初炬燵









 神無月、雪が舞い始めたとある昼すぎ。冷え切った朝の残りものを温めなおす匂いが裏長屋のほうぼうから漂ってくるが、 訪ねた戸口の向こう側は台所で人の動く気配もない。
「いるかい?」
 錺職の板切れが揺れる軒先に立って低く呼びかけた訪問者が、 家主の返事を待たずに足を踏み入れているのはいつものことだ。日頃と違う目の前の光景に、勇次はオッと声を上げた。
「さっそく出したのか」
「まぁな」
 背中を丸めた秀もまんざらでもなさそうに答える。そう、今日は町人の炉開き、炬燵開きの日だ。
 冬から春先にかけての暖房器具としてかかせない炬燵を使い始める日は、お上によって決められていた。 暦の一年を十二支に割り振ると、神無月は亥の月にあたる。 亥すなわちイノシシは火を防ぐ動物とされているから、亥の月の亥の日に火を使い始めるとその冬は火事に遭わないという験かつぎが、 そのまま選定日の理由である。それがいつ頃成立したものかまでは、庶民が詳しいことを知る由もない。
 ともあれ、まずは初亥の日に武家屋敷が先だって炉開きをし、そこから十二日後の二番目の亥の日が、 庶民の炬燵解禁日と定められている。あくまで武士の後塵を拝してという点が癪に障るといえはその通りだが、 お上のお達しというよりも、暦にそっての行事ごとや季節感にこだわる江戸っ子たちは、 どんなに寒かろうと解禁日までは炬燵を出さずに我慢する。
 勇次の家でもここ数日、日当たりのいい時間帯を見計らって木綿の炬燵布団が中庭に干してあった。 最近冷え込むので母とかわるがわる愛猫を行火(あんか)にしていたが、 寒がりのミーコもこれで冬ごもりは安泰だろう。 ちなみに表店を構える三味線屋の奥の間には、移動可能だが小ぶりの置炬燵と違い、 大きさからしてゆとりのある掘り炬燵がある。床に設けた炉は畳を上に置いて隠しているが、 時期になれば畳を上げて木製の櫓を置き火を熾した上に布団をかける。 その設営までは母の手を煩わせぬよう朝のうちにやって家を出たから、 帰ったらいい感じに温まった炬燵の上で真っ先に猫が丸くなっているはずだ。
「おめぇんちに炬燵があったとはな。安心したよ」
 なぜか嬉しそうに言う三味線屋に秀は怪訝な目を向けた。
「安心したってなにがだよ。ってか勝手に上がるな!」
「まあまあ。いや、おめぇのことだから炬燵もなしに正月を迎えるつもりじゃねぇかとな」
 何しろこのすがすがしいまでに殺風景な家には、仕事用の机の他はめぼしい家財もそろっていないのだ。 勇次の知り合いでも、一人暮らしの男たちはもう少しましな装備をしている。 急な冷え込みに古道具屋に駆け込む者が増え、中古の炬燵を売って欲しいとあべこべに言われたなどと笑い話が出るくらいだが、 年の割に無欲すぎるこの男の場合、大した冬支度をしていないとしても不思議ではなかった。
「バカにすんな。ビンボーでもこのくらいは…と言いてぇとこだが、なんと貰いもんだよ」
 唄うように教えてくれる。来た時からなんとなく機嫌よく見えたが、道理でと合点がいった。 その親切な物好きはいったい誰だと訊けば、同じ長屋の端に住んでいた病持ちのじいさんだと言う。 井戸端で不整脈を起こしたところを助けた秀がほっとけずに世話を焼いていたら、先日とつぜん娘夫婦が訪ねて来たそうだ。
「身よりはねぇと俺には言ってたが、どうもひとり娘に迷惑かけまいとして家を出たんだな」
 商いは小さいが物堅い男と夫婦になった娘が八方手を尽くして探し回り、ついに父親を見つけ出した。 じいさんは放っておいてくれと意地を張っていたが、秀の口添えもあって最終的には娘夫婦に引き取られていった。
「そんで娘さんがせめてものお礼にって、じいさんの炬燵を置いてったんだ」
 親切が巡り巡って返されたわけだ。たしかに上に掛けてある布団もシミだらけであちこちほつれだらけの小汚い代物だった。 だが思いがけず今まで持たなかった炬燵を、しかも買い置きの炭団まで律儀に残して貰った秀はよほど嬉しかったとみえる。 布団に顎を埋めた表情がほっこり緩んでいるのを勇次は認めた。
「そーかそうか。そりゃよかったな、秀。オレにもちょいとその幸運にあやからせてくれねぇか」
「やなこった。それより何の用だ?」
