先に帰った客間の後片付けに上がってきていた女中にそっと声をかけ、細く開けた襖越しにこのまま泊まると伝えた。 若い男がふたりでやって来て、最初の注文から酒の追加すらなく泊まるとは、と思ったかどうか。 少女からやっと抜け出たばかりといった年若い女中は、ちらと胡乱な目つきで秀を見たが、 さすがによく躾けられているらしく「へぇ」とだけ素直に言って夜具を届けてくれた。 少しの酒と行灯に火を分けて貰って衝立の向こうに戻ると、すでに起きて身支度をしていた勇次が振り向いた。 「すまねぇな」 勇次の顏にも色濃く疲労が滲んでいる。しかしその表情は憑きものが落ちたようにすっきりとして見えた。 秀は窓辺に寄って障子を開けると、あらたな酒の盆を置いた。緩い風が入ってきて、室内の澱んだ空気を入れ替えてゆく。 勇次も近くに寄り、ふたりはしばし気だるい余韻に身を任せぼんやりと酒を口にしながら、黙って水の音を聴いていた。 「―――すまねぇ、秀」 やがてポツリと、勇次が口にする。 横目で見やると、胡坐をかいた膝の間に落とした手を見つめるように広い肩を落としていた。 「さっきから二度も、なんだよ」 「だって・・・」 らしくない言葉を吐いてようやくこっちを見た勇次は、ばつが悪そうにまた目を逸らし、人差し指でこめかみのあたりを掻いた。 「オレはおめぇに酷ぇことをしちまった」 「・・・酷ぇこと?―――コレのことか?」 秀は無造作に帯をとき、下に何も着けずにはおっただけの半纏を脱いでみせた。 というのも、本当はさっきから布地が当たるたびに肩口がずきずきと痛んで邪魔になっていたからだ。 食いちぎりまではしなかったものの、噛み口は血が止まった後に腫れはじめた。いまはその周辺までもがどす黒く鬱血している。 痛みや腫れがひくには数日かかるだろう。勇次はそれを目にすると、深く後悔するように目を閉じて呟いた。 「なんてこった・・・。痕になるかもしれねぇ」 先刻まで狂っていた自覚があるだけに、我を取り戻した今になって自責の念が堪えがたいらしい。 秀はそんな勇次をどこか焦れったそうに見て、訊ねた。 「悪ぃか?」 「―――え?」 「痕になって悪いのかって訊いてんだよ」 切れ長の目が困惑している。 「・・・悪いに決まってるだろ。オレがおかしくなったせいでおめぇにまでこんな傷―――」 「いいだろ別に」 「どこが!」 やけに飄々としている秀との噛み合わない会話に、ややムキになりかけた勇次の強い視線を横顔に受けて、 川を見たままで答えた。 「これで、おめぇのもんだって印がついたんなら」 言ってしまってから、頬の辺りが熱くなった。 勇次が敷いてくれた夜具に転がると、これまでの疲れがドッと溢れ出た。 なんと長い一夜だったのだろう。勇次にとっても、秀にとっても。 恐らく生きている限り、この先もずっと忘れ得ぬ一夜になったことを、口にする必要はなかった。 すぐさま眠りに引きこまれかけていた秀の耳を、妙に懐かしい単語が掠めて引き戻された。 「・・・マリア―――?」 「あぁ。・・・あのマリアと異国に旅立ちたかったのは―――、錠よりおめぇじゃなかったのかい?」 揶揄するでもなく、淡々といつもの落ち着いた声だった。 言葉の通じない国で、人種など問わぬ人間のあくなき欲望と悪徳の犠牲になりかけた女。 彼女の孤独に寄り添い親身になって守ろうとした秀の一途な心を、この男は正しく認めてくれているのだ。 「・・・」 大の字になり、薄暗い天井を半分潰れかけた瞼を開けて眺めつつ、何を言おうかと迷う。 例の十字架の肌守りは、江戸に入る手前で外し、加代の見ていない隙を狙って江ノ島の海に放ってきた。 あの海を守るのが弁財天という女神ならば、マリアの十字架が誰にも知られることなく眠る場所としてふさわしい気がしたからだ。 瞼の裏に浮かぶ、赤くて長い髪と不思議な色の瞳。だがそれは、ほんの瞬きをする間だった。 「―――考えてみたらよ、簪を使わねぇ女たちの住む土地に行ったんじゃ、俺の商売あがったりだからな」 勇次が何と応えるかと思って待ってみたが、何も返ってこない。 秀がちらと確かめると、勇次は安らかに寝息を立て始めていた。 被った夜具の下、いつの間にか秀の指に自分のを軽く絡ませて。 (やれやれだ) 悪夢を振り払いやっと訪れた眠りを破らぬよう、行灯の灯りはそのままに、ちょっと笑って秀も目を閉じる。 明日の朝、帰ってきた息子の晴れやかな顔を見て、おりくが何を思うだろうか。 了
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