犬猿の仲
ひとけの無い道祖神社の裏庭に呼び出された仕事人の仲間ふたりがそれぞれに現れたのは、 石灯籠の台に腰掛けた主水が、浅草は鶴屋のよね饅頭の包みを膝の上に広げて、いざかぶりつこうとしたその時だった。 各々反対側の方角からやって来たものの、示し合わせでもしたように同時に現れバッタリと向かい合った秀と勇次は、 互いの顔を見るなりピタリと足を止めた。 猫が全身の毛を逆立てるように双方急激に殺気立ったのが、真ん中に座った主水にもはっきりと空気で伝わった。 「おい、八丁堀!呼ばれたから来てやったが、キザ野郎も来るとは聞いてねぇぜ!」 三、四間ほど離れて対峙した男を、黒目がちの瞳で上目遣いにねめつけながら秀が尖った声を発すれば、 「まったくだ。こいつも一緒だと知ってたら、店に回ってくれと言ってたぜ」 徒な目元に普段にはまるで見せない険を浮かべつつ、売り言葉に買い言葉で勇次も投げつける。 ふたりは呼び出した張本人である主水を一瞥すらせず、 出会い頭に目を合わせてしまった相手に負けてなるものかと、ひたすらガンを飛ばし合っているのだった。 「―――いい加減にしねェか、テメェら!!」 その為の説教および仲裁の為に今日は呼び出したというのに。 あまりにも大人げない若い男同士のつばぜり合いを目の当たりし、主水はうんざりして声をあげた。 柳橋に張り替え処ののれんを出す三味線屋が仲間に加わってからこっち、錺職人の機嫌はすこぶる悪い。 金で雇われ他人の命と引き換えに、あの世に持っていけない恨みを晴らしてやるこの裏稼業。 仕損じれば己の身の破滅に繋がるだけに、徒党を組んだ仲間内ですら互いに腹の探り合いになるのは至極当然として。 勇次の底の知れない醒めた眼差しと、酷薄な美貌が裏付けるかのような冷淡な態度には、 最初から一筋縄ではいかない野郎だとの印象を持っていた。 案の定、仕事の腕は一級だが、どうにも思い通りにはならない扱いづらい男だった。 それでもまあ、遊び慣れているだけに世情に通じた勇次は、なんといっても分別のついた大人の男のはずである。 主水としてはそこに一定の安心を寄せられる。 情を優先させたり、個人的な考えから一人足並みを乱すような愚かな真似をするとも思えないからだ。 問題なのは、もう一人のほう。 付き合いの長さから言えば、錺職人の秀とは元脱藩浪人の畷左門と組んでしばらく仕事をした仲だ。 左門が仕事人から足を洗い娘とふたり江戸を出たのを機に、にわか一味は解散し、秀もいずこともなく去っていった。 それから約三年もの月日が過ぎた頃、市中見回りの最中、乞食寸前までおちぶれた元情報屋のお加代と偶然に再会した。 加代のたっての願いもあり、後日河原で元の仲間三人で落ち合うことになったのだ。 その際、加代よりも先に忽然と現れた秀を見た瞬間、主水の中で妙な感慨が沸いた。 この危なっかしい無頼漢がまだ元気に生きていたことに対してだ。 これまで関わってきた仕事人のなかでも、こいつは特に若く拙い、しかしだからこそ妙に気にかかるヤツだったからかもしれない。 『いつの間に江戸に戻ってやがった』との主水の挨拶代わりの質問にも、相変わらずの無愛想で答えようともしない。 が、久々に見るその陽に焼けて痩せた横顔には、組んで仕事していた頃よりも幾分、表情に落ち着いた翳りが認められた。 なるほど、このガキもあれからさらに世間を知り、少しは大人になったてぇことか。 主水は口に出さないものの、そうしたしおらしい変化を秀の成長と受け止めて、どこか身内の情に近い可愛げすら感じていたのだった。 加代が持ち掛けた再結成の話を即座に却下した二人だが、 その後主水の知り合いの女が、高い火の見やぐらから投身自殺を図るという事件が起きた。 しかも昼の日中、大勢の野次馬が集まり見守るなかである。 若い時分、宿場町の旅籠で安女郎をしていた頃に客と心中を図って生き残り、晒し刑を受けていた過去があったようだ。 その土地に居られず江戸に出て遊女を続けるうちに良い旦那に見初められ、年季明けに妻として迎え入れられたが、 周囲にひた隠しにしてきた過去を、当時金貸しとしてその界隈を仕切っていた男に気づかれてしまった。 