸命に祈り続けていたのだ。 優しい少女の声で、一心不乱にただひたむきに心からの願いを籠めて語られるその夢。 本当に久しぶりに「夢」という言葉を秀は耳にした。 それほど長く、夢見ることを忘れていた自分にも気づいた。 夢がないと生きていけない。 自分も昔、そう思い詰めていた頃があった。誰のことも、世の中の正しさも信じられない。 そんなとき、夢だけが秀の心の逃げ場所だった。 子どもたちの境遇は、自らの過去と重なる。月見と称して秀は毎晩丘の上に通いだした。 当初の目的は、食事もろくに貰えていない子どもたちに握り飯を食わせてやることだった。 だが結束の固い彼らの警戒心を解くため、一緒に月の船を呼ぶ仲間に入れて貰ううちに、 少しずつみんなの夢に感化されたようだ。 あんちゃんの夢はなぁにと不意に訊ねられて、ちょっと困りながらも唇に乗せた夢は、 大の大人が口にするには余りにも幼稚だったかも知れない。 だが、安心できる居場所が欲しいという想いは、子どもたちの嘘いつわりのない純真さに触れて、 自然に引き出されてきたものだ。声に出して言ってみるだけで夢が本当に叶うような気がする。胸の奥に温かなものが広がった。 「ひとりぼっちからさよならしてぇな・・・」 月の出る方角の空を眺めて、秀はもう一つポツリと夢を呟いてみた。 「夢を見ねぇやつは、生きてて死んでるやつだ」 隣人の夜歩きを怪しんで尾けてきた加代に、思わず厳しい口調で口走っていた。 見られてしまった気恥ずかしさも大きいが、夢で腹はふくれないと言わんばかりの常に現実的な加代の態度に、 反発したのも事実だ。 その腹いせか、秀の夜回りはあっという間に仲間内に言いふらされてしまった。 八丁堀は端から歯牙にもかけないのは当然として、 ままごと遊びと馬鹿にしていたくせに、加代が憤慨する理由がよく分からない。 また順之介はといえば、お照くらいの年頃の少女に見られるある種の強い思い込みだとか小難しい持論を述べたが、 念じて月からの船が呼べるという話には加代同様に懐疑的だった。 (そんなのどっちでもいいじゃねぇかよ) 秀は腹のなかで反論する。そんな不思議な力をお照が持っているにせよいないにせよ、 肝心なことはそこじゃない。 二日後、別件の仕事のつなぎで三味線屋と顔を合わせたときも、秀は子どもたちのことが気になって苛立っていた。 親方の長次はお照たちが自分に何か隠しごとをしていると疑い出してから、不穏な動きを見せている。探りを入れるか。 しかし表向きは長次はれっきとした彼らの雇い主だ。下手に刺激すれば、飯抜きどころかもっと酷い暴力に合わされるかも知れない。 ため息を飲み込んだとき、頬の辺りにふと視線を感じて顔をあげると、 壁に背を預けた勇次がまだ残ってこっちを見ていた。 「?なんだよ」 「気になるか、秀」 「は?なんのこった?」 思わず喧嘩ごしになる。どうせ加代に面白おかしく聞かされているんだろう。先回りして見抜かれたことにカチンときた。 「どうせおめぇもガキの夢なんか真に受けて笑わせんなって思うクチだろ」 返事代わりにいつものごとく鼻先で受け流されると思っていた。 身構えたが、予想に反し勇次は否定するように軽く首を横に振ってひとりごちた。 「甘いだけが夢じゃねぇよな」 秀はその白い貌を睨みつけ訊き返す。 「どういう意味だ?」 勇次はどこか遠くを見る目つきをして一瞬黙したが、 「その娘にはたしかに視えてんだろう、船が」 「・・・え?」 いつもの淡々とした冷たい声だが、 そこには他の連中の言葉のなかに滲む半笑いの皮肉を感じなかった。 月の船なんて所詮は想像の産物、本物が現れるはずがないのは誰しも分かっている、と。用心深く秀は重ねて訊いた。 「おめぇはお照の夢を信じるってのか?」 勇次は秀の顔を振り返ると、胸の前で腕を組んだまま答えた。 「自分にソレが視えれば、辛ぇ現実から仲間を守れると信じてるんだろうからな」 秀は黙って切れ長の目の底をさぐった。この透徹した迷いの無さを、 お照のつぶらな瞳の奥にも見出したことを思い出した。 「お照に特別な力があるとすれば・・・。それは本気で夢を見せる力じゃねぇか」 月からの船がいつか必ず迎えに来てくれる。 辛い毎日をどうにか生き延びるただ一つの手段は、夢にすがることだけなのだから。 『お月様、あの船は私を迎えに来たんですか。助けに来たんですか。 それだったらもう一度来て下さい。そしてこの子たちも一緒に乗せて下さい。 この子たちも私と同じ親無しっ子で、不幸せで。どっか遠くへ行っちまいたいんです』 打ち捨てられた祭壇の前で膝を抱き、あの忘れられないお照の月への悲痛な呼びかけを思い出していた。 結局は自分は誰一人として救ってやれなかった。彼らの見た夢に、わずかなりと近づけてやりたかったが・・・。 仲間内で一番幼いのにやたらかしこく落ち着いていた少年。 一座に連れられて江戸を発つ前に、人の目を盗んで秀の長屋に駆け込んできたのを見つけた時の衝撃。 両腕で奪い取るように抱きあげて部屋に入れると、あの子は我が身の助けを求める代わりに黙って手の平を広げてみせた。 