こいつとは今夜で三度めだ。 眠れない夜が続いた時に自暴自棄になり、思い余って手を出してみた対処策が、いまでは定期的な習慣となりつつあった。 場末の船宿で男と会い、煤けた行灯におぼろに浮かんだその顔を見上げたら、 人の好さげなそいつがまるで別人みたいな怖い顔をしていたから、 秀は思わずギクッとした。 自分のように裏の顔を持つ男ではないからと、わざわざ選んで逢っている相手なのに。 ヒヤリとしたのは一瞬だけで、男のその目つき顔つきが、コトに集中している様を示しているだけと直ぐに分かった。 翡翠堂という眼鏡や時計を商う店の手代だ。主に扱う眼鏡の枠の細工を頼みたいと、 秀の腕前を聞きつけて長屋を訪ねてきたのが出会いだった。 がっしりとした体躯ながらも高級品を扱うだけに、口調は丁寧で物腰は柔らかい。 口元だけでなく、少し下がり気味の目尻にも常に柔和な笑みを絶やさずに客と話をする姿しか見ていないから、 こんな時にあらためて顔を見て勝手に驚いたのだ。 裏の仕事仲間とは、顔は合わせてもしかと見交わすことはしない。互いの嘘が透けてしまうからだ。 それなりに腐れ縁が続いている南町奉行所のあの偏屈な同心にしても、 先ごろあらたな一味に加わった、訳ありな三味線屋の母子にしても。 秀の中ではいまも、一蓮托生で仕事することになった連中への警戒や疑いの気持ちが拭いきれずにいる。 それはきっと、あの常に一歩引いたところから仲間を眺めている勇次も同じだろう。 それぞれに、この稼業に手を染める理由がある。自分の場合なんだったのか。 はたちにも届かなかった年の頃の記憶を一度思い出そうとして、 それに伴うあまりの胸の傷みと自己嫌悪に耐えかね、断念した。 以来、秀は己に過去を問うことをやめている。が、そのぶん、他の仕事人に対しても同族嫌悪ゆえか、 反発とも憐憫ともつかない複雑な思いが渦巻く。 あの二本差しなどは徒党を組んだ当初から、秀のことを臆面なく青二才とかガキ呼ばわりし、 単独で突っ走った行動に時に容赦ない鉄拳制裁まで加えてきたのだから、逆恨みするのは当然だと開き直ってはいるが。 仕事の事でしか会う機会など持たないが、そんな時にも自分たちは伏し目になって会話を始める。 意見がぶつかり合い、睨み合いになったとしても、次の瞬間には双方自然に目を逸らし、気まずそうにそっぽを向く。 相手の本心に踏み込もうとした己にも嫌気がさして。 しかし、いや、だからだろうか。 秀はこういう個人的な目的で他人と至近距離で向かい合うとき、ついまんじりと相手の顔を見てしまう。 枠を細工するために預かる眼鏡の硝子を紙の上で陽の元にかざすと、陽光はある一か所に集まりその一点のみを強く照らし出す。 ずっと続けていればそのうち集められた光の熱が紙を炙り、黒い穴さえ開けられる。 自分の目が硝子そのものになって、関係する男の顔を、とりわけ目の奥をじぃっと見つめてしまう。 あたかもそこから何かの真実、本心を炙り出そうとするように。 やがて手代の男の半眼開いた目が、見開いた秀の黒目がちの瞳を捉える。 視線が合ったとたん、男はいつも会ってすぐ挨拶するときと同じ人懐っこく気さくな感じに相好を崩し、 汗ばんだ顔でニッと笑いかけた。 しかしその後はすぐにまた、怖い顔に戻ってしまう。 何故だか秀は、グッときた。笑いかけたことではなく、怖い顔で見つめられて背筋を甘美な痺れが奔ったのだ。 妻帯しながら男色の妙味も捨てられず、 こうして目を付けた若い職人と定期的に会いたがる男に対して、 肉体以外の情を一欠けらでも抱いたことはこれまでなかったが。 怖いほどの顔つきで自分との行為に没頭している男に、ふと愛しささえ沸いた。 俺もいま、こんな怖い顔をしてたんだろうか。 最中に自分がどんな顔をしているか、おそらく誰もが無自覚だと思う。 が、相手がたとえ女であっても、抱かれるときに見たい男の顔というのは、こんなものなのかもしれない。 その時ふと、秀はあの三味線屋も、するときにはこんな顔をするのかと無意識に思い浮かべてしまい、 我ながら秘密を暴かれたようにギョッとした。まぶたの裏に一瞬現れた冷たく白い美貌を、慌てて振り払った。 頭上に投げ出していた腕を持ち上げ、男の首を手荒に引き寄せる。秀の仕草にそそられたのか、 男の動きがいっそう激しくなった。 すべてが終われば、男はまた人当たりの好い物柔かな微笑を浮かべて、 ではまたそのうちにと、確約することなく背を向ける。 秀がほんの一瞬、相手の目の奥に見出しかけたものを、再び完全にしまい込んで。 急に冷え込んできた川端に吹く風に首をすくめ、反対方向へと歩き出しながら、 ただ一度きりでいい、同じ闇の淵に潜むあの男の「怖い顔」を見てみたいと、やはり思っている己に気づく。 隠しごとの出来ない怖い顔同士を突き合わせ、互いの欲を吐き出してしまうまで、ただ相手のことだけ求め続ける。 ―――もしも、あいつのそれを確かめられたならば。少しだけ・・・、ひとを信じることが出来るかも知れない。 そんなことをいま本気で考えてみた自分に呆れたが、 自然に芽生え動き出した好奇心を、いつになく秀は抑えようとは思わなかった。 橋の下でのあの最初の出会いにして、殺し屋同士の本気の対峙の際。 ぎりぎりの間合いをとりながら互いの目の奥の奥まで探り合った勇次の切れ長の双眸が、 青白い炎となって記憶の底に焼き付いたからだ。 心の重く閉ざされた扉に、虫眼鏡のように一点だけその強い光が照射されている。仕事で会うごとに、 ちらと視線を絡ませるごとに少しずつ炙り出され、いつかはやがて小さな穴が開くかもしれない。 未知の怖さも抱きながら、秀はどこかで震えるようにそれを待ちわびている。 了
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