「にわか雪が止まないんで一旦おめぇのとこに避難しようと…」
 いそいそと冷気を含む風を起こして向かい側に入ろうとする勇次に、秀が噛みつく。
「そんなの知るか!あいつらじゃあるまいしおめぇまで調子にのりやがってよ。用がねぇなら出てけ!」
 舌鋒鋭く威嚇したが、後ろに隠し持っていた包みを炬燵の上に置くと、黒目がちの瞳をぱちくりさせて黙った。 竹皮に包まれたまだ温かさの残る餅から漂う焦げた醤油の匂い…。呼応するようにぐうう…と腹が鳴る。勇次はニヤッとして訊いた。
「炬燵はあるのに飯抜きかい?」
「……加代のヤツ!おめぇもヤな奴だなぁ」
 加代からばらされたとすぐに気づいた秀は図星を指されてムッとしたが、差し入れからは目が離せずにいる。 昨日も晩ごはん分けてやったんだよと、今朝店に立ち寄った加代が愚痴ってきた時はまたかと呆れたが、 それじゃこないだ手がけたばかりの裏の頼み料はどうしたのかと、同時に疑問も浮かんだ勇次だった。
 互いに私生活を詮索しないとはいえ、金に関しては仲間内で謎に思うことが多いのが秀だ。 年中金欠を隣同士しょっちゅう愚痴りあっているわりに、秀は口で云うほどそれを苦にしている様子でもない。 むしろ食えない時もあることを淡々と受け容れているように見える。
 何か理由があるのか気になっても、本人に直接尋ねたところで「余計な世話だ」のひと言でかわされるのは目に見えている。 それで加代に探りをいれてみた。するとあっさりと、 表の仕事に使う銀や玉(ぎょく)などの材料に惜しみなく有り金をつぎ込んでしまうからだと、呆れた答えが返ってきた。
 職人気質は結構だが、品質に比して高値をつけない秀の簪は稼ぎの少ない者でも手が届きやすいため、 作った先から売れてしまう。そうして足りなくなった材料費に、裏の仕事で得た金を充てているのだ。 この証言には、作業する息子の傍らで加代の世間話に付きあっていたおりくも、紅い唇を半開きにした。
「そんなことしてたのかい、秀さんは……」
「ほんとバカよね、あいつってば。自分の命削って仕事してるのにさぁ」
「…その銭をよっぽど自分のために使いたくねぇんだろうな」
 せっせと手を動かしつつふと浮かんで口にした言葉に、母の視線が動いたのを横顔で感じていた。 何も言わないところをみると、女ふたりとも勇次の想像に異論はないらしい。
「ったく…。それで食えなくなったらどうしようもないわ。ほんと付きあいきれない…」
 だったら何のために仕事人など続けているのか。錺職に誇りを持ち、あれほどの情熱を傾けられる天職でありながら、 裏稼業から手を引くことなく苦しい道を選んでいるとは。 勇次自身にも未だ見つけられないこの問いの答えを、秀が知っているはずもないが。
 加代のほとほとあきれ果てたため息まじりのぼやきを聴くまでもなく、 秀以外の仲間たちはその辺りの迷いとはとうの昔に決別している。 今月の小遣いが少ないと、情報屋に何か見つけて来いとはっぱをかける八丁堀しかり、 加代もまた常日頃から裏の仕事になりそうなネタを鵜の目鷹の目で探している。 時におりくから他人の不幸に付けこんじゃいけないよと釘を刺されたりもするが、情報屋としてはだからこその有能さを発揮する。 最初から金になりそうな匂いを嗅ぎつけられなければ、仕事人を心底必要としている依頼人にも出遭えないわけで、 結局は正義というような綺麗事だけではこの稼業は成り立たない。
 一方、秀はそのことを嫌というほど理解しているはずなのに、いまだに他人の不幸を我がこととして捉えすぎるきらいがある。 加代や八丁堀とて、鬼畜どもに陥れられた犠牲者たちに同情していないわけではない。 しかしそれは彼らの運命であって、仕事人ごときがどうしてやることも出来ないものだ。自分たちにやれるのはせいぜい、 その晴らせぬ恨みを―――ただというわけにはいくまい。たとえ悪人でも人殺しを代わりに手がけるには何か理由が要る――― 代わって晴らしてやることだ。
 相手にも自分たちにも悪くない結果が残りさえすれば、それ以上のことは考えない。 考えても仕方ないことを切り替えていかねば、自分の首が締まってゆくだけだ。 同じくおりくも勇次もそうして生き延びてきた。これからもこの稼業を続けるならばそうしてゆくだろう。