恩義ある旦那に過去をばらされたくなくば、悪事に加担するよう迫られる窮地に陥り、絶望したが故の痛恨の身投げだった。 幸薄い女が血のにじむ思いでやっと掴んだ幸せを踏みにじり、 無残な死に追い込んだ外道の金貸しとその仲間を、おれの手で仕事にかけてやる。 主水がごく私的な理由から、一度きりの仕事をしようと決意を固めた頃。 三人の前に現れた仔細ありげな三味線屋母子のとりわけ母のほうから、今度の仕事に加えて欲しいと異例の要請を受けた。 かくして、初見にして一分の隙もない華麗な母子の殺し技を目の当たりにした主水たちは、 この邂逅をきっかけに再び徒党を組み、裏稼業を手掛けてゆくことになった。 ここまでであれば、仲間が増えたとはいえ面倒なことは特に無いように思えた。 何より上方辺りで元締めを務めていたこともあるおりくは、仕事人の筋をきっちり通す女のようだ。 敵に回せばこれ以上にないというほどの危険な凄みが、物静かで艶なる佇まいからもじわりと匂いたつ。 久しぶりに手掛けた殺しの後で、日常にたるみきった感覚を手っ取り早く引き締めるには、こういうのが仲間内に居るのがいい、 とひそかに思ったくらいだ。 だがおりくはほどなく、ある事情の為に江戸をしばし離れることになる。 己はそうしながらも、血の繋がらないが血以上に濃い絆で結ばれた息子を、主水に頼みますと言い置いて去っていった。 おりくの一方的な頼みに戸惑い迷惑がりつつも互いに年が近いせいか、主水には長くこの修羅の道を歩いてきた女の言葉が、やけに身に沁みた。 ふと、あの粗暴に見えてその実だれよりも傷つきやすい一匹狼の若造に抱く己の感情と、少しばかり重なって感じられたからかも知れない。 (面倒だが、そのうち戻ってくるまではまぁ仕方ねぇか……) そんなわけで主水はあまり気の合わない奴と肌で感じつつも、おりくの顔を立てる程度には、 勇次のことも気をかけてやるつもりでいたのだ。 雲行きがあやしくなって来たのは、じつにそれからだ。 それぞれ疑心暗鬼を腹に抱いたまま、仕事の腕にのみ『信』を置いて共に仕事を手がけてきた筈が、 秀の様子が徐々におかしくなってきた。ことあるごとに勇次と競うような態度を取ろうとする。これは誤算だった。 母子が一味に加わることを告げたときには、ならば俺が降りると突っぱねられることもあろうとの主水の予想を裏切り、 もの言いたげにこっちを睨んだのみで何も言わず受け入れたくせに。 おりくに関しては格の違いを早々に認めたせいか、特に突っかかることはしなかった。 秀の矛先は、年の近い勇次にのみ集中している。おつにすました気障な色男ぶりもさながら、 三味線の糸を自在に操る仕事ぶりにも、どうやら対抗心をくすぐられているようなのだ。 出会い方からして剣呑だったとは、駆け付けた秀のおかげで勇次に指を落とされずに済んだ加代から聞いた。 紆余曲折のちに仲間になったが、ただでさえ因縁のついた相手のことを、負けん気の強い秀が意識しないわけがない。 それでも勇次のほうが大人であればまともに相手にもしないだろうと、主水の方では勝手にそのつもりでいたのだ。 秀もそのうち目の敵にするのにも飽きるはずだ。 が、この予想が大きく外れた。 仕事を手掛けることが何度重なっても、秀は一向に勇次への敵視を止めようとはしない。 それどころか少しでも主水が勇次をアテにするような素振りを見せると、秀のほうが面白くない顔つきになり、 あいつに頼むくらいなら俺がやるとムキになる態度を取るのである。 ちょっとは大人になったかと思えば、これでは元の木阿弥ではないか。 さらに主水を困らせたのは、これまでどんな厭味をぶつけられようがあからさまな不信を見せつけられようが、 涼しい顔で受け流していた勇次のほうでも、秀に少しずつ感化されるかのように大人げない反応を表し出したことだった。 「何もあんたがイラつくことは無ぇだろ」 加代が居ないとなると、これは裏の仕事に直接関わる話ではないと察した勇次が、主水の唸り声を軽くいなす。 「で、こんな寂しい場所にオレとこいつだけ呼び出して、一体ぇ何の用だ?」 返す刀でいかにも迷惑そうに『こいつ』と顎をしゃくって目の前の男を指し、ぞんざいに訊ねた。 