裏長屋で隣同士の加代が泣きながら秀の戸口の前に立ったのは、夜も遅い時分だった。 天高く馬肥ゆる秋と言えばやや手垢のついた感はあっても、晩秋の秋空が気持ち良いほどの晴天続きで遠くまで澄み渡っていると、 毎朝外に出て空を見上げるたびに好時節を思わずにいられない。 ちょっと郊外に出れば、赤松の林から松葉のツンとした清々しい香りに交じって、腐葉土のどこか香ばしい土の匂いが漂う。 この時期、そんな腐葉土の下で見つかる松茸が旬である。 自生しているものは在所住まいの者だけの特権になってしまって、 近郊では赤松林の持ち主が松茸狩りと称して金を払わせて松茸を獲らせる者まで出てきた。 食べ物にそう執着しない秀は、松茸なんか高いばっかりで腹の足しにもならないと興味も示さないが、加代は違っていた。 年中金欠なのはお互いさまだが、加代は旬のものは家財を質に入れてでも口に入れておかねば気が済まないと言う。 松茸が出回るこの時期になると、ほんの小さいものをどこかの手伝いに出た駄賃として貰ってきては、 小判でも貰ったみたいに押し頂いて、おすましや炊き込みご飯と張り切るのだった。 秀もそのおこぼれに預かり、ほんのぽっちりしか入っていないが香りだけは良い夕餉に呼ばれた折、 加代をからかって言ったことがある。そんなに好きなら、赤松林の持ち主を男にすればいいと。 その冗談が本当になったのは、今年の夏前だったと記憶している。 金になる話にばかり大きな瞳をきょろつかせているせいか、悪くない容姿のわりに浮いた話の出なかった加代の身辺に、 ついに男出入りがあったのだ。 相手は蝋燭を扱う商人で、四十がらみの男である。 お店(たな)自体は弟を番頭に据え、使用人を二、三人抱える程度の商いではあるものの、 謹厳実直な働きぶりでまずは着実にひいき客を増やしている店の旦那だった。 その男が死んだ父から譲り受けた地所に、松茸の獲れる赤松の林を持っていたのだ。 「そんな旦那とどこで知り合ったんだ」 最近どことなく言動がしおらしく女っぽくなった加代を、不気味に思いながらとりあえず秀が尋ねてやると、 みずから思い切りそういう方向に話を持っていっていた加代は、待ってましたとばかりに馴れ初めを物語ったのだ。 「縁日でおんなじ朝顔の鉢植えを求めてさ、それでお互い譲り合って・・・結局あたしが要らないって言ったら申し訳ないからって、 あとからお礼にお茶か食事でもって誘われちゃったのさ」 礼にお茶か食事だと、見え透いてるぜと秀は皮肉を言いかけたが、加代のうっとりとした顔を見て表情に出すのも差し控えた。 男はのちのち加代を迎えに来た機会に秀も何度か見かけはしたが、 たしかに羽織の姿がお店の規模にしてはやけに堂々として見える、中背のなかなか渋い男前だった。 興味津々の長屋のかみさん連中にも控えめながら挨拶は如才なく、 加代と付き合っていることを隠しもしないところがまた女房たちに好印象を与えているらしい。 「あんな男がいままでやもめだったってのが分からねぇな」 なんとなく気に入らない秀がつい呟くと、 「そりゃああんた、どんないい人でも縁がなけりゃ仕方ないじゃないか」 加代が手放しで喜んでくれない秀にカチンときたらしく、すぐに剣突を喰らわせた。恋は盲目とはよく言ったものだ。 日頃は誰よりも現実主義者で、調子のいいことをいう八方美人のわりに実は抜かりなくその裏を読んでいるというのが、 裏の仕事の情報屋でもある加代の真骨頂だと思っていたのだが。 「加代もふつうの女だってことさ。はしゃぐのはあたりめぇだろ」 あんまり頻繁に聞かされるのろけ話に辟易して、秀がある夜勇次にその不満を漏らすと、 さすがに色恋沙汰に長けたこの男は、うんざり顔の秀とは真逆の反応を示して笑って言った。 