 状況によって組んで仕事することが増えてきた秀を、それとなく観察するうちに勇次は気づいた。 仕事人が情で動くなと八丁堀に何度〆られても秀が突っ走りがちなのは、 世の中の不条理や理不尽さを目の当たりにするたびに秀自身が深く傷ついているからだ。 表の顔で関わる人々を相手にするときは別として、会えば口や態度であからさまに示してくる刎ねつけるような荒っぽさが、 繊細で感じやすい心を隠すための盾であることは、あの細工を見れば分かる者には分かる。
 悪人を殺したところでこの世の何が変わるでもない。しかし頼み人は引きも切らず、決死の望みを金に託して死んでゆく。 仕事の無意味さと仕事人の意義との間で苦しむ秀が至った身の処し方が、 自ら厳しさに身をゆだねるような生き方をすることではないか。
 年越しの銭を稼ぐため、知り合いの店の御用聞きの手伝いをしている加代が店に立ち寄り、 よもやま話から秀の金の使い方をはじめて知った。 聞けばたしかに、一本気なあいつが考えそうなことだと呆れもした。が、勇次にはそう意外すぎる事実でもなかった。
 表でも裏でも仕事の腕は立つくせに、おかしな悪あがきをする奴だ。 しかし、秀のそんな頑固で不器用なところからなぜか目が離せず、 いつしか自分の心まで揺さぶられるようになったことを、勇次はひそかに認めていた。
 細かな仕事をするには指先がかじかむようになったのか、この頃の秀は階下に移動させた机を小さな火鉢の脇に置いて仕事している。 すきま風避けの屏風を背にして、黙々と細工にいそしむうつむき加減の顔の端正さにある時目を止めてしまったこと。 野郎相手に何を血迷ったと己を嗤ってみても、一度染みついた残影はその後もことあるごとに勇次の胸をもやつかせた。
 ならばいっそこっちから訪ねてやろうと差し入れを口実に立ち寄ったのだが、 本格的に雪が降るようになってもあの寒々しい光景は変わらないだろうと思っていた。 だから、炬燵に収まった秀の幸せそうな顔を見たとたん、思わずこっちの頬まで緩んだというわけだった。



「明日の朝にはまとまった代金が入るって分かってたからな。1日やそこら食わなくてもべつに俺は平気だし…」
 腹の虫は正直に訴えているのに、秀はまだぐずぐず言っている。
「加代がオレたちに話したのはおめぇの体を心配したからだぜ。 いくら慣れてるったって寒いと余計に消耗するのにってさ。そうぐずるなよ」
「オイ!だれがぐずるって?」
「いいから温いうちに食ったほうが旨いぞ」
 ここでオレにムキになるより後で本人に直接云えよと内心思ったが、 意外に寂しがり屋の加代の性格からして、その言い訳はかえって水臭いと怒らせてしまう可能性はある。 恋愛でもないのに身内並みに遠慮のない間柄の男と女は、じつは傍から見るよりも細やかな互いへの気遣いを働かせているのかも知れない。
 まあその辺りの機微は自分には関係ない。 今日ここに迷わず来られたのも、加代は夕方まで留守、うっとおしいあの二本差しは風邪という名のずる休みで自宅に居ることを、 先刻顔を出して知っているからだった。勇次に促され、秀は丸まっていた上体をやっと起こした。
「分かってら。あ、そーか、コレおめぇの炬燵使用料だ」
「そうそう。全部食っていいよ」
「言われなくてもそうするって」
 他の仲間がいる時には黙っていることも多いのに、二人きりになると秀は口数が多くなる。 目すらほとんど合わさずああいえばこう言う秀を面白いなと眺めていると、包みを解きながら何気なく言った。
「炬燵はあったけぇが、そのぶん背中が寒ぃよな」
 大口開けて餅に噛みついた秀の上目遣いと勇次の切れ長の目が、炬燵の真ん中でぱちりとぶつかった。
「……」
「ん?」
「たしかに寒いな」
 スッと炬燵から出て立ち上がる男を、口を動かしながら訝しく見上げている。 出てけとはさっき言ったが、この男が素直に出てゆくはずがないからこそだ。 急用でも思い出したのかと思ったら、上がり框ではなくなぜか炬燵を迂回して真後ろに回ってきたから面食らった。
 音もなく膝をついた勇次の体が半纏の背中に触れる。
「ム?―――ンッぐ!?!」
