傷痕を見られるのも嫌なら、そこに触れられるのはなおさら嫌だ。 「やめろって言ってるのに」 勇次は秀のくぐもった抗議の声には耳を貸さない。 普段は衣類で隠されている身体のところどころに刻まれた切り傷あるいは拷問の痕を、 ふたりが睦み合っている闇の中ですら器用にも探りあてると、わざわざ指を、熱い舌を這わせてくる。 これまで体の関係を持った女たちはそれらを恐ろしがりあるいは忌んで、触れることはおろか、 おぼろな灯火のもとで目にしたものからそっと視線を外した。 無理もない。このひとつやふたつではない、 しかも明らかに怪我などで偶然負ったものとも思えぬ深い傷痕のついた裸を見れば、 ただでさえ自分の素性を何一つ話そうとしない若い男が、見た目通りの堅気な錺職人だとは誰も思うまい。 ゴツゴツした筋肉質の痩せた男の身体は、抱き心地がいいとはとても言えないだろうに、 時間の許すかぎり情事を味わい尽くそうとする色男からは、遊び慣れた手管で秀を嬲ろうという淫猥さは感じない。 そのうえで、傷だらけの体を愛しむかのように全身をくまなく指や唇で辿ろうとする。 「おめぇはまるで獣みてぇだな。ひとの身体についた傷がそんなに面白れぇのか」 「ああ。おめぇがいま生きてる証だからな」 精一杯の皮肉にそんな気障で返されているのに、 口惜しさより恥ずかしさよりも、身体が先に熱くなる俺はどうしようもない、と秀は思う。 刻まれてまだ比較的新しい、右腕の引き攣れた傷痕を指先でたどられるだけで、秀のからだは内側から濡れる。 心の臓からは逸れているが刃の切っ先を受けた跡に、肉が膨らんだように盛り上がる箇所を濡れた舌でなぞられると、 雄の生殖器を雌の性器として受け入れることに慣れてきた後孔は、 まだ触れられてもいないうちから期待感でキュウと締まる。 裏の仕事仲間として係るうちに、少しずつ近づいた心の距離。これまでならそれが危険だと一線を引くことで、 関係性を崩さないようにしてきた。その均衡が崩れてしまったのは、 三味線屋の色男に対して性的な欲望を抱くようになってからだ。 いつ、どんなきっかけだったのか。 秀の流した右腕の血を止血するために手ぬぐいを引き裂いた、あの白い歯を見たときからか。 それとも、こと切れた死体の前でそれをしたあと、掴んだ手に滴る血を舌で舐めとった時の目だろうか。 互いのなかに浮かぶ情に抗しきれず、自然と理由をつけて二人きりで会った日。 自虐的な意味合いで抱かれる側を望んだのは自分だった。 果たしてそれは、精を吐き出せば終わるものと思っていた秀の交合に対する認識を根っこから変えることになる。 受け入れる際の苦痛やその後の辛さは身に沁みているのに、 いったんこうして肌に覚え込まされた味を求めずにいられない。 もう吐き出すものがなくなっても、繋がっている限りはその執着から逃れられず、 果てのない悦びに狂う自分は異常だろうかと、怖ろしくなるほどに。 徐々に追い上げられてゆくからだは、早くも激しい渇望を秀の中に起こさせているにもかかわらず、 欲しいと声に出して訴えられず、内腿を擦り合わせてどうにかもどかしさを外に逃そうとする。 わななく唇から吐く息までもがみだりがましくて、思わず自分の手の甲に思い切り噛みついた。 「・・・これ以上、てめぇで痕を増やしてどうする」 急に静かになったからどうやら気づかれたらしい。 苦笑した気配が濃密な闇を伝わると、やがて伸び上がって胸をふたたび合わせてきた男が秀の手を奪いとる。 絡めた指ごと持ち上げて口づける仕草に、 全ての毛穴から欲望と同時に何かの感情がごちゃまぜになってあふれそうになり総毛立った。 「――おめぇが、へんに時間かけるから―――・・・」 身体の疼きとは別の飢餓感が秀の胸に溢れ、心臓を切なさが鷲掴みにし締め上げてくる。 だからもう、やめてくれと言っているのだ。傷痕に触れるのは。 「オレに遠慮することはもう無ぇだろうに。口で言ってみなよ、いい加減」 耳元で囁く、昂ぶりに掠れた低い声が、頭の内側まで煮え滾る欲望の油に火を注ぐ。 気が急いて上ずった声をもはや隠せなくなった秀は、自分の片脚を勇次の腰に無理に絡ませる。 息遣いばかりで言葉にならない半開きの唇を、至近距離の男のそれに押し当て、 烈しいまぐわいを想起させるように舌を深く差し入れた。 「・・・・・」 ちゅ、と二人のあいだに立つ水音に、勇次の細めた切れ長の瞳が満足げな好色の光を宿す。 ぎりぎりにならねば引き出されてこない秀の貪欲さに応えて、 腹の下で硬く脈打っていたものを大きく割り開かせた腿に擦り付ける。 深すぎる快感の根っこには、精神的な充足がある。 勇次とするのがたまらなく好いのは手管の巧みさのみならず、 己のすべてを委ね明け渡せるからこそ、という真実。 秀も気が付いてはいるが、あくまで割り切った仲だと自分には言い聞かせている。 三味線屋の存在は、仕事人としての生を全うするあいだだけの関係に限定させておかねばならない。 この心を勇次に知られ、利用されてしまわぬように。 勇次が傷痕に触れるのを好むのは、勇次自身のため。 同じ罪を背負う獣同士がたがいに届かぬところについた傷を舐めあうようなもの。それだけのこと。 きっとそうに違いない。 |