「おめぇはあいつの惚気を聞かされないからそんなことが言えるんだ」 仏頂面で茶碗酒を一口啜って秀がぼやくと、 「うちにも来て、店先でひとしきりその話をしてゆくんだぜ」 それでも勇次は、特段それを迷惑に感じている様子はない。 「可愛いじゃねぇか。しばらく夢を見させてやれよ」 さらりと口にした勇次の言葉に、秀はなにか寒いものを背筋に感じて、思わず向かい合う男の涼しげな貌を見た。 「しばらく・・・?」 「・・・」 「長くは続かねぇってことか?なんでおめぇにそれが分かるんだ?」 「分かるさ」 酒を喉に流し込んで、勇次が秀の非難するような目を捉えてぽつりと言った。 自分の目の底を確実に捉える、青みがかった艶のある瞳。 いまは加代の話をしているのに、秀はまるで自分の胸の内側を覗き込まれたかのように動揺した。 「いい歳した男が本気で大事にしたいつき合いで、端から大っぴらに他人に見せつけたりはしねぇもんだ」 「―――」 秀は軽く目を見開くと、勇次の通った鼻梁に無言で視線を当てた。鬢の毛が白い頬に落ちかかる。 ふたりは先に一度愛し合い、そのあと布団の脇で今年の秋最初の火が入った火鉢を囲んでいるのだった。 着物の袖はどちらも通しているが、しどけない恰好のまま冷や酒を酌み交わしている。 秀は勇次のいまの言葉を聞いて胸が苦しくなった。 「どうした、秀?」 「・・・」 「なにか気に入らねぇことでも言ったか」 秀は無言でかぶりを振った。恋がしばらくの夢に過ぎないことを、勇次の切れ長の美しい目は冷たく見通している。 恋というのが傍目から見る以上に複雑で残酷な真実をも包み隠しているのだと、はじめて理解した。 何の障害もなさげな加代の恋を内心羨ましくも思っていた自分は、なんと無智で無邪気だったのだろう。 ひょっとして自分も加代と同じで隠れた真実にも気づかず、恋に溺れているだけではないか。 勇次は一度として、秀に逢うのを躊躇したことはない。 かと言って、男女間に交わされる将来の約束事もない自分たちの関係は、いつか終わる以外に着地点はないのだった。 隠れて裏稼業の仲間である男と逢引きする自分の後ろめたい思いの背後には、 勇次にのめり込むほどに、終わりのない苦しさをずっと抱え続けることに対しての、ぎりぎりの迷いがあった。 それでもこうして逢うひとときだけが、本当の生を生きているように今の秀には思えるのだ。 勇次はそのことまでも分かっていて自分と逢っているのだろうか。 同じように感じているのだろうか。・・・そんなわけはあるまい。 「・・・今日は急に冷え込んだな」 ぼんやりと物思いに耽る秀の手元から、いつの間にか茶碗が取り上げられていた。 寝ようぜと手首を引かれ、その低い声はあからさまに誘いを含んでいて、 一度点いただけの火では収まらずにいた体を実は持て余していた秀は、ぞくりと背を震わせる。 勇次が行燈の火を吹き消す前にその顔を顧みて、軽く笑って言った。 「おめぇのそんな顔、オレ以外には誰にも見せるなよ」 「っ。何のこと・・・」 言い返す前にフッと目の前が暗くなった。 急に光源を見失ったばかりの夜目の利かない闇のなか、手探りで互いの着物を剥ぎ素肌を合わせると、 体感していたより体は冷えていたことに気づく。 「おめぇの手は冷てぇな、秀・・・」 夜具のなかで囁き、勇次の温い手が秀の手を包む。 触れた場所から体温が上昇し、すぐさま汗さえ滲みはじめるのは、毎回不思議としか言いようがなかった。 狂おしく唇に応えながら、切なさに胸が詰まる。 