 秀は口いっぱい詰め込んだ餅にむせそうになった。 振り向く間もないうちに、黒っぽい羽織の両腕が緩く肩口に回った。煙草の移り香が鼻先を掠める。 心の臓が音が聞こえそうなほどに脈打ったが、 背首にすうすう感じていたすきま風が消え、かわりに炬燵とも違う温もりに背後全体を覆われていた。
「〜〜〜っっ、―――えっ、え?ちょっ…おい……」
「寒いんだろ?背中」
 頬が膨らんだまま目を見開いて固まっている耳元で囁かれ、言われた意味が耳の奥で再生される。 体の中から発火したようにカッとみぞおち辺りが熱くなり、みるみる上がる体温のせいでなぜか体全体に震えがきた。 通常の会話ですらむやみに艶のあるその声を、こんなにすぐ近くで聴くのは初めてだった。
 回された腕をそこでふりほどけばよかった、とまったく動けずにいた自分を後から責めることになるのだが―――。 口の中のものを無理やり飲み下して、自分でも落ち着いた声が出せたことにホッとしながら秀はやっと口を利いた。
「バカ、そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
 口に出してからバカは自分だったと気づく。そんなのはなから百も承知に決まってる。 そういう意味と言った時点で、勇次の行動の意図を理解していると、自ら暴露したようなものだ。 炬燵のせいでいつもの距離感を見誤り、うっかり見せた隙を目ざとく捉えられてしまった。
 鼓動は乱れ打ちで息苦しいほどなのに、背中側はたしかにあったかい。勇次はそこまで密着してはいないが、 胸の前でゆるく合わさった両手の指の長さが自然に目に止まる。 こんな形で寄り添われるなど女にだってされたことない。 どうしたらいいのか思いつかず茫然自失していると、背後で勇次がもう一度囁いた。
「いまだけな」
「……」



 冷たさに前屈みになって小走りで帰ってきた加代は、自宅を通り越して隣の戸口に手をかけた。
「はーっ、寒いったらありゃしない…」
 寒いのも外回り営業が辛いのも当たり前なのは分かっている。 分かっていても一日分のため息は家に入る前に体の外にぶちまけてしまわねば、一日が終わった気がしないのだ。
 下を見たままガラッと勢いよく戸を引き、
「もぉさあ、たまんないわよ!後からもう一度来い?客はあんたンとこだけじゃ―――」
さっそくぶち上げながら顔を上げた加代と、板の間の二人組の驚いた顔がそこでばったりと見合った。
「あれ勇さん?……何してんの?」
「―――えっ?…あ……」
 秀の背後で膝立ちになったままこっちを凝視している勇次の代わりに、 炬燵に入った秀が不明瞭な声を漏らす。少し前に炬燵を貰った経緯はもちろん知っていた。 自分ももっと親切にしときゃよかったと言ったら、おめぇは持ってるじゃねぇかと咎めるように言われたが、 そんなに義理がたい娘夫婦がいたのなら、何でも屋を売り込むのだったと機会を逃したことを悔やんだからだ。
 居職の秀が今日さっそく炬燵を出していたなら、 とりあえず冷え切った体を溶かしつついつもの愚痴を聞いて貰おうと思って急いで帰ってきた。 面倒な客から絶対に注文を取ってみせると奮起したおかげで仕事が捗り、 逆にちょっと早めに帰ることが出来たのだったが、裏の仲間がこっちに回っていることに驚いてすぐさま訊ねた。
「何かあったの?」
「―――へ?」
 いつにも増して蒼白の頬をした色男が、色男らしからぬ間抜けた声を出した。加代は雪よけに頭から被った手ぬぐいをとり、 土間でぱたぱたと水滴を払いながら言う。
「昼間寄ったとき、おりくさんも勇さんも急ぎの用があるようなこと言わなかったじゃない。だからあれから何かあったのかと思って」
 裏の仕事がらみで繋ぎが必要になりそれで秀の元に勇次がいるのだと、そんな風に加代は解釈したのだった。 対する二人の男たちは、これまた凄腕仕事人とも思われない動揺ぶりを見せて互いにちらちらと顔を見合わせている。
「?なによ、二人して黙っちゃって。それにその態勢は何なの?何しようとしてたわけ、男同士でさぁ」
 べつに機嫌が悪いのではなく、これが加代のいつもの遠慮のない口の利き方なのだ。 場の空気に妙にぎくしゃくとした不自然さがあると感じたのは、女の勘というべきか。 それともたまに勇次が来ていることは今では珍しくもなくなったとはいえ、 ここまで二人の距離が近いところを見たのが初めてだったせいだろうか。
「あ…ぁぁ、いや、えーとそれはな加代、誤解なんだ」
 少しの間を置いて、やっと勇次がふだん通りの声を出す。
「誤解?」
「ああ。急な用でもねぇが、ここンところオレたち仕事で一緒に組まされることが増えたろ?」
「はぁ。まぁたしかにそうだけど?」
「それでな。堅牢な屋敷や高い塀越しに侵入(はい)る時のことをこの際しっかり打ち合わせよう、ってんで来てたんだよ。 そうだな、秀?」
 急に振られて、秀がビクッと肩を揺らす。そこであらためて肩から何かを振り払う仕草をしたが、 すでに勇次の手は後ろに退かれていた。秀はポカンと勇次の方を振り向き、掠れた声で訊き返す。
「あ。―――う、打ち合わせ?」
「ほら、おめぇが下になってオレを上に飛ばすにはこうこうとやって後ろから―――と」
 漠然とした動きをしながら勇次が後ろから軽くまた秀の肩に手をやる。
「あ!あああ!!そ、そうそれ!それだよな、勇次!俺たち、それやってたとこだったんだっっ」
 いきなり我に返ったような馬鹿デカい声をあげた秀に、加代まで飛び上がりそうになった。
「なっ、なによ突然。うるさいなぁ、聞こえてるわよ!」
「おっ…おめぇが勘違いするから悪ぃんだろうが!」
「は?勘違いって?」
 片耳おさえて売り言葉に買い言葉で加代がさらに突っ込むが、まあまあと勇次がむりやり二人の間に割り込んだ。
「いいじゃねぇか、秀。加代になんと思われようが。だいたい今ので手順はいいよな?次はこれでいこう、な?」
 勇次に説得されて、なぜか茹で蛸のように真っ赤になった秀もこくこくと小さく頷いた。
「……そ―――そりゃまぁ、何も俺たちおかしなことはしていねぇし」
「たしかに奇妙な場面に出くわして驚くよな、加代も。ははは」
「は…はははは…」
 一度口を開けばすらすらと出てくる三味線屋の口車につられたのか、秀も乾いた声で笑った。 加代は疑わしそうに両者を交互に見たが、やがて肩をすくめて言った。
「まぁいいわ、よく分かんないけど。いざって時にあんたたちの息が合わないと、八丁堀が困るもんね」
 実は見た瞬間ぎくりとしたような、仕事人同士が互いを蹴落とすための争いではなかったことに内心ホッとしていたのだ。
 時々、秀がやけに勇次に対抗心をむき出しにするせいだ。 おりくには丁寧な態度を取るが、おりくが旅空で居ないあいだの密談時にはたびたび勇次との連携を渋る場面さえあった。 秀も仕事人であることの自負は強い方だから、 技は違えど年の近い男の完ぺきな仕事ぶりを見せつけられて意識してしまう気持ちも多少は分かる。 勇次への対抗心のせいで、秀からの風当たりが昔より弱まった八丁堀にとっては居心地がいいのかも知れないが。
「あれ、勇さん?」
 加代は自分と入れ違いに土間に降りようとしている勇次を見上げた。
「もう帰っちゃうの?」
「ああ。用は済んだ」
「えー。せっかく来たのにいいじゃないよ。炬燵入ろうよ」
 勇次は軽く笑って首を横に振った。
「いいよオレは。そもそも二人入って満員じゃねぇか」
 その後ろ姿を炬燵の中から横目で追っていた秀が、再び寒そうに背中を丸めつつそっけない声でボソッと言った。
「そういうこと。さっさと帰ぇっておめぇもあったまれよな」
 振り返っていまどんな表情をしているのか確かめたくなったが、加代の手前それはよしにして勇次は外に出た。 そう長居をしたわけでもないのに、雪雲に覆われた空はもう薄暗くなっていた。
「さ、炬燵炬燵!潜らせてぇ〜」
 加代が他愛なくはしゃいでいる。炬燵の上の差し入れに気づいて、三味線屋で愚痴った甲斐があったと喜んでいるのかもしれない。
 うっすらと白くなった一段と冷え込む道を歩き出しながら、腕の中でジッと動かずにいた秀の体温とかすかな息遣いが早くも恋しくなった。

 部屋の中では、冷え切った素足を炬燵につっこまれ秀が声を上げた。今日はやたらと反応が大げさだ。
「やめろ!冷ぇんだよっ、オイ、足当ててくんな!わざとやってるだろ」
 加代の見るところ、口ではさも嫌がりながら、まだ薄く上気したままの顔は困ったように笑っていた。





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