「む。そ、それはだな―――」 口いっぱいに頬張った饅頭の半分を慌てて咀嚼している間に、三味線屋の態度に早速カチンと来た秀が追い打ちをかける。 「そうだぜ八丁堀。こんなのと雁首並べて何で呼ばれなきゃなんねぇんだっ。俺ぁいま依頼の品で忙しいんだよ」 「あぁ、そりゃあもう分かってる。悪かったな、秀。それで―――」 ようやく呑み込んで続きを言おうとすると、すかさず勇次が秀の当て擦りに応戦した。 「忙しいのはそっちだけじゃねぇさ。オレはこれから女と約束があったんだぜ」 「あ、あぁ。勇次、そりゃぁおめぇには悪かったな。だから―――」 ただ野暮用とでも言えばいいものを、これまた忙しさを強調する秀に対抗すべく割り込んだからたまらない。 一瞬、苦いものを無理やり口に押しこまれたかのように顔をしかめた秀が、キッとして真っ向から勇次に食って掛かった。 「はっ、誰もンなこと聞いてねぇよ!真っ昼間からチャラチャラいい身分だな。だったらとっとと失せやがれ!!」 ようやく当て擦りからまっすぐ喧嘩を売られ、秀の怒りに食いつかれた勇次の切れ長の目に、 なぜだか打てば響くように生気がみなぎるのを、その時主水は認めた。 (?いったい何だってんだ、こいつら―――) 「正直に答えてやっただけさ。おめぇと違ってオレは妙な意地なんざ張らねぇからな」 「なっ……、俺のどこが意地張ってるって?言いがかり付けんじゃねえ!!」 「張ってるじゃねぇか。くやしそーな目つきでオレのこと見ただろ、さっき」 「みっ、見てねえよ!!!」 「お、おい二人共――――」 「妬いてると素直に言やいいものを……」 「だっ―――だ……だ」 言ってる内容の意味はさっぱり判らない。が、いったんは蒼褪めた後でみるみる首から上に血を上らせてゆく秀の方が、 どうやら劣勢気味のようだ。食いかけの半分も平らげた主水はようやくもごもごするのを止めて、 胴間声で仲裁に割り込んだ。 「はいっっっ!双方それまでぇっっ!!やめぃっ!」 やっとうの他流試合のように素っ頓狂な声がかかり、 応酬し合っていた二人のほうが白けた顔で口を噤んだ。 「―――あのなぁ。てめぇらさっきから黙って見てりゃ、なんだそのガキみてぇな喧嘩は!?」 いつものほほんとした口調の主水がたまに説教を垂れると、勇次の方は鼻先で笑いつつそっぽを向き、 秀は秀でちょいとばかり悔しそうな神妙な顔になる。互いに反対方向を向いた二人を交互に見比べつつ、主水は続けた。 「分かったぜ。理屈理由なんざてめぇらには関係ねぇんだ。とにかく互いが目障りで目障りで仕方ねぇんだろ。そうだな、秀?」 まず訊かれた秀は、面食らってぱちぱちと瞬きしたが、 「……だってよ!こいつがムカつくことばっかり言いやがるから―――」 口を尖らして訴えかける秀の声に、振り向いた勇次の不服そうな声が被さる。 「違うね。オレはつとめて友好的に話しかけようとするのによ、こいつがいちいち突っかかってくるから―――」 「突っかかってねーよっ。てめぇのしらじらしい態度が悪ぃんだ!」 「じゃ、どうすりゃおめぇの気に入るんだよ?白けて冷てぇのはおめぇだろうが」 またしても一戦おっぱじめそうな二人を、 慌てて主水は大きく両手を広げて『落ち着け、落ち着け』といった仕草を繰り返した。 「だ・か・ら!そういうのがガキの喧嘩だっつってんだよバカどもが!! いいか! もう加代が仕入れてきた仕事のネタがあるんだ。今さら抜けようったってそうはいかねぇぞ。 てめぇらが組んでカタつけなきゃならねぇ場数なんざ、これから先もゴマンとある。腹ぁくくれ。 おれらは結局、一蓮托生だけが命綱なんだ!」 珍しく飛び出した主水の叱責はもっともなことだったので、若い二人は言い合うのを止めて鼻白む。 こういうところは何も言わずして呼吸(いき)が合っているのに、喧嘩とはおかしなことだと内心でちょっと思ったが、 口を噤んでいるうちに急いで言うべきことは言い切ってしまわねばなるまい。 人としてどうにも好きになれない相手でも、仕事人として出会ったからには意味が違うと主水は力説する。 「仕事ってのはな、まったくの独りじゃ無理だ。誰かと組まなきゃやれねぇ。 