秀は途中から、うわの空で話を聞いていた。 依頼の簪を数本、得意先に届けた先で、そこの女中頭にちょいと頼み事があるとそっと声をかけられた。 ここに来る途中からまた降りだした雨がいまはいよいよ本降りになってきて、客足が店先からちょうど途絶えたところだ。 本来なら裏に回るところだが、折しも店の者たちが休憩で奥に引き取ったので、出涸らしでよけりゃお茶でもいうことだった。 出涸らしでもなんでも雨に冷えた体には有難い。 女中頭のおかつの頼みというのは、他でもない簪を作って欲しいとの話だった。上がりかまちに腰かけ、 熱いだけが取柄のお茶を啜りつつ聞いていた秀は、店の格子越しに通りを歩いてくる見覚えのある姿を見つけて、目と意識を奪われた。 一つの傘に収まり歩いてくる男と女・・・。 品のある物腰の年のころ二十六、七くらいの小柄な女で、明るい藤色の着物に芥子色の亀甲柄の帯をしていた。 どこかのお店(たな)のおかみにしては上品すぎる。 武家の女だろうかと秀は思った。 女の抱える風呂敷の形から、三味線の稽古のあと送って貰っているのではないと察しがつく。 男は女と狭い傘のなかで体が触れ合わぬよう、大きく片方の肩を外にはみ出させていた。 女が顔を上げて何かを言い、男が愛想よく首を横に振った。 片袖をぐっしょりと濡らした姿でも、そこは勇次ならではの色気がかえって引き立つ。 二人はごく自然なやりとりをしながら店の前を行きすぎてゆく。 と、秀の目の前でしきりに吹き込む風が、店ののれんを大きくめくりあげた。 「ねぇ、聞いてるのかい、秀さん?」 ハッと我に返った秀は、慌てて傍らにいる女中頭を顧みた。 「聞いてたさ。こないだと同じ細工がいいってんだろ」 「同じは同じでも、あんなのあたしが買えるわけがないよ。だからお古の直しは出来るのかって聞いてんの」 「そりゃまあ出来るぜ。でもおかつさん、そいつはおっかさんの形見なんだろ」 やっぱり聞いてなかった、とおかつは丸顔の真ん中にちょこんとついた低い鼻に皺を寄せた。 「だから形見でもいいんだってば。あたしが持ってたって挿すわけないんだから。 作り替えておきよにやったほうがおっかさんもあの世で喜ぶさ」 おかつの六つ下の妹が近く、奉公先の手代と所帯を持つことになった。 おかつは死んだ母親の形見の簪を、若い新造に合うような細工に作り直して欲しいと言うのだ。 「おっかさんは、あたしにはめっぽう厳しくって、おきよは猫かわいがりしてたっけ。だからもう、簪なんかに未練はないのさ」 この仕事をしていると、女たちから簪にまつわるさまざまな事情を漏れ聞くこともある。 ふだん店の男衆(おとこし)にも引けを取らないさばさばした威勢の女中頭の、 ついでのように付け加えた声音に複雑な心情を読み取った秀は、おかつの気持ちを救い上げるようすぐさま頷いた。 「その簪預からせて貰うぜ。あんたの頼み通り、こないだ店に届けた細工に近いものに作り直してやるよ」 パッと顔を明るくしたおかつが、ちょっと待っててと簪を取りに戻っているあいだ、 手持ち無沙汰の秀の脳裏にさっきの光景がよぎる。 おかつに遮られてしまったが、あの時めくれ上がったのれんの先、勇次の切れ長の目と一瞬かち合ったような気がしたのは、 思い過ごしだろうか。 (・・・なんでぇあの女たらしは。俺にはいつでも来いよとか言ってたくせに・・・) 勇次の上手い口説きに乗せられたふりして、ある晩酔った勢いで関係を結んでしまった。 以来、酒に誘われたらもれなくそっちの用事も付いてくるといった暗黙の約束が、ふたりの間にはいつしか出来上がりつつあった。 裏の仕事に支障が出ない程度の、ほんの戯れ合いだと互いに分かっている。 生と死のあわいに身を置くものが、同じ淵に立つ者でなければ感じえない生の刹那の悦びを一時的に分かち合う相手として、 子をなすこともましてや所帯を持つことも考えなくてよい秀に目をつけたのは、 さすが八丁堀などに伊達に色男と揶揄されるだけのことはある。 しかしそういう仲にある男が、普段の生活の行動圏内のなかに居たら居たで、落ち着かない気持ちにもなる。 