今しがたの葛藤さえどこかに押しやってしまえるほどに勇次の優しさは本物に思えた。 このまま自然に息が止まればいいのにと埒もないことをまた願う。 この重さを受け止めたまま―――。時と共に移ろってゆく心が、いつか自分から離れてしまうまえに・・・ 「商売仲間の紹介で、どうしても会わなきゃいけない女のひとがいるんだって」 土間に立ったままで、加代はえぐえぐと嗚咽を漏らしながらも秀に説明した。 「四十も過ぎて、ひとりでいるのは商売の信用にも関わるから、仕方がないんだよね」 思っていた以上に、終わりはあっさりと訪れた。 加代から聞く男の話は、はじめとすればかなり減ったものの、相変わらず愉し気に快活に振る舞っていただけに、 急な別れ話に泣き崩れる加代の姿に、掛ける言葉の見つからない秀だった。 「ふざけるなよ・・・あの野郎。だったらおめぇをおかみに迎えりゃいいじゃねぇか!」 じわじわと沸き上がる、身勝手な男の事情とやらに怒りを募らせ、珍しく秀が焚き付ける。 「おめぇもおめぇだ、加代。なんで押しかけねぇ?このまま体よく追っ払われたんじゃ、おめぇはいいように弄ばれてただけだぜ!」 「違うもん、追っ払われたんじゃない、あたしが自分から身を引くんだもん」 喉の奥をひくつかせながらも、加代が気丈に言い返してきた。 「なんだと?加代おめぇ、いつからそんな爪の甘ぇヤツになったんだ?そんな他愛もねぇ嘘の言いなりになってていいのかよ!?」 「ひ、秀さん・・・」 加代も秀がそこまで親身に激高するとは思ってもみなかったのだろう、涙を拭く手の甲の陰から驚いたように見上げた。 秀が舌打ちして、懐から手ぬぐいを取り出すと乱暴にその手に押し付ける。 「あ、あり・・がと・・・。で、でもね。あたしにだって、ヒック、ちゃ、ちゃんと考えがあるんだよ・・・」 チンと音を立てて鼻をかむと、何度も目元をぬぐいながら加代は秀に言った。 「ホントはね、わかってたんだ。あの人があたしなんかをおかみさんにする気はないって・・・」 「・・・加代」 それは秀にとって意外な告白だった。言葉を失う秀を見て、加代が泣いた分だけ気持ちが落ち着いてきたのか、えへっと笑う。 「そうなの。弁解するわけじゃないけど、あの人も最初はそんな話もしていたんだよ」 男に惹かれて会えば会うほど、加代はその実直さ真面目な人柄を尊敬する一方で、 お店のおかみとして望まれる理想像と現実の自分との差異に、だんだんと相いれない居心地の悪さを感じるようになっていったのだった。 「ほら、あたしってもともと一つ所に落ち着いたことのない根無し草じゃない? お店のおかみさんになってどっしりと構えて、いっつも明日のおあしをどうしようかなんて考えなくていい暮らしは最高だけど・・・、 やっぱり、堅気の目は誤魔化せないもんだね」 「・・・・・」 泣き笑いした加代の言わんとするところはよく分かった。 金のためといいながら、仕事人という裏稼業に存外誇りを持っている加代である。 危険と背中合わせの日常から完全に足を洗って、堅気の商売人の内儀に収まるという嘘には、自分でもうまく馴染めなかったのだろう。 「あの人はあたしのこと、ほんとに好いてて心から大事にしてくれた。それだけはほんとなの、秀さん。だからね、」 「分かった。もういい」 「言わせてよ、最後まで!・・・あの人も辛かったんだよ、こんな形であたしに言い訳しなきゃいけないなんて・・・」 加代はあくまでも男に実(じつ)があったと信じていたいようだった。 秀は勇次の言った言葉をふと思い出したが、それは胸の隅に追いやった。付き合ったのは加代だ。 男の真実がどこにあるか、それは加代自身が信じていればいいことだ。 「でもさ、いいこともあるよね。ほら、すごい松茸だろ!生まれてはじめてだよ、こんなに大きいのばっかり」 さっきからしきりに芳香を漂わせていたのは、加代が持ってきた籠の中身だったのだ。 鼻を啜りながらも別れの戦利品を自慢する横顔には、どこかすっきりとした充実感さえ漂っていた。 「―――いいじゃねぇか、加代・・・」 見せるだけ見せて持ち帰ろうと踵を返す後姿に、ようやく秀が言葉をかけた。無言で加代が振り向く。 「そいつと一緒にはなれなかったが・・・死ぬまで忘れられねぇ想いが出来たんなら・・・」 加代は底光りのする泣きはらした目を見開いて、食い入るように秀を見つめた。 やがてにっこりと満面の笑みを浮かべると、 「明日はごちそうだから、大徳利の差し入れくらいしてよね」 いつもの調子に戻って、はすっぱに着物の袖をひるがえした。 なんでそんな言葉がふいに出たのかと、ややあって我に返った秀が赤面して口元を抑えているうちに、 隣からどたばたと遅い夕飯の支度をする物音が聞こえてきた。 初霜の降りた日、その日も空はよく晴れていた。秀は勇次を誘って半日遠出した。 「ここ何日かでグッと寒くなりそうだな」 土手に沿って流れる水量の少ない川の水の色を見ながら、勇次が言う。 空を映しこんだような透き通った水色も、ひとたび雪雲が空を覆い始める頃には暗く沈んでしまうことだろう。 来年の今ごろ、同じ景色をこの男と見ているかは分からない。 だからこそ、秀は勇次を誘ってみたのだった。先のことはどうあれ、いましか出来ないことをしようと。 この綺麗な水色と紅葉した木々の美しさをふたりで見たことを、死ぬまでずっと忘れまいと思っていた。 弁当をつかい空になった竹筒の水を汲みに川縁に降りて行こうとする秀に、一服していた勇次が声を掛ける。 「冷やでよけりゃ、こんなのもあるぜ」 酒の入った竹筒を出して振ってみせた。 「用意がいいもんだ」 秀は渡された最初の一口を呑むと、ちょっと笑って勇次にそれを回す。 勇次はどこかさっぱりとした秀の様子を眩しそうに見た。 西の山の連なりに陽が近づく頃、風が出てきたすすきの原のなかを、ふたりは帰路についていた。 「寒いんじゃねぇのか、秀」 痩せた細身の体は見るからに肌寒そうに見えるのに、秀は何ともないと言い張った。 「おめぇはいっつも冷たい手をしてるくせに薄着だよな」 「ほっとけ。少し寒いくらいが俺は気持ちがいいんだ」 「そう言って裸で寝て、夏風邪ひいたのはどこの誰だったかな」 並んで歩く二人の手が軽く当たった。勇次がほら見ろとそのまま秀の指先を掴む。すぐに手を引き抜こうとしたが、 「だれも見ちゃいねぇよ」 言われて秀は周囲を見回してみた。 夕暮れにかかった枯れすすきのたなびく道は遠くまで真っ直ぐ続き、ずっと先の雑木林で緩やかに湾曲している。 その林のあたりから、ひとりの旅人らしき者が歩いてくるだけだった。 「・・・」 踏み込んでしまった禁忌の恋。 引き返す決心がつかないままいつしか季節は巡った。なにげない会話のなかにも心の通い合いは偽れず、 覚えた肌恋しさももう容易には手放せない。 伸びきったこのすすきの群生がしばしの間、世間の枡目から零れ落ちた自分たちを隠してくれると秀は思った。 あの旅人が近づいてくるまでまだ少しの時がある。 前を向いたまま絡んだ指を握り返す。やんわりとそして思い余ったように強く。 仄かな温もりが伝わりはじめた秀の掌を包み込んで、隣の男が声に出さず静かに笑った。 了
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