そこには以前親方から貰った微々たる銭。懐柔するためのほんの飴玉代の小遣いだったが、 それを秀に残らず渡してきた時の目を見てハッとした。 その銭は他のみんなの分も入っているのだと。 もう二度と逢えないお照と勘太のために、残された子どもたちは今や最後の夢を、 短い間でも一緒に月の船を呼んだ秀に託したのだ。声にならない慟哭をこらえて秀はただ頷き、 すばしっこく元来た場所に戻ってゆく小さな後ろ姿を見送ったのだ。 深い物思いに沈んでいたので、蕭々と降りしきる氷雨がいつの間にか止んでいることにしばらくして気が付いた。 否、目の前の荒れ野は黒々とした闇が続くばかりで、そこには肉眼でも小止みない雨の線が見える。 ハタと仰向けば、自分の上に番傘の骨組みが目に飛び込んで来たではないか。 「っ・・・え?え」 よもやの事態に秀は思わずまぬけな声をあげて振り返る。いつの間にか背後に立って大判の傘を頭上にかざしているのは、 見知った男だった。 「!!な、なにやってんだおめぇ!?」 提灯の灯りにすら全く気がつかなかった。ちらちら揺れる炎は今しも消えそうにも見えるが、 長外套を着た体の前でうまく雨風から避けていた。全体はよく見えないが、それでも男の正体は見間違えようもない。 また、この悲しい場所をもう思い出す者は仕事人仲間以外にいるはずないのだ。 秀の動揺と混乱をなだめるように、軽く笑いを含んだ声が濡れた耳元を打った。 「おめぇのことだからな。今夜はここにいるんじゃねぇかと思って見に来たら、あんのじょう濡れ鼠をみっけたよ」 砕けた口調だったが、それが余計に秀の胸を揺さぶった。 こんな雨の夜に、月どころか真っ暗な雲で塗りつぶされた空の下で、 悲しい夢のかけらを捜しに来た無力な自分と、それをお見通しでのこのこ探しにきたお節介野郎と。 「・・・。おめぇってけっこうバカなんだな」 いったん気を取り直し憮然と呟くが、 「そういうおめぇは、ここで月の船を待つつもりでいたのかい」 返されて秀はがっくりと膝の間に顔を埋めた。 「・・・俺ひとりきりじゃ・・・もう船は呼べそうにねぇや」 みんなで手を繋いで月に向かって目を閉じて呼びかけた幾つかの夜。 手の中に収まる小さな荒れた手のぬくもりが愛しくて、心の中で懸命に繰り返した。 (お月さん。どうかこいつらの希望を奪わねぇでください。みんなで暮らせる家と畑を持つ夢を、 月の船の代わりに、いつか俺がかなえてやりてぇんだ・・・) 漠然と頭のどこかでそんな夢を秀は思い描くようになっていたのだ。もう誰も不幸にしない、 ひとりぼっちにならない。そんな居場所を自分が作ればいい。お照にはみんなの母ちゃんになってもらい、 力を合わせて働こう。そして俺はあの仕事から完全に足を洗い、平凡な錺職人として生きるんだ・・・。 月の船が本当に姿を見せるくらいには夢また夢のような夢を、あれほどはっきりと胸に映し出せたのは、 やはりお照の不思議な力のせいだったんだろうか。今となっては、目の前の小止みない雨の荒野のなかに、 秀はまたぽつりと取り残された気がしていた。 沈黙が続くなか、傘に落ちる細かな雨音とゆるい風が草木を揺らす音だけが響く。 秀は無言でのっそり立ち上がる。後ろの男にいまの表情を見られたくなかった。 「じゃあな」 顔をそむけたままぽつりと言ってその場を離れる。数歩歩いたところで勇次の声が引き留めた。 「船が呼べなくても、おめぇは今ひとりぼっちじゃねぇだろ」 秀の足が思わず止まる。何のことかと問い返そうとして、ふと息を詰めた。近づいた勇次が秀に提灯を差し出したのだ。 考える間もなく受け取っていたのは、提灯の灯りが勇次の白目に下から反射して艶めくさまに一瞬気を取られたからだ。 青みがかった眼差しがまっすぐに秀をとらえていた。 「ひとりで濡れて帰るな、秀」 耳元で囁く低い声に背筋がぞくりとした。傘を二人の上にさしかける勇次の空いた方の手がゆっくりと上がり、 水滴のしたたる秀の乱れた前髪を掻き上げる。 以前にもしたことがあるかのような、ずっとそうしたいと思っていたかのような、ごく自然な手つきだった。 冷えて固くこわばった自分の頬に思いのほか熱をもった手の平が触れ、 秀は無意識に頬を濡らしていた雨ではない温い液体を勇次の手がぬぐう感触に、ぼんやりと身を委ねた。 立ち去る間際。最後に一度だけ振り返る。そこにはもう彼らのいた気配は完全に消え失せて、 ただの寂しい丘があるだけだった。 今ごろ、お照と勘太は月の船に乗って遠い夢の国にたどり着いているはずだ。 そうして、散り散りになった少年たちの呼びかけに今度こそ応えて、彼らを救うために月から降りてくるのかも知れない。 罪を犯したことのない者たちだけが迎えられる聖なる船に、自分が乗ることは出来ないだろうが・・・。 長身の男二人で入るには、大判の傘であってもさすがに無理がある。互いにはみ出た片袖を濡らしながら、 それでも傘の内側で触れ合う肩の存在を、秀は夢よりも近い距離で感じていた。 了
小説部屋topに戻る
|