加代だってああいう嗅ぎまわる役がいてこそ仕事のお膳立てが出来るわけだからよ。そこんとこはおめぇらにも異論はねぇよな、ん」 裏の仕事はあたかも櫓の無い小舟に乗って暗い水の上を行くかの如く。 その小舟の上で争い合っていても、所詮沈むときには皆同じ水の底だ。 舟が沈んでしまわぬよう、それぞれが勝手な方角を目指して虚しく同じ場所で水を掻き続けることの無いよう、 絶妙な均衡とかじ取りをしながら目的地を目指して進むしかない。 そのかじ取り役として一番年長の自分がいるわけで、 てんで勝手な主張をしたがる奴らを脅したり宥めすかしてどうにかまとめ上げてゆくしか、全員が生き延びる術はない。 「おれの言いてぇのは仕事と私情は切り離せ、それに尽きる。歩み寄って理解し合えと言ってるわけじゃねぇ」 「……」 「……」 勇次も秀も疑わしい目つきでじろっとこっちを見た。 だったらわざわざ呼び出される意味はあったのかとふたりの目が物語っている。主水としては、 とにかくおりくが江戸に舞い戻って勇次を制御するまで、面倒な仲間割れだけは避けたいとの一心だった。 「おめぇらが互いにいけ好かねぇと思い合ってんのは傍から見ててもよっっっく分かる。 ま、俗にいう“犬猿の仲”ってやつだろうな。とにかく相手のやることなすこと全部気に食わねぇんだろ。 そんで逆に互いのことが気になって仕方ねぇと」 こんなに相性が合わない者同士が手を組まされるのはたしかに不運としか言いようがない。 が、このふたりが思い切り嫌い合っていること自体は、裏稼業に関係ない話だ。 仕事の件で顔を合わすたびにいちいち小競り合いに発展させるわけには行かない。 喧嘩両成敗という。 次にどっちかが煽るようなことを言うならば、このおれが相手になるぜ、と主水はふたりを前にドスを利かせた声で脅しをかけた。 まとめ役としてこのくらいの牽制をしておけば、こいつらも気が殺がれてそのうち落ち着くはずだ。 「よし、分かったな、秀」 これに関して一番の問題児に声を掛けると、しばし腕組みして沈黙していた秀は間延びした声で返事した。 「―――ふーん。犬猿な……。そうか、たしかに―――猿っちゃぁ、猿だ」 主水の言葉の揚げ足を取るように、皮肉な笑みを口の端に刻んでこっちを見ている秀を見上げる。 なにがおかしいのか、秀は独りで珍しくクスクス笑いだした。不気味な視線を当てていると、嬉しそうに訊き返された。 「三味線野郎をこれからは”猿 ”だって思ってりゃいいってことだな、八丁堀?」 猿と言われた側に視線を移すと、勇次は懐から出した右手でかったるそうに顎のあたりを掻いていた。 秀の横顔に斜め後ろからちらりと流し目を送る。秀が知らん顔していると、やがて抑揚のない低い声で呟いた。 「―――オレが猿?じゃ、おめぇは犬か、秀……」 止めるまもなく、言った傍から秀がゆっくりと勇次に向き直る。 さっき秀に喧嘩を売られた時の勇次と同じで、黒目がちの瞳がどこか食いつくようにらんらんと輝いているのに、その時主水は気づいた。 (だから―――いったい何なんだ?こいつら―――) さっきよりも近い距離に立ち、 似た背丈の両者がヒタと相手と見つめ合う様は、実に絵になる二人組だというのに。 「知るかよ。けど勇次、おめぇが猿なのはホントじゃねぇか。会えば腰ばっか使いやがって。このエテ吉」 冬の入り口にしては風もなくやけに暖かな晴れの日だったが、秀の投下した一言によって、 ひとけのない裏庭には霜が降りたような冷気が広がった。 「―――。はーん、そーゆうことか……。 猿で上等だ。だがな、おめぇの方もそう言われてみりゃたしかに……犬、だよなぁ?」 自分でもそう思わねぇか?と端唄でも口ずさむような愉し気な声で尋ねている。もはやどっちが先に煽ったのか、 傍から聞いている主水にも分からなくなってきた。 剣呑なのに殺気とも違う、これまで感じたことのない二人の漲る気迫がその場を圧していて、 主水は金縛りに遭ったように石灯籠の台から動けない。目を見開いて呆然と二人の謎めいた会話の進行を見届けるしかなかった。 「たしかに?おい、俺のどこが犬だってんだよ?ああ?」 顎をくいと上向きにすると憎々し気に秀は言い放つ。すると勇次はキラキラと燃え上がる秀のつややかな瞳を受け止めたまま、 さらりと優雅にとんでもないことを回答したのだ。 「咥え込んだら放さねぇのが、犬そっくりじゃねぇか。―――キュンキュン可愛く鳴くのもな」 降りていた霜が薄氷を張るまでに厚くなり、その場の空気はいたたまれないほどに冷え込んだ。 「―――――……おい、猿……」 「なんだよ、ワン公」 「いっ……いい気になってんじゃねーぞっ。いつまでもてめぇを調子づかせちゃおかねぇからな―――忘れんな……!!」 上がりかける呼気の乱れを何とか抑え込み宣告する、秀の上ずった声が羞恥と屈辱に震えている。 三味線屋の色悪は、それを聞くなり我が意を得たりと言わんばかりににやりと白い歯を覗かせ、 「あぁ。忘れるもんか。いつでも相手になるぜ」 まるで暴れ出しそうな犬の首根っこをやんわりと掴み、喉元を指先で撫で上げるようなねっとりした目つきになって、 やたら熱意のこもった声で応じた。 ――――と。 完全にふたりだけを包み込む熱気に一時は凍てつく世界も解けかけたが、 「……てめぇら、」 すっかりその存在を忘れ去られていた男から発せられた、 地を這うかのごとき声とすべてを覆い尽くす勢いで放たれた強力な殺気のせいで、 裏庭はこれ以上にないほどぶ厚い氷の下に閉ざされてしまった。 「……まっさかぁ……と思ってたが――――。そう、だったのか……やっぱり――――」 「……ぁ……。あ、……ぇ、っと」 恥を通り越して恐怖のあまり、紙のように白くなった顔で何かを言いかけた秀の喘ぎは、 主水の一瞥の元に喉の奥に引っ込んだ。さしもの三味線屋も真の素顔を覗かせた二本差しを見るのは初めてで、秀以上に石化している。 しばし耳も痛いほどの沈黙が続いた。誰も何も言わない。鳥すらも鳴くのを遠慮してくちばしを閉じているようだ。 時間にしてみればほんの僅かな空白だったろう。 しばし心の迷宮を彷徨い、主水はなんとか現実に舞い戻る出口を見つけて浮上してきた。 「はぁぁあああ……。なんか……ドッと疲れた……」 体内から内臓まで脱け出そうな深いため息を長々と吐き出す。この世の条理と隔たった物凄く遠いところまで強制的に運ばれ、 還ってきた気分だ。 さっきまでのまとめ役としての威厳など跡形もなく消え去り、完全に表情の欠落したいつものむくんだ顔を俯かせたまま、 まだ「あー」とか「何でだろう」とか口の中でぶつぶつ繰り返しながら、膝の上に広げた菓子の包みをやけに丁寧に包みなおしている。 やがて重たげにどっこいしょと腰を上げた。軽く伸びをして首を回し、腰に差したものの位置を治した主水は、おもむろに裾を捌くと、 氷の像となって動けないふたりの方にゆらりと歩み寄る。 殴られると思った子供のように、思わず秀の肩が揺れる。 そこにやや乱暴に己の強肩をぶつけると、伏し目の視線は地面に落としたままぼそりと言った。 「―――やるよ。猿と二人で喰え」 半纏の懐に二個残った饅頭をぐいと押し込み、雲を踏むような覚束ない足取りで後もみずに歩き出す。 「……」 「……」 裏庭から庫裏を回りこんで表へと出る曲がり口で、煤けた羽織の背が急に大きく前屈みになった。 その背後で恐る恐る、ちらと互いの顔を見合わせるも未だ動けない犬と猿の耳に、 堪えきれずに爆発させた盛大な笑い声が届いた。 「―――おい。なぁおい――。きっちり仕事―――して呉れりゃ、こっちは何だって―――かまわねえ」 時おり過呼吸気味に笑いにむせながら、飄々と間延びした声が言う。 「――――だがな……今後二・度・と―――――、おれの前で惚気(けんか)してみせやがった日には……」 そこで右手を高く振り上げて虚空を剣でぶった切るような仕草をすると、 行き場を失くしたその手で、後頭部の下あたりをピシャピシャ叩きながら、主水の姿が見えなくなった。 どうやら、一時的に上がりすぎた血の気を下げる為らしい。 残された犬猿の仲のふたりは、遠くからまだ続く笑いの発作が聴こえなくなるまで立ち尽くしていたそうな。 ……まとめ役もいろいろ大変である。 了 了
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