勇次が女と連れ立っている場面などこれまでだって飽きるほど見てきたのに、今日のように唐突に目の当たりにすると、 鉄の手でギュッと心臓をわしづかみにされた気がした。 最後に会ったのは、前回のおつとめの後。密室に立ち込める血の匂いに酔ったのか、 すべてが終わったあと珍しくふたりの視線が闇のなかで絡んだ。仕事の場所とは逆方向にある場末の茶屋で密会し、 もつれるようにして床に倒れ込んだのは、この雨が降り始める以前の出来事だった。 あれから数日して降りだした雨は、今日でもう連続して二十日以上降り続いているらしい。 河川の氾濫や商売への障りを危惧する商人(あきんど)たちの会話が、きれぎれに秀の耳にも届いている。 (・・・ばっかばかしい。あいつが誰とどこで何をしてようと、俺が気にすることじゃねぇや。時間の無駄だ) 秀は湯呑の底の残りを飲み干すと、勢いつけて立ち上がる。折よくおかつが戻ってきた。なにか後ろを振り返りつつ、 妙な顔をしている。小脇になぜか真新しい番傘を挟んでいた。 「はい。悪いけどなるべく早く頼むよ」 「ああ。任せときな」 預かった簪を布に包んで懐に入れた秀は、本降りの雨の中に走り出て行こうとしたが、ちょぃと待ってと慌てたおかつの声が引き留める。 「待って待って、これをあんたにって」 差し出されたのは、いまおかつが小脇に挟んでいた傘だった。 「いらねぇよ。しかも新品じゃねぇか」 秀が戸惑って即座に首を横に振る。若造がと軽く見られつつもそこそこの注文を貰えるようになったとはいえ、 腕一本が信用につながる出入り職人だ。店の隅で出涸らしのお茶をふまわれるだけでも有難いと思わねば、 いつ番頭や旦那の気が変じるかなど、ここのところの空模様と同じくらいあてにならない。 こんな傘など貰った日には、かえって薄気味悪いというものだ。 「違うんだって、うちからじゃないよ。さっき裏に男のひとが立ち寄ってさ、これをあの若い職人に遣ってくれと・・・」 おかつの言葉が皆まで伝わらぬうちに、秀には脳裏にひらめくように、あの水に濡れた色男のいけ好かない涼しい笑みが浮かび上がった。 「なっ・・・。よけいな真似しやがって・・・」 秀の動揺を見たおかつが、覚えがあるのかという安心した笑顔になって、新品の傘を秀の濡れた半纏に押し付けてきた。 「良かったじゃないか、あんた。いまどきこんな世知辛い世の中でさ、黙って知り合いに新品の傘なんか差し入れしてくれるお人なんて、 めったにいるもんじゃないよ」 「ちぇっ、誰も頼んでねぇよ、そんなこと」 つい地声で口走った秀の妙な子供っぽい意地の張り方に、おやとおかつが面白そうな目を向ける。 店の男衆たちより気取りのない語調が気に入ったらしい。血気盛んな若いものを宥めるようにほらほらと背中を押し出した。 「よくわかんないけど、そうゆう人の恩はありがたく受けとくもんだよ、秀さん。あんたまだ若いんだから、 どこでそれが役に立つか知れないよ。あんたの腕を見込んだいいお得意さんなんだろ?あの色男?」 「・・・・・」 たとえ一瞬でも、目についたものを見逃さないのは、勇次も秀もさすがに裏の仕事で培ったいわば職業的に身についたものである。 しかしあの間隙を縫って、どこぞの店先で買った新しい傘を言づけてゆくとは。自分は濡れているくせに。 秀が傘など持たないことを先回りして読まれているのも癪に障る。人に傘を使わせておいて、自分は女とひとつ傘のしたで 片袖濡らしているほうが良いということか。 おかつに押し付けようとしたものの、カッコつけてんじゃないよ!とバシッと背中を叩かれた。 仕方なく受け取った傘をやけくそ気味に開こうとしている秀のかたわらで、おかつが思い出すようにうっとりした声で呟いている。 「それにしても女のひとを待たせてわざわざ傘の付け届けなんてさぁ。びしょ濡れでもなんでも、好い男は何やっても様になるねぇ・・・」 珍しく晴れ間が見えたある日、勇次が秀の長屋を訪ねてゆくと、隣に住むなんでも屋の加代が、 姉さん被りをして外に出した畳を盛大に叩いているところに出くわした。 「あれっ、珍しいね」 勇次を目にするなり、きらりっと大きな目を輝かせると駆け寄ってぐっと身を寄せてきた。 「ねねね。なにか仕事??」 「いや・・・。ちょぃと秀に用があってな」 なあんだ、とあからさまにがっかりした表情になる。 「秀さんならたしか居ないよ」 二人して覗いてみたが、がらんと物の少ない部屋に差し込む光が、宙に漂う細かなほこりを照らし出しているだけだった。 「あたしが言付かってやろうか?」 あわよくば何とかその用とやらのおこぼれに預かろうとする加代に、さしもの勇次もたじたじとなる。 先日の雨の折り、偶然にもとある店先で秀と目が合った。あれから一向に姿を見せない秀に焦れて、 つい足が向いたのだったが、この伏兵がいたのを忘れていた。 「せっかく来たからここで待つさ」 「いつ帰ってくるのかわかんないよ」 諦めてつまらなさそうに箒を振り回しながらぶらぶらと戻っていった加代が、あ、そうだとふと勇次を振り返る。 「ねぇ勇さん。秀さんばっかりに用じゃなくて、あたしにもなんか頼んでおくれよ。恋文の付け届けくらいならいつでもするからさ」 帰ってきた秀は長屋の戸口を横に引くなり、ぴくりと肩を揺らしてその場に固まった。 上がり口の隅に腰かけ柱に凭れかかった男が、腕組みをしたまま目を閉じている。 「――――」 そっと戸口を閉めると、薄暗い部屋のなか秀はしばらく動けずにその姿を見つめていた。待ちくたびれて寝てしまったらしい。 いったいどのくらい待っていたのだろう。心臓の脈打つ音が自分の耳にも聴こえた。 端正ではあるが普段より気を抜いた寝顔にじっと目を当てる。あらためてその存在がここにいることを噛みしめて凝視していると、 オレのものにならねぇかと冗談めかしていいながら、目は怖いほど真摯だったあの夜の勇次を思い出し、苦しいほどに胸が高鳴る。 ふらりと近づきその白い頬に指で触れかけ、すんでで秀はとどまった。溜息を飲み込むと、眠る男に背を向けた。 「勇次。起きろよ」 「・・・?」 しばらくのち。低く呼びかけられ肩を何かでつつかれた勇次がフッと目を開けると、秀が無表情に見下ろしていた。 「・・・いつ戻った?」 「・・・たったいまさ」 感情を表に出そうとしないその顔と、手にした傘の柄の先っぽを交互に見た勇次は、 苦笑して手の甲でそれを退けた。 「ガキかよ、まったく。もうちっと色っぽい起こし方は出来ねぇのか」 「俺は女じゃねぇから無理だ。それよりおめぇ、何しに来たんだ」 「用がなけりゃ、おめぇに会いに来ちゃいけねぇかい」 絶句する秀の手首を、勇次が逆手に掴む。勇次の切れ長の目が下から秀を見上げた。 意思をはっきりと伝えてくる青みがかった黒い瞳。ジンとくる甘苦い痺れが秀の総身をひそかに奔る。 「おめぇの帰りをずっと待ってたんだぜ」 「・・・」 かすかに戸惑った顔を一瞬で反らした秀が、何か口の中で呟いたのを、勇次は耳ざとく聞きつけた。 「傘?」 「・・・相傘で歩くような相手がいるなら、俺には構うなよ」 「あの、雨の日の女のことを言ってるんなら、おめぇの勘違ぇだ、秀」 勇次がにやりとして秀の顔を覗き込もうとする。 「寺の門前で急な雨に降られて、傘を取りに戻るには約束に間に合わないからと、通りすがりのオレに声をかけてきたのさ」 「・・・・・」 「それと期待に添えずに悪いが、残念ながらお武家の内儀殿さ。好い女には違ぇねえが命がけで手を出すほどでもねぇ」 勇次の軽口にも秀は目を合わせられなかった。勇次の行動を縛る権利など自分にはない。それは勇次にとっても同じことだ。 だが勇次の言葉やまなざしから伝わる熱を感じて、つい口に出さずにいられなかったのだ。そんなにも優しい嘘を 誰にでも平気でつけるのかと。あの内儀のほうはあきらかに、勇次に淡いときめきを覚えているようだった。 「もういい。わかったから放せ、勇次」 「わかっちゃいねぇよ、おめぇはまだ」 勇次が立ち上がりざま、掴んでいた手首を自分のほうに引いた。すっかり乾いている番傘がばさりと土間に落ちた。 身を引こうとする秀の肩を長い腕が捕えてぐっと胸に抱き寄せる。軽く頬が触れ合った。 「ま・・・そうしておめぇが妬いてくれたんなら、女を送ってやった甲斐もあったな」 耳元の囁きに抱いた体がかすかに震えたようだ。 「誰が妬くかよ、ばか。自惚れるんじゃねぇ」 勇次が笑って顔を傾けると、ムッとした形の良い唇に自分のそれを合わせてきた。 軽く塞がれて秀がひくりと顎を上げる。二度、三度と唇を押し付け、薄く開いた口元に勇次が舌先を挿し入れたときには、 ようやく強張っていた肩の力が抜けた。 触れ合ってみれば意地を張った甲斐もなく唇が離せない。ふたりが久しぶりのその行為にひとしきり没頭するあいだ、 秀の手が意識せずに勇次の着物を時おり強く掴み引き寄せる。 きついまなざしや棘のある言葉とは裏腹の、正直な反応が勇次の欲を煽った。 からだを許すそのときだけ、秀は勇次に素直になる。 一言も口を利かないが、愛撫に息をみだらに震わせ、勇次と身を繋げられて苦し気に悶えながらもきつく首にしがみついてくる。 オレのものにならねぇかとたしかに言った。が、手に入れたというには到底足りない。 勇次が欲しているのはそれだけではない。 「・・・このまま―――」 「だめだ。いま加代がいる」 尻のあたりに回った手に秀がはたと我に返ってそれを払いのけ、即座に拒否する。 自分だってそんな切ない目で見つめ返しておきながら。 いつ押しかけてくるか分からない神出鬼没の加代に、この関係を感づかれることを本気で警戒しているらしい。 勇次としては、べつだん加代に知られたところで、かえって隠す必要もなくなるし困ることは何もないのだが。 苦笑した勇次が秀の肩口に頭を乗せかけ、溜息をついた。落とした視線の先に、土間に転がった真新しい番傘が目にとまる。 「そうか・・・。思いついたぜ」 「なにがだよ?」 喉の奥で低く笑い出した勇次を、怪訝な貌で見返す。勇次は秀の暗がりでも赤らんで見える頬に手の甲で触れ、囁いた。 「加代がいねぇときには、おめぇんちの外に傘を立て掛けておいてくんな」 「?どういうこ・・・」 訊き返しかけた秀が、言葉を止める。勇次の言いたい意味がどうやら分かったらしい。 代わりに見るからに厭そうな表情を浮かべて、涼し気な目元を笑わせたままの男を睨む。 「間男が好んでやりそうな手口だぜ」 「この際なんだっていいじゃねぇか。加代がおめぇの女房ってわけでもあるめえ」 「あったりめぇだ!シャレにもなんねぇこと言うな」 心底ぞっとしたような秀の反応に、また勇次が笑って言った。 「それもまた乙だけどな。オレとしちゃ、おめぇに逢えりゃなんだって構わねぇさ」 勇次が帰っていったあと、秀はぼんやりと敷きっぱなしの薄布団のうえで、裸のままあぐらをかいていた。 結局そのままでは終われずに、あれからふたりは二間続きのほんの小さな狭苦しい寝間を締め切って、 短いが激しい情を交わしたのだった。 息を殺しながら互いを食らい尽くすように絡み合う。危険な相手と遭ってしまった。 引きずり込まれるような快感に翻弄されている間にも、秀のなかに小さな惧(おそ)れを生み出したなにか。 (あいつの目を見るのが・・・) 水鏡のような艶やかな黒い瞳の表面に自分が映しこまれていると、なにか心のもっと奥底にある、 秀自身も自覚しない、否、知りたいとは思っていない部分を透過されている気がしてならない。 ただの体だけの関係、それだけで十分なはずなのに。 なぜ勇次は、ああして自分のことを見つめてくるのだろう。 それともそれは、秀の思い過ごしにすぎないのだろうか。 「・・・・・」 乱れた髪をかき上げ、ふいに喉の渇きを思い出した秀は半分開いた板戸から、なんとなく土間を見た。 水甕の脇に、番傘が立て掛けてあるのが目にとまる。 『加代がいねぇときには、おめぇんちの外に傘を立て掛けておいてくんな』 あたかもふたりだけの符丁を取り決めるときの艶めいた声で、愉し気に勇次は囁いた。ばかばかしい、 とそのときは本気で思った。そうまでしてこの男に逢わねばならない義理もなければ、これまで通り生きるのに困ることもない。 それでも。 あの番傘はしばらくはあのまま一指も触れることなく放置されていることだろう。 しかしこの長雨が上がったのち―――。いつかはそれをそっと戸口の外に出す日が来ることを、秀は予測して小さな溜